第15回党協議会における演説

トロツキー/訳 西島栄

【解題】この演説は、1926年10月16日の反対派の休戦声明(分派活動の停止を宣言した声明、『トロツキー研究』第42・43号所収)の後に開催された第15回党協議会におけるトロツキーの演説の全文である。この演説の中でトロツキーは、反対派に着せられたさまざまなレッテルに反駁するとともに、主としてヨーロッパ革命の観点からスターリンの一国社会主義論に反駁している。

 この協議会演説のために準備した「覚書」と比較してみると、そこで書かれたことの一部がこの演説の中でも生かされているが、かなりの部分が重なっていないことがわかる。「覚書」の方がより包括的であるのに対し、実際の演説の方は、党協議会の決議で反対派が社会民主主義的偏向を犯しているという非難にかなりの時間を割いて反論しており、また「一国社会主義論」についても、相当量のレーニンの文献を引用して反駁することに当てられている。

 底本は、1926年11月6日付『プラウダ』に掲載された演説全文であり、翻訳にあたってはパスファインダー社の『左翼反対派の挑戦』第2巻所収の英訳を参考にした。なお、小見出しはすべて『プラウダ』での表記にしたがっている。また、この演説に頻出する第15回党協議会の決議は、大月書店刊の『レーニン主義の敵=トロツキズム』に収録されている。

 РЕЧЬ Тов. ТРОЦКОГО, Правда, 6 Ноября 1926.


   論争上の諸問題

   「わが国の革命の性格」

   資本主義へか社会主義へか

   これは「トロツキズム」か?

   農民との関係

   レーニンと一国社会主義

   新しい理論

   結論


 

 トロツキー 同志諸君! 決議[第15回党協議会の決議案]は、私を含む反対派を社会民主主義的偏向だとして非難している。私は、ごく最近の時期、すなわち「反対派ブロック」という呼称が使われるようになった時期において、中央委員会の少数派と多数派とを分けているあらゆる論争上の諸問題を改めてよく点検してみた。そして、次のことを確認しなければならない。あらゆる論争上の諸問題、およびこれらの諸問題に関するわれわれの見解は、「社会民主主義的偏向」という非難に対するいかなる根拠も提供するものではない、と。

  

   論争上の諸問題 

 トロツキー 同志諸君、われわれが提起した第1の問題は、現在の時期においてわれわれを脅かしている危険性はいかなるものか、である。その危険性は、国営工業が立ち遅れていることなのか、それともそれがあまりにも先走りしていることなのか? 私を含む反対派は、われわれの前に立ちはだかっている危険性は、わが国の国営工業が国民経済全体の発展から立ち遅れていることにあることを明らかにしてきた。われわれが指摘してきたように、国民所得の分配の分野で追求されている政策は、この不均衡をいっそう増大させるものとなっている。このことを指摘する立場は何ゆえか悲観主義というレッテルを貼られてきた。同志諸君、算数には、悲観主義もなければ楽観主義もない。経済統計には、悲観主義も楽観主義もないし、確信の欠如もなければ屈服もない。数字は数字である。ゴスプランの目標数値を取り上げるならば、昨年、不均衡が――あるいは、より正確に表現すれば、工業財の不足が――総計で3億8000万ルーブルになると予想されていたのに、今年それが5億ルーブルにもなること、すなわち、当初のゴスプランの目標数値を25パーセントも上回ることがわかるだろう。

 同志ルイコフはそのテーゼの中で、不均衡が今年はこれ以上増大しないだろうと希望することができる(希望するだけだ)と述べた。この「希望」はいったい何にもとづいているのか? それは、収穫がわれわれ全員が期待したよりも悪いということにもとづいている。われわれの批判者たちの例の誤った手法にしたがうならば、私はこう言うことができたろう。刈り入れ期における悪条件のせいで、本来は悪いものではなかった収穫がダメージを受けたことを、同志ルイコフはテーゼの中で歓迎している、なぜならもし収穫がもっと多ければ、いっそう不均衡が拡大しただろうからである、と。

 ルイコフ 私は違う意見だ。

 トロツキー 数字は自ずから語っている。

 会場からの声 貴君はどうしてそのことを同志ルイコフの報告に関する討論で言わなかったのだ。

 トロツキー 同志カーメネフがすでに、どうしてわれわれがそうしなかったかについて、ここで諸君にお話した。その理由は、われわれがすでに4月総会で提出した修正案以上のものを、修正案ないし議論の形でこの特別の経済報告に付け加えることができなかったからである。4月総会において私および他の同志たちによって提出された修正案およびその他の提案は今日もなお完全にその効力を保持している。しかし、4月以降における経済的経験はどうやら、この協議会に出席している同志たちの考えを変えることができると期待するにはまだあまりにもわずかなものであった。経済生活の実際の歩みがそれを検証に付す前にこれらの争点を改めて持ち出すことは、雰囲気を先鋭化させるだけであろう。新しい経験が数字による検証を与えるならば、これらの問題は必然的に党にとってより受け入れやすいものになるだろう。なぜなら、客観的な経済的経験は、目標数値が楽観主義的なものなのか悲観主義的なものなのかという形で意見の相違を検証するのではなく、別の形で、すなわち単にそれらが正しいものであったかどうかという形で意見の相違を評価するからである。私は、不均衡に関するわれわれの観点が正しいものであったと信じている。

 われわれは工業化のテンポをめぐって論争してきた。そして私は、現在のテンポが不十分なものであり、まさに工業化におけるこの不十分なテンポが農村で進行中の階層分化の過程にきわめて重大な影響を及ぼすものだと指摘してきた者の一人である。たしかに、クラークが頭をもたげてきたこと、あるいは――これは同じコインの裏面だが――農村における貧農の比重が下落しているという事実には、今のところまだ破局的なものは何もない。これは、過渡期における困難な諸現象の一つであり、病的な現象である。もちろん、「パニック」に陥る理由はまったくない。しかし、これらの現象は正しく評価されなければならない。そして、私は、農村における階層分化の過程が、工業が立ち遅れる場合には、すなわち不均衡が増大する場合には、危険な形態を取りうることを主張する者の一人である。反対派は、この不均衡を年々減少させることがわれわれの義務だと主張する。同志諸君、私は、この主張のうちに何か社会民主主義的なものがあるとは思わない。

 われわれが主張してきたように、農村の階層分化は、農民の各階層に対するより柔軟な租税政策を必要なものとしている。すなわち、農村のより貧しい中農には税金を減額し、より裕福な中農にはより高い税金を課し、クラークには精力的に圧力をかけること、とりわけ、商人資本とクラークとのスムイチカに対しては厳しい圧力を加えることである。われわれは、貧農の40パーセントは完全に税金を免除すべきだと提案した。われわれは正しかったのか間違っていたのか? 私は正しかったと信じている。諸君は、われわれが間違っていたと信じている。しかし、この問題における「社会民主主義的」なものというのは、私にとって一個の謎である。(笑い)

 われわれはこう主張した。わが国工業が立ち遅れている状況のもとで農民内部での階層分化が増大していることは、政治の領域において二重の予防手段をとることを必要ならしめている。もはやわれわれは、クラーク、雇用主、搾取者の選挙権の拡大――たとえそれがささやかなものであっても――に対していささかも寛容な態度をとることはできない。小ブルジョアジーの投票権を拡大した例の有名な選挙規定に対して、われわれは警鐘を打ち鳴らした。われわれは正しかったのか間違っていたのか? 諸君は、われわれの警鐘が「誇張したもの」だとみなしている。なるほど、そう仮定したとしても、しかしここでも「社会民主主義的」なものは何もない。

 われわれは、農業協同組合によってとられている路線、すなわち、総じてクラークの別名でしかない「高い生産力を持った中農」を優遇する路線は厳しく非難されるべきであると要求し提案してきた。われわれは、信用組合が裕福な農民を優遇する方向に「少しシフトした」(これは政治局での報告の中で用いられた用語である)ことは非難されるべきであると主張した。私にはいっこうに理解できないのだが、同志諸君、このどこに「社会民主主義的」なものがあるのか?

 賃金の問題に関しても意見の相違が存在する。この意見の相違の本質は、われわれが次のようにみなしてきたし、今もみなしていることにある。わが国における工業と経済の現在の発展段階においては、そのすでに達成された水準においては、賃金問題は、労働者は労働生産性をできるだけ早急に増大させなければならない、そうすれば後で賃金が上がるだろうというような仮定にもとづいて解決されるべきではなく、その逆が原則とならなければならない、すなわち、たとえ控えめなものであってもまずもって賃金が上昇しなければならず、それが労働生産性向上の前提条件でなければならない、という原則である。

 会場からの声 その資金はどこからくるんだ?

 トロツキー この見解は正しいかもしれないし、そうでないかもしれない。しかし、そこには「社会民主主義的なもの」は何もない。

 われわれは、わが党の内部生活のさまざまな側面と官僚主義の成長とのあいだには関係があると指摘した。この点に関しても「社会民主主義的なもの」は何もないと思う。

 われわれはさらに、資本主義安定化の経済的諸要素の過大評価に反対し、その政治的諸要素の過小評価に反対してきた。たとえば、われわれは、現時点でイギリスにおける経済的安定化がいったい何にもとづいているのかと問い正した。実際には、イギリスはますます零落しつつあり、その貿易収支は赤字で、外国貿易は縮小し、生産は衰退している。これがイギリスにおける経済的「安定化」なるものだ。では、イギリスのブルジョアジーはいったい誰のおかげで持ちこたえているのか? ボールドウィン(1)でもなければ、トーマス(2)でさえなく、パーセル(3)のおかげである。このパーセル主義体制こそ、イギリスにおける現在の「安定化」の別名である。まさにそれゆえわれわれは、ゼネストに決起したイギリス労働者階級の面前で、直接的であれ間接的であれパーセルと手を結ぶことは根本的な誤りであるとみなしたのである。これこそ、われわれが英露委員会の解散を要求した理由である。ここにはいかなる「社会民主主義的」なものもない。

 われわれは、わが国の労働組合の規約を再改定するよう強く求めた。この問題についてすでに私は中央委員会に報告している。昨年、組合の規約が改定されて、「プロフィンテルン」という言葉が削除され、「国際労働組合連合」という言葉に置き換えられた。この言葉は、どんな善意をもってしても、「アムステルダム」(4)のことを言っているとしか解しえないものである。私は喜びをもって確認するのだが、昨年の改定の再改定はすでになされており、「プロフィンテルン」という言葉が再び組合の規約に挿入された。にもかかわらず、「社会民主主義的なもの」を懸念しているのは何ゆえなのか? 同志諸君、私にはまったくもって理解不能なのだ。(笑い)。

 以上、私は、この間生じている意見の相違の主要なポイントを――もちろん、きわめて簡潔な形でだが――列挙しようとした。これらの問題に対するわれわれの見解の基礎にあるのは、われわれが、ネップの長期化と国際資本主義による包囲という諸条件のもとで、党と労働者国家の階級路線を脅かしている危険性が存在するとみなしていることにある。しかし、これらの意見の相違は、そして、そこにおいてわれわれがとった見解は、同志諸君、いかに複雑な論理を用いても、あるいはスコラ的な論理を用いても、「社会民主主義的偏向」とは解釈しようのないものである。

  

  「わが国の革命の性格」 

 トロツキー まさにそれゆえ、わが国の経済的・政治的発展の現段階によって生み出されたこれらの現実的な意見の相違――事実にもとづく深刻な意見の相違――を脇において、「わが国の革命の性格」一般の理解に関する過去の意見の相違に逆戻りしたり、あるいはそうした意見の相違をでっち上げる必要性が生じたわけである。すなわち、わが国の革命の現時点における意見の相違でもなければ、現在の具体的な諸課題に関する意見の相違でもなく、革命の性格一般の理解に関する意見の相違であるかのように解釈され、あるいは、今回の決議の中の表現によれば、革命「そのもの」、革命の「本質それ自体」に関わる意見の相違であるかのように解釈されたのである。ちょうどあるドイツ人〔カントのこと〕が「もの自体(an sich und fur sich)」について語った時のようにである。これは有名な形而上学用語であり、周囲の現実世界とのあらゆる結びつきの外部に革命を置くものである。それは、過去や未来から抽象され、いっさいのものが導出されてくる「本質」であるとみなされている。そして、この「本質」の問題に関して、私が、何と革命の9年目において、わが国の革命の社会主義的性格を否定する罪を犯したというのである! まぎれもなくそう書かれている! 私がそれを初めて知ったのは、まさにこの決議においてである。もし同志諸君が私の著作物からの引用にもとづいて決議を作成する必要があるとみなしたならば、そして、私の原罪たる例の理論(「トロツキズム」)を前面に押し出しているこの決議の主要部分を、1917年から1922年までの私の著作物からの引用にもとづかせようするのであれば、少なくとも、私がわが国の革命の性格について書いたすべてのもののうち基本的なものを選択しなければならない。

 申し訳ないが、同志諸君、問題の本質を脇において、私があれこれのことについて、いつかどこかで書いたものを引用するのは、苦痛でしかない。しかしそれでも、今回の決議が、「社会民主主義的」偏向という非難を正当化しようとして、私の書いたものからいくつかの文章を引用するのであれば、私も必要な情報を提供しないわけにはいかない。

 1920年、私は党から『テロリズムと共産主義』という著作を書くよう委任された。この著作は、カウツキーに反対するものであり、わが国の革命を非プロレタリア的・非社会主義的なものとするカウツキーの議論に反対するものであった。この著作は国内で大量に発行され、コミンテルンによって国外でも大いに流布された。この著作は、ウラジーミル・イリイチを含む最も近しい同志たちからまったく好意的に受け入れられた。同書はこの決議ではまったく引用されていない。

 1922年、私は政治局からの委任にもとづいて『帝国主義と革命のあいだ』というタイトルの著作を書いた。同書において、私はグルジアにおける特殊な事例を用いて、国際社会民主主義派の観点(彼らはグルジア問題を利用してわれわれを攻撃していた)を退けた。同書は、プロレタリア革命は小ブルジョア的偏見のみならず、小ブルジョア的制度をも投げ捨てる権利を有しているというプロレタリア革命の根本問題を改めて検証に付すことを目的としたものであったが、この著作もまた引用されていない。

 コミンテルンの第3回大会において、私は中央委員会を代表して報告を行なったが、その趣旨は、われわれが不安定な均衡の時代に突入したということであった。私が論争相手としたのは、今や社会主義の全世界的勝利まで革命と危機が絶え間なく続く時代に入ろうとしており、いかなる「安定化」もないし、ありえないと主張していた同志ブハーリンであった。当時、同志ブハーリンは私を右翼偏向(おそらくはこれも社会民主主義的偏向か?)として非難していた。第3回大会において、私はウラジーミル・イリイチと完全に一致して、自分が定式化したテーゼを擁護した。このテーゼの趣旨は、われわれが、革命の緩慢な発展にもかかわらず、わが国経済における社会主義的要素の発展を通じてこの時期をうまく乗り切るだろうというものだった。

 1922年の第4回大会において、私は中央委員会の委任を受けて、ウラジーミル・イリイチに続いてネップに関する報告を行なった。私の報告はどのようなものであったか? 私は、ネップが単に社会主義的発展の形態および方法における一つの変化を示すものにすぎないと論じた。しかし今では、私によるこれらの報告や著作物を取り上げる代わりに――これらのものの出来がよかろうと悪かろうと、少なくともそれらは基本的な文献であり、党を代表して書かれたものであって、1920年から1922年における時期のわが国の革命の性格を特徴づけている――、諸君は、同時期に書かれた著作の序文や後書きのごく一部の章句やほんの数行に飛びつくのである。

 繰り返すが、引用されている章句のいずれも基本的文献からのものではない。これら4つの小引用(1917〜1922年)は、私がわが革命の社会主義的性格を否定しているという非難の唯一の根拠を形成している。そしてこのような非難、このような原罪が構築された後に、さらにあらゆる想像上の罪がそこにつけ加えられ、1925年の反対派の罪さえもがつけ加えられている! より急速な工業化の要求や、クラークへの課税強化といった要求がみな、これら4つの文章から生じているというわけだ。

 会場からの声 分派をつくるな!

 トロツキー 同志諸君、諸君の時間を取ることを申し訳なく思うが、決議が私に着せているあらゆる罪を反駁するために、さらにもう少し多くの引用を行なわなければならない(何百という引用をしようと思えが可能なのだが)。まず最初に諸君の注意を促しておかなければならないのは、私の原罪たる理論を根拠づけている4つの引用文がいずれも、1917年から1922年までの私の著作物から取られていることである。まるでそれ以降、風がすべてをかき消してしまったかのように、私がわが国の革命を社会主義革命とみなしたのかどうかについて誰も知らないかのようだ。1926年末の今日、経済と政治の主要な諸問題に関するいわゆる反対派の現在の見解を確定するために、1917年から1922年までの私の個人的な著作物からの引用文が取り上げられている。しかも、私の基本著作からの文章でさえなく、まったく偶然的な機会に書かれた著作物から取られているのである。そこで同志諸君、これらの引用文に立ち返って、そのそれぞれについて答えようと思う。しかし、その前にまず、同じ時期に書かれたより本質的な性格をもったいくつかの文章を引用することを許していただきたい。

 たとえば、以下に引用するのは、ネップ導入後の1921年10月28日、モスクワの労働組合協議会の大会で私が行なった演説からの抜粋である。

 「われわれは現在、わが国経済のより緩慢な発展を予想してわれわれの経済政策を再編しつつある。われわれが考慮に入れているのは、ヨーロッパにおける革命が、発展・成長しつつも、われわれが期待したよりも緩慢に発展しているという事実である。ブルジョアジーはより強靭であることがわかった。資本主義諸国によって包囲されたわが国自身に関しても、社会主義への移行がより緩慢なものであることを考慮に入れなければならない。われわれは自分たちの力を最大かつ最も設備の整った企業に集中しなければならない。それと同時に、われわれは、農村における現物税と、貸借企業の増大とが、商品生産の発展、資本の蓄積、新ブルジョアジーの台頭にとっての基礎となることに目を閉じてはならない。しかし、社会主義経済は、大工業というより狭いがより強固な基盤にもとづいて建設されていくだろう」。

 同じ年の11月10日にモスクワのソコーリニキ地区で行なわれた党員集会において、私は次のように述べた。

 「さて現在の状況はどうなっているだろうか。われわれが前にしているのは、社会主義革命の過程であるが、それはまず第1に一国に限定されており、第2にその国家は経済的にも文化的にも非常に遅れていて、四方を資本主義諸国に囲まれている」。

 このことから私はどのような結論を引き出しただろうか? 私は降伏を提案したのか? いや私は次のように提案した。

 「われわれの課題は、社会主義の優位性を証明することである。……農民は、社会主義国家の優位性ないし立ち遅れを判定する裁判官となるだろう。われわれは農民市場において資本主義と競争しなければならない。……
 現在、われわれの勝利を確信する根拠は何であろうか? 多くの根拠が存在する。それは国際情勢のうちに存在するし、わが共産党の発展のうちに存在する。われわれが権力を完全に保持しているという事実のうちに存在するし、自由取引をわれわれが必要とみなした限界内でのみ認めているという事実のうちに存在する」。

 同志諸君、これは、1926年にではなく、1921年に言われたことなのだ!

 第4回世界大会での私の報告(それはオット・バウアーを批判したものだが、今では彼と私との友好関係が発見されている)で、私は次のように語っている。

 「市場にもとづいた経済闘争におけるわれわれの最も重要な手段は国家権力である。改良主義者の間抜けだけが、この武器の意義を理解することができない。ブルジョアジーは、このことをよく理解している。ブルジョアジーの歴史全体がこのことを証明している。
 プロレタリアートの握っているもう一つの武器は、国の最も重要な生産力である。つまり鉄道輸送の全体と、鉱業の全体と、製造業の企業の圧倒的多数が労働者階級の直接的な経済管理のもとに置かれている。
 また、土地は労働者国家に属しており、農民たちはこれを利用する代償として、1年に数億プードの農産物〔1プードは16・38キログラム〕の現物税を納めている。
 労働者の権力は国境を握っている。外国の商品や資本は一般に、労働者国家が望ましく許されると認めた範囲で、わが国への入場許可を得ることができる。
 以上が社会主義建設の武器と手段である(5)

 『日常生活の諸問題』という表題で1923年に私が出版した小冊子には、次のような一節がある。

 「現在、労働者階級は、これまでの闘争の結果としていかなるものを獲得し確保しているのか?
 1、プロレタリアートの独裁(共産党指導下の労農政府を通じたそれ)
 2、赤軍――プロレタリアート独裁の確固たる支え
 3、主要な生産手段の国有化――それなしには、プロレタリアート独裁は内容のない空虚な形式になってしまう。
 4、外国貿易の独占。それは、資本主義に包囲された社会主義建設の必要条件である。
 不動の獲得物であるこれら4つのものは、われわれの全仕事の鉄の枠組みであり、経済ないし文化の領域においてわれわれが達成するあらゆる成功は――それが真の成功であって、見せかけのものではないとすれば――この枠組みの中でこそ社会主義建設の必要な構成部分となるのである(6)

 この同じ小冊子は、他のさらに断固とした定式化を含んでいる。

 「ロシア・プロレタリアートにとって革命的変革が(もちろん相対的に)より容易なものであった分、それだけ社会主義建設の仕事はより困難なものになっている。しかし、他方では、先の4つの特徴によって示されたわれわれの新しい社会構造の枠組みは、経済と文化の領域において、あらゆる良心的で合理的に方向づけられたすべての努力に客観的に社会主義的な性質を与えるものとなっている。ブルジョア体制のもとでは、労働者は、彼の意図や望みとは関わりなしに、ブルジョアジーを富ませていたし、彼の仕事が優れたものであればあるほどますますそうなった。ソヴィエト国家では、良心的で優れた労働者は、彼が意図しようとしまいと(彼が党員ではなく、非政治的であったとしても)、社会主義建設に貢献し、労働者階級を富ませることになるのである。ここにこそ10月革命の意味があり、ネップといえども、この点では何も変えるものではない」(7)

  

   資本主義へか社会主義へか 

 このような引用の連鎖を無限に続けることも可能である。なぜなら、私はわが国の革命を別様に特徴づけたことは一度もなかったし、そのようなことはまったく不可能だからである。しかしながら、ここではもう一つの引用文だけに限定しておこう。それは同志スターリンによって引用された著作(『社会主義へか資本主義へか』)からのものである。この著作が最初に出版されたのは1925年のことであり、それは最初『プラウダ』で連載論文として公表された。わが党の中央機関紙の編集部は私に対し、この著作のうちにわが国の革命の性格に関する異端的な見解が見出せるとは指摘しなかった。この著作は今年になってから第2版を数え、コミンテルンによってさまざまな言語に翻訳された。しかしこれまで、この著作がわが国の経済発展について誤った観念を提示しているという話は聞いたことがない。同志スターリンはその中から恣意的に選び出された2〜3行の節を読みあげて、それが「不明確」なものであると宣告した(8)。そこで私はより長い一節を読み上げ、それがまったく明確なものであることを示さざるをえない。

 まず読み上げるのは序文の中の一節であり、わが国のブルジョアジーと社会主義的批判者、とりわけカウツキーとオットー・バウアーを批判したものである。そこにはこうある。

 「こうした判断――われわれの経済的方法に対して敵たちが行なった判断――には2つの系統がある。1つ目は、われわれについてこう言っている。われわれは社会主義経済を建設することによって国を破壊しつつある、と。2つ目は、われわれに関しこう言っている。わが国の生産力の発展は事実上、資本主義に向かっている、と。批判の第1の系統は純ブルジョア思想に見られるものである。批判の第2の系統は社会民主主義、すなわちカムフラージュされたブルジョア思想に固有のものである。この2つの批判の間には、はっきりとした分水嶺は存在していない。そして、しばしばこの親しい隣人たちは、共産主義の野蛮に対する闘争の聖なる歓喜の中で、それとは気づくことすらなくお互いの武器を交換し合うのである。
 本書は偏見のない読者に、どちらも嘘をついていることを、すなわち、あからさまな大ブルジョアも社会主義を装った小ブルジョアも嘘をついていることを示すであろう。ボリシェヴィキがロシアを破壊したと言う時、彼らは嘘をついている。なぜなら、まったく議論の余地のない事実が物語っているように、ロシアは帝国主義戦争によって、そしてその後は内戦によって破壊されたのであり、それにもかかわらず、ロシアの工業と農業の生産力は戦前の水準に近づきつつあり、次の1年間に戦前の水準に達するだろうからである。生産力の発展が資本主義の方向に沿って進んでいると言う時、彼らは嘘をついている。工業、輸送、金融と信用制度の分野において、国の経済全体の中で果たしている国営経済の役割は、生産力が発展するにつれて減少しているどころか、反対に増大していっているからである。これについては、事実と数字とがこの上なくはっきりと物語っている。
 農業に関しては問題ははるかに複雑である。だがこの点で、マルクス主義者にとって思いがけないものは何もない。細分化した農業経営から社会主義的土地耕作への移行は、技術的・経済的・文化的な一連の連続した諸段階を通じてのみ考えられる。かかる移行の基本的な条件は、社会を社会主義に転化しようとする階級、国営経済を通じてますます農民に影響を与えることのできる階級、農業技術を向上させ、それによって農業集団化の前提条件を作り出す階級、こうした階級の手に権力を保持することである」(9)

 反対派に関する決議は、トロツキーの観点がオットー・バウアーの観点に非常に近いと言っている。バウアーはこう言っている。「プロレタリアートが国内のわずかな少数派でしかないロシアでは、プロレタリアートが自らの支配を一時的にしか維持できない」「国民の大多数をなす農民が自ら支配権を掌握することができるほどまでに文化面で成熟するやいなや、プロレタリアートは不可避的に権力を再び失うだろう」。

 まず第1に、同志諸君、このような馬鹿馬鹿しい定式化がわれわれのうちの誰かの頭に思い浮かぶなどという考えをいったい誰が抱いているのか? 「国民の大多数をなす農民が文化面で成熟するやいなや」とはいったいどう理解するべきだというのか? それはどういう意味か? 「文化面」とはこの場合何のことを言っているのか? 資本主義の条件下では、独立した農民文化なるものは存在しないし、農民は文化面に関してはプロレタリアートの指導下かブルジョアジーの指導下で成熟しうるだけである。これは、農民の文化的発展に関しては、これら2つの可能性しかない。「文化的に成熟した」農民がプロレタリアートを打倒し、自分自身の力で権力を奪い取ることができるという考えは、マルクス主義者にとって、最も俗悪な迷信である。われわれは2つの革命の経験から、レーニンの解明にもとづいて、次のことをあまりにもよく知っている。もし農民がプロレタリアートと衝突し、プロレタリアートを打倒するにいたったら、それは――ボナパルティズムを通じて――ブルジョアジーのための架け橋を形成するだけである。プロレタリアートの文化にもブルジョアジーの文化にももとづかない新しい文化に立脚した独立した農民国家なるものは不可能である。まさにそれゆえ、オットー・バウアーのこうした概念構築物の全体は、惨めな小ブルジョア的不条理なのである。

 われわれには社会主義の建設に対する確信が欠如していると言う者がいる。それでいて、われわれは、農民(クラークではなく、農民!)を「収奪」しようとしていると非難されている。

 思うに同志諸君、このような言葉はそもそもわれわれの辞書にはない言葉である。共産主義者であれば、労働者国家が農民を「収奪」すべきだなどと提案することはできない。だが問題になっているのは、まさにこの農民である。貧農の40%の税金を免除し、その分をクラークに課すという提案は、正しいかもしれないし間違っているかもしれないが、しかし、それはけっして農民を「収奪」することではない。

 諸君に尋ねるが、もしわれわれがわが国に社会主義の建設に対する確信を持っていないのだとすれば、あるいは、(私に関してそう言われているのだが)われわれがヨーロッパ革命を受動的に待つべきだと提案しているのだとすれば、どうしてわれわれは農民を「収奪」するよう提案しているというのか? いったいいかなる目的のために? まったく理解不能である。われわれは、工業化――社会主義の基礎――があまりにもゆっくりとしか進んでいないこと、これが農民に打撃を与えているという意見を持っている。たとえば、市場に出された農産物の量が去年よりも20%増大し――私はこの数字を条件的に出している――、それと同時に穀物価格が8%下落し、さまざまな工業製品価格が16%上がったとすれば、そのような場合には、農民は、収穫が減り工業製品の小売価格が下がる場合よりも損をしたことになる。工業化を加速させること、とりわけクラークへの課税強化を通じてそうすることは、工業製品の生産量の増大と小売価格の引き下げにつながり、労働者と、農民のより大きな部分にとっての利益になるだろう。

 諸君はこの提案に同意しないかもしれない。しかし、誰も、それがわが国経済の発展を目指した一個の体系的な見解であることを否定することができないだろう。どうして諸君はわれわれに、「君たちは社会主義的発展に対する確信を持っていないが、ムジークを収奪するよう要求している」などと言うことができるのか? 何ゆえか? いったいかなる目的でか? 誰もそれを説明することはできない。それは説明しようのないものであると私は断言する。それは説明不可能な事柄である。たとえば、私は時々自問するのだが、どうして英露委員会の解散の要求が労働組合から手を引くことの要求を意味するのか? さらに、アムステルダム・インターナショナルに加入しないことがどうして、労働者にアムステルダム系の労働組合に加入しないよう訴えることを意味するというのか? (会場からの声「説明してやるよ」)。私はこの問題に関する答えを受け取ったことはないし、今後もないだろう。(会場からの声「答えがなされるよ!」)。私はまた、われわれが社会主義の建設を信じていないにもかかわらず農民から「収奪」しようとしているということが、どうして両立しうるのかという問題への回答を受け取ることもないだろう。

 ところで、まさにこの著作(『社会主義へか資本主義へか』)で詳しく述べられているのは、わが国の国民所得を正しく分配することが重要であるのはまさに、わが国の経済発展が社会主義的傾向と資本主義的傾向という2つの傾向間の闘争の中で進行しているからだ、ということでである。

「闘争の結末は両傾向の発展のテンポによって決定される。これは言いかえれば、もし国営工業が農業よりも緩慢に発展するようになれば、そして農業がますます急速に両極のグループに、すなわち上層における資本家的農場主と下層におけるプロレタリアとに分離していくようになれば、この過程は、もちろんのこと、資本主義の復活に行き着くことであろう。
 しかし、われわれの敵がこの展望の不可避性を証明しようと試みるというなら、そうさせておこう。たとえ、彼らが哀れなカウツキーよりも巧妙にその仕事にとりかかったとしても、手を焼くことであろう。しかしながら、今しがた与えられた展望はありえないことであろうか? 理論的には、ありえないことではない。もし政権党が政治の分野においても経済の分野においても誤りに誤りを重ねる場合には、それによって党が工業の成長――それは今やかくも前途洋々たるものなのだが――にブレーキをかける場合には、そして党が農村における政治的および経済的過程に対する統制を失う場合には、もちろんのこと、わが国の社会主義の事業は敗北を帰すことになろう。しかしながら、われわれが予測をたてる際に、かかる前提条件にもとづくつもりはまったくない。いかに権力を失うか、いかにプロレタリアートの獲得物を放棄するか、いかに資本主義のために働くか、こうしたことは、1918年11月9日以来、カウツキーとその友人たちが国際プロレタリアートに立派に教えてきた。これに付け加えるものは何もない。われわれの課題、われわれの目的、われわれの方法は別物である。獲得された権力をいかに維持し強化するのか、いかにプロレタリア国家の形式を社会主義の経済的内容によって満たすのか、われわれが示したいと思うのはこのことである」(10)

 同書の中身全体は…(会場からの声「協同組合について一言もないぞ!」)…協同組合についても語られている。同書の中身全体は、どのようにして国家のソヴィエト的形態を社会主義の経済的内容で満たすべきかを論じている。次のように言う者がいるかもしれない(実際、そのような当てこすりがなされている)。「たしかに、君は、復興の過程が進行し続けているかぎり、そして、工業が年に45%ないし35%成長しているかぎり、われわれが社会主義に向かって前進しつつあることを信じていた。しかし、わが国が固定資本の危機に逢着したとき、君は、わが国の固定資本の更新と拡張における困難を前にしていわゆる『パニック』に陥ったのだ」。

 私は「発展テンポ、その物質的限界と可能性」の章全体(43頁以降)を引用することができない。それは、資本主義に対するわが国のシステムの優位性を特徴づけている4つの要素を指摘するとともに、次のような結論を引き出している。

 「これらの優位性は全体として、われわれがそれらを正しく利用するならば、次の数年間にすでに、工業の成長率を戦前の6%の2倍どころか3倍、いやおそらくそれ以上に高めることを可能にするだろう」(11)

 もし私の間違いでないとすれば、わが国工業の成長係数は18%に達する見込みになっている。もちろんのこと、ここでは復興の要素がからんでいる。しかし、いずれにせよ、私が1年半前に一例としてきわめて大雑把に行なった統計的予測は、今年における実際の発展テンポとかなり正確に一致しているのである。

  

   これは「トロツキズム」か? 

 トロツキー 諸君はこう尋ねるだろう、では、決議で引用されたあの恐るべき一節をどう説明するのだ、と。しかしながら、まずもって繰り返すが、1917年から1922年までのあいだに私が書いた基本的著作からのただの一言の引用もされていない。この沈黙は、1922年以降に私によって書かれたいっさいのものに関しても続いており、昨年のものにも今年のものにさえ続いている。引用されたのは4つの引用文だけである。報告の中で同志スターリンはそれらを詳しく取り扱い、決議の中でも言及されている。それゆえ、私がこれらの引用文に言及することを許していただきたい。

 「4、労働者運動は民主主義革命において勝利を獲得する。
 5、……ブルジョアジーは……反革命的となる。……農民の内部では、その富農的部分と、中農のかなりの部分もまた、より『利口』になり、落ち着きを取り戻し、プロレタリアートと農村の貧困層から権力を奪い取るために反革命の側に移行する……
 6、……もしヨーロッパ社会主義プロレタリアートがロシア・プロレタリアートを助けに駆けつけないならば、この闘争は、ロシアのプロレタリアートだけならばほとんど絶望的であろうし、……敗北は不可避であろう」(12)

 同志諸君、私は、誰かが諸君に、この引用文がトロツキズムの悪辣な産物であると教えたら、それを多くの同志たちが信じるのではないかと心配している。しかし、この文章はウラジーミル・イリイチのものである。『レーニン著作集』第5巻は、1905年末にウラジーミル・イリイチが書くことを予定していたパンフレットの草案を収録している。そこでは、次のような展望が記述されている。労働者が民主主義革命で勝利し、農民の富裕な部分と中農のかなりの部分が反革命の側に移行するという状況である。言っておくが、この引用文は、『ボリシェヴィーク』誌の最新号の68頁に引用されているが、不幸なことに、この抜粋は引用符をつけて示されているにもかかわらず、深刻に歪んだ提示のされ方をしている。すなわち、中農のかなりの部分に言及した語句があっさりと取り除かれているのである。諸君には、『レーニン著作集』第5巻の451頁と『ボリシェヴィーク』第19・20号の68頁とを比較するよう求めたい。

 ウラジーミル・イリイチの諸著作からはこのような文章を何十と引用することができる。たとえば、6巻の398頁、9巻の410頁、7巻第1分冊の192頁などである(これらを読み上げる時間はないが、誰でも自分で容易に確認することができるだろう)。

 ここでは一つだけ引用しておきたい。それは、第9巻の415頁からである。

 「ロシア革命(ここでは民主主義革命のことを言っている――L・T)はそれ自身の努力によって勝利することができるだろうが、自分自身の力だけではその成果を維持し強化することは多分できないだろう。もし西欧で社会主義革命が成功しなかったならば、そうすること[権力を維持すること]はできない。この条件なしには復古は不可避だろう。われわれが土地を自治体所有にしていようが、国有化していようが、分割していようが、である。なぜなら、所有のどの形態においても、小所有者は常に復古の礎になるだろうからである。民主主義革命の完全な勝利の後には、小所有者は不可避的にプロレタリアートに背を向けるだろう」(13)

 会場からの声 われわれはネップを導入した。

 トロツキー たしかに。このことには今から触れる。

 さてここで、私が1922年に書いた文章に戻り、1904〜05年期における私の革命観がどのように定式化されてきたかを見てみよう。

 同志諸君、私には、永続革命論の問題を提起する意図はさらさらない。この理論は――その中にある正しかった側面に関しても、また不完全で誤った側面に関しても――われわれの現在の論争とはまったく関係がないからである。この点については私は何十回も言明してきた。いずれにせよ、最近あまりにも多くの注意を向けられているこの永続革命論は、1925年の反対派に関しても1923年の反対派に関しても、いささかの責任も負っておらず、私自身でさえ、この問題はとっくの昔にアルヒーフに属すべき問題だとみなしているからである。

 さて、決議で引用された文章に戻ろう(たしかに、これを書いたのは1922年であるが、1905〜06年の観点から書いたのである)。

 「プロレタリアートはいったん権力を手中にしたならば……、革命期の最初の時期にはプロレタリアートを支持したすべてのブルジョア・グループのみならず、プロレタリアートが権力に到達するさいにともに協力し合った農民の広範な層とも敵対的な衝突に至るだろう」(14)

 これが書かれたのは1922年であるが、未来形で書かれている。プロレタリアートはブルジョアジーと衝突するだろう、云々というように。なぜなら、ここで書かれているのは革命前の予測についてだからである。諸君にお尋ねしたいのだが、1905〜06年におけるウラジーミル・イリイチの予測、すなわち、中農のかなりの部分が反革命の側に「移行する」という予測は正しかったのだろうか? 事実によって裏づけられたのか、裏づけられなかったのか? それは部分的に正しかったと私は主張する。

 会場からの声 部分的? どの点だ?(会場ざわつく)

 トロツキー たしかに、党の指導のもとで、何よりもイリイチの指導のもとで、われわれと農民との分裂は新経済政策によって克服された。これは議論の余地がないことである。(会場ざわつく)。同志諸君、諸君の中に、1926年にもなって私が新経済政策の意義を理解していないなどと想像する者がいるとすれば、それはとんだ誤りである。私はネップの意義を理解しているし、もしかしたら他の同志たちよりも不十分かもしれないが、それでも理解している。しかし、思い出してほしいのだが、まだ新経済政策が導入される前の時期に、それどころか1917年の革命が起こる前に、将来の発展の展望を最初に画き出していた時期、これまでの諸革命――フランス大革命や1848年の革命――で得られた経験を利用して、ウラジーミル・イリイチを含む(私はすでに引用した)マルクス主義者たちは、民主主義革命が成就され土地が農民に分配された後には、プロレタリアートは大農層だけでなく中農層のかなりの部分からの反対を受けるだろうし、これら農民は敵対的で、反革命的でさえある勢力となるだろう、という意見だったのである。

 こうした予測の正しさを示す「徴候」がわが国の経験の中にあっただろうか? そうだ、徴候はあった。しかもかなりはっきりとした徴候が。たとえば、ウクライナのマフノ運動が白衛軍によるソヴィエト権力の打倒を助けた時、それはレーニンの予測の正しさを示す一つの証拠であった。アントーノフの反乱、シベリアにおける反乱、ヴォルガにおける反乱、ウラルにおける反乱、クロンシュタットの反乱――この時「中農」は12インチの艦隊砲の言葉でもってソヴィエト権力と対話した――、これらはやはり、イリイチの予測がある程度まで正しく革命の発展を予測するものであったことを意味しているのではないだろうか?

 モイセーエンコ それで君は何を提起したのか?

 トロツキー 1922年に私によって書かれた、われわれと農民との分裂に関する例の引用文がこれらの事実を確認するものであることは、まったく明らかなことではなかろうか?

 われわれは、ネップによって農民との分裂を克服した。そして、ネップへの移行に関して意見の相違があっただろうか? ネップへの移行に際しては意見の相違はなかった。(会場ざわつく)。意見の相違があったのは、ネップへの移行前における労働組合問題をめぐってであった。その時、党はまだ経済的袋小路からの出口を求めていた。この意見の相違は深刻な意義をもっていた。しかし、ネップの問題に関しては、ウラジーミル・イリイチが第10回党大会にネップに関する決議を提出した時、われわれは満場一致でそれに賛成した。そして、新経済政策の結果として新しい労働組合決議が提起された時――それは第10回党大会の数ヵ月後のことである――、われわれは中央委員会でこの決議に再び全会一致で賛成したのである。しかし、この転換期においては――この転換は小さなものではなかった――中農を含む農民はこう宣言していたのである、「われわれはボリシェヴィキには賛成だが、共産主義者には反対である」と。これは何を意味していたのか? それは、当該段階における、プロレタリア革命からの中農の離反の特殊ロシア的形態を意味していた。

 私は、「革命ロシアが保守的ヨーロッパを前にして持ちこたえることができると考えるのは絶望的である」(15)と書いたことで非難を受けている。私はこれを1917年8月に書いたし、それは完全に正しかったと今でも信じている。われわれは保守的ヨーロッパに対抗して持ちこたえたのだろうか? 事実をよく見てみよう。ドイツが三国協商との講和条約を検討していた時、危険性はとりわけ重大であった。もしドイツ革命がこの時勃発していなかったら――ドイツ革命はもちろん中途半端なものであったし、社会民主党によって圧殺させられたが、それでも旧体制を打倒し、旧ホーエンツォレルン軍の戦意を喪失させた――、もしドイツが以前と同じままだったら、われわれは打倒されていただろう。この文章が「資本主義ヨーロッパを前にして」ではなく「保守的ヨーロッパを前にして」となっているのはけっして偶然ではない。そのすべての機関を、とりわけその軍隊を保持した保守的ヨーロッパを前にして――諸君にたずねるが――、われわれはこうした条件のもとで持ちこたえることができただろうか、それともできなかっただろうか? (会場からの声「子どもに向かって話しているつもりか?」)。同志諸君、われわれが今日でもなお存続しているのは、ヨーロッパが以前と同じままではなかったという事実のおかげなのである。レーニンはこの問題について次のように書いている。

 「われわれは単に一国家の中で生きているのではなく、さまざまな諸国家のシステムの中で生きている。そして、ソヴィエト・ロシアが帝国主義諸国と並んで長期間にわたって存続するというのは考えがたいことである。結局はどちらかが勝利するだろう」(16)

 ウラジーミル・イリイチがこう言ったのはいつのことか? 1919年3月18日、つまり10月革命の2年後である。1917年8月の私の言葉は、もしわが国の革命がヨーロッパを揺さぶらなかったら、ヨーロッパを動かさなかったら、そのときにはわれわれは持ちこたえることができないだろう、という趣旨のものであった。これらは実質的に同じ内容を言っているのではないだろうか? 1917年以前および1917年中にすでに政治的に思考していたより古い同志たち全員にお尋ねしたい。当時の諸君の革命観はいかなるものであったのか、そしてその結果はいかなるものであったのか、と。

 これを思い起こそうとするなら、おおよそ次のような定式以外のものを私は見出すことはできない。

 「われわれはこう考えてきた。国際革命がわれわれを助けにやってくるか(その場合にはわれわれの勝利は完全に保障されるだろう)、あるいは、われわれが敗北した場合でさえ、われわれは革命の大義に奉仕することになるし、われわれの経験が他の革命の役に立つだろうとの確信を持って、われわれのごくささやかな革命の仕事をはたすだろう、と。われわれにとって明らかだったのは、世界革命の助けなしにはわが国におけるプロレタリア革命の勝利はありえないということだった。革命以前に、革命後にさえ、われわれは次のように考えていた。資本主義的により発展した他の諸国に、今すぐにか、あるいは少なくともきわめて急速に革命が起こるだろう。もしその逆の場合には、われわれは滅びるだろうと」(17)

 これが、われわれの考えていた革命の運命であった。これを言ったのは誰か?

 モイセーエンコ レーニンだ!。

 会場からの声 それで彼は後に何と言ったのか?

 トロツキー レーニンがこれを言ったのは1921年である。それに対し私の文書からの引用は1917年の日付を持っている。したがって、私には、1917年の自分の発言に関して、1921年にレーニンが言ったことを参照する権利があるわけである。(会場からの声「だからレーニンは後に何と言ったんだ?」)。後に私も多少違うことを言うようになった。(笑い)。

 革命前においても、革命後においても、われわれは次のように信じていた――。

 「資本主義的により発展した他の諸国に、今すぐにか、あるいは少なくともきわめて急速に革命が起こるだろう。もしその逆の場合には、われわれは滅びるだろう」と。しかし、こうした確信にもかかわらず、「われわれは、どんな条件下であってもソヴィエト体制を維持するためにあらゆることをなすだろう。なぜなら、われわれは、自分たちのためだけに働いているのではなく、国際革命のためにも働いていることを自覚していたからである。われわれはそのことを自覚していたし、10月革命以前にも、革命の直後にも、ブレスト=リトフスク講和条約の締結のときにも繰り返しこの確信を表明していた。そして、一般的に言って、これは正しかった」(18)

 この一節は続いて、われわれの道がより複雑で入り組んだものであったこと、しかしその本質においてわれわれの予測が正しかった、と述べている。すでに述べたように、われわれは、いかなる意見の相違もなしに全会一致でネップに移行した。

 モイセーエンコ 滅びてしまわないようにだ!

 トロツキー そうだ、まさに滅びてしまわないようにだ。まさに滅びてしまわないようにそうしたのだ。そしてすでに述べたように、そのことに気づいたわれわれは、一致協力してネップに移行したのである。

 同志諸君、私の演説時間の延長をお願いしたい。一国社会主義論について語りたいと思っている。あと5分残っているが、さらに30分の時間延長をお願いしたい。(会場がざわつく)

 同志諸君、プロレタリアートと農民の問題に関しては…… 

 議長 われわれが決定を下すまでちょっと待ってもらいたい。みなさん何か提案はありますか? 3つの提案が出ました。第1の提案は、当初の決まりどおりにすること、第2の提案は30分の延長を認めること、第3は15分の延長を認めることだ。

 投票をする。30分延長に賛成の方? 挙手してください。15分延長に賛成の方。こちらの方が少数だ。では30分の延長を認める。

  

   農民との関係 

 トロツキー 私の著作から引用された第2の文章は次のような非難を私にもたらした。レーニンが「農民との正しい関係が10年、20年と続くなら、われわれの勝利は全世界的規模でも保障されるだろう」と言っているのに対し、トロツキズムはその反対に、世界革命が勝利するまでプロレタリアートは農民との正しい相互関係を確立することはできないと断言している、と。

 まず何よりも、引用された文章の実際の意味について尋ねなければならない。イリイチは、農民との正しい関係が10年、20年続くと言っている。これは、イリイチが10年から20年以内で社会主義が完全に建設されることを想定したものではまったくない。なぜか? なぜなら、社会主義とは、われわれの理解によれば、プロレタリアートも農民も存在しない、いかなる階級も存在しない社会体制だからである。社会主義は都市と農村との対立を廃棄する。したがって、ここで設定されている20年という期間に、われわれはプロレタリアートと農村との正しい関係をもたらす政治路線を遂行しなければならないのである。これが第一のポイントである。

 しかしながら、トロツキズムは、「世界革命が勝利するまで農民との正しい関係を確立することができない」とみなしているとされている。つまり、私は、農民との正しくない関係を、できるだけ、すなわち世界革命が勝利するまで維持しなければならないとする法則を確立したと言われているわけである。(笑い)。同志諸君、明らかに、このような考えを言いたかったわけではなかろう。なぜなら、それはまったくナンセンスなものだからである。

 ネップとは何か? ネップとは、まさにプロレタリアートと農民の正しい関係を確立することに向けた新しい軌道への切り替えであった。この問題についてわれわれのあいだに何か意見の相違があっただろうか? いや、まったくなかった。われわれが現在論じているのは、クラークへの課税であり、プロレタリアートと貧農との結びつきを確立する際の形態と方法である。これはいったい何か? これは、いかにして農民との正しい相互関係を確立するべきなのかをめぐる論争である。諸君は、われわれのあれこれの提案を誤っているとみなすことはできる。しかし、現在、全思想闘争の中心軸となっているのはまさに、経済発展の現段階におけるより正しい労農関係とはいかなるものであるかという問題である。

 1917年に農民問題に関してわれわれのあいだで意見の相違があっただろうか? いやない! 農民に関する布告、すなわち農民に関する「エスエル」的布告は、われわれの綱領的指針として全員一致で採択された。ウラジーミル・イリイチが鉛筆を持って膝をついて書き記した土地に関する布告は、われわれのあいだで意見の相違を引き起こしただろうか? いや、それは全員一致で採択された。クラーク解体政策は意見の相違を引き起こしただろうか? いやいかなる意見の相違も引き起こさなかった。(会場からの声「ではブレストは?」)。中農の獲得に向けた闘争、ウラジーミル・イリイチによって開始されたこの闘争は意見の相違を引き起こしただろうか? いや引き起こさなかった。農民に対する態度を規定した党綱領は意見の相違を引き起こしたか? いや引き起こさなかった。これまでどんな意見の相違もなかったなどと主張するつもりはないが、しかしきっぱり言っておきたいのは、さまざまな問題で、時には重大な問題で意見の相違がいかに大きなものであったとしても、農民との関係に関する党政策の基本路線をめぐってはいかなる意見の相違もなかったということである。

 たしかに、1919年に、この分野で意見の相違の噂が人民の中で流されたことがあった。ウラジーミル・イリイチはこの問題に関してなんと書いただろうか? それを思い起こそう。私はその時、「あなたとイリイチとのあいだに意見の違いがあるのですか」という質問をしてきた農民のグーロフに答えた。私の回答は『プラウダ』と『イズベスチヤ』の両方に掲載された。そしてこの件ではウラジーミル・イリイチも回答を書いている。それは、1919年2月の『プラウダ』と『イズベスチヤ』に掲載された。私の議論を補完するために、レーニンのこの論文から引用しよう。

 「1919年2月2日付の『イズベスチヤ』は、農民ゲ・グーロフの手紙を掲載している。彼はそこで、中農に対する労農政府の態度について質問しており、レーニンとトロツキーの意見が一致しておらず、両者のあいだにはまさに中農の問題をめぐって大きな意見の相違があるのではないかという噂について語っている。
 同志トロツキーはすでに、2月7日付『イズベスチヤ』に掲載された『中農への手紙』の中でこれに答えている。この手紙において同志トロツキーは、彼と私とのあいだにおける意見の相違なる噂は、地主と資本家によって、あるいはその意識的ないし無意識的な助手どもによって広められた最も途方もなく破廉恥な嘘であると述べている。私も同志トロツキーの声明の正しさを全面的に確認するものである。われわれのあいだにいかなる意見の相違もないし、中農の問題に関しては、トロツキーと私とのあいだだけでなく、そもそも、われわれ両名が属する共産党内部にも、まったく意見の相違はないのである。
 同志トロツキーは手紙の中で、どうして共産党と現在の労農国家――ソヴィエトによって選挙され共産党員によって構成されている――が中農を敵とみなしていないのかについて、非常に明確に詳しく説明している。私は同志トロツキーが述べたことに喜んで同意する」(19)

 これはネップの前のことである。その後ネップに移行することになった。もう一度繰り返すが、ネップへの移行の際に、意見の相違があっただろうか? いやなかった! すでに述べたように、ネップへの移行問題について私は第4回世界大会で報告をし、その中でオットー・バウアーと論争した。その後、私はこの問題について次のように書いた。

 「ブルジョアジーやメンシェヴィキは、生産力の解放に向かう途上の不可欠の(だが、もちろんのこと、『不十分な』)一歩としてネップを歓迎した。カウツキー主義的変種やオットー・バウアー的変種を含むメンシェヴィキ理論家たちは、まさにネップをロシアにおける資本主義復活の始まりとして賛成したのである。彼らはこう付け加えた。ネップがボリシェヴィキ独裁を挫折させるか(喜ばしい結末)、ボリシェヴィキ独裁がネップを挫折させるか(不幸な結末)だ、と」(20)

 第4回世界大会における私の報告全体が証明しようしたのは、ネップはボリシェヴィキ独裁を破壊するのではなく、ボリシェヴィキ独裁は、ネップによって与えられた条件のもとで、経済の中で資本主義的要素に対する社会主義的要素の優位性を保証するだろう、ということであった。

  

   レーニンと一国社会主義 

 トロツキー 私の著作から取られたもう一つの文章も、私に対する非難に用いられている。そして、ここで私は、一国における社会主義の勝利の可能性の問題に直接移ることになるのだが、その文章は次のようなものである。

 「後進国における労働者政府(私の言葉)と圧倒的多数の農民との矛盾は、国際的規模でのみ、すなわち世界プロレタリア革命の舞台でのみ解決されうる」(21)

 これが書かれたのは1922年のことである。例の非難決議は次のように述べている。

 「協議会は、わが国の革命の性格と展望という基本問題に関する同志トロツキーとその支持者たちのこのような見解が、わが党の見解と、レーニン主義と何の共通性もないと宣言する」(22)

 言うとしたらせいぜい、ここにはニュアンスの相違があるとか(私はそうとは思わないが)、ここでは完全に正確には定式化されていない(私はそうとも思わないが)といった感じであろう。しかし、決議でははっきりとこう書かれている。これらの見解は「わが党の見解と、レーニン主義と何の共通性もない」と。そこで私はまず最初にレーニン主義と密接に関連したいくつかの文章を引用したい。

 「一国だけでは社会主義革命の完全な勝利は不可能であり、そのためには、われわれロシアをその中に数えることのできない少なくともいくつかの先進諸国の最も積極的な協力を必要とするのである」(23)

 これを言ったのは私ではなく、私よりも偉大な人物である。イリイチが1918年11月8日にこう言ったのだ! しかも10月革命前ではなく、権力獲得から1年後の1918年11月8日にである。同志諸君、もし彼がこれしか言っていなかったとすれば、個々の引用文を文脈から都合よく抜き取って利用することもできよう。

 会場からの声 彼は最終的勝利のことを言っていたんだ!

 トロツキー いや、失礼ながら、彼は「最も積極的な協力が必要だ」と言ったのである。「干渉」の問題に逃げることはできないし、主要な問題を「干渉」の問題にそらすことはできない。なぜなら、ここではっきりと言われていることは、社会主義の勝利は――干渉からの保護だけではなく――「われわれロシアをその中に数えることのできない少なくともいくつかの先進諸国」の協力を必要とするということだからである。(会場からの声「だから何だ」「結論、結論」)。同志諸君、干渉のことだけを言っているのではないとみなしうる文章はこれだけにとどまらない。したがって、ここから引き出すべき結論は、私が表明した観点、すなわちわが国の後進性から生じている国内的な矛盾は国際革命によって解決されなければならないという趣旨の見解は、私の専売特許でも何でもなく、イリイチ自身がこれと同じ観点を、しかもはるかに先鋭で断固とした形で表明していたのだ、ということである。

 しかし、これが妥当するのは、資本主義諸国の不均等発展法則がまだ働いていなかったと言う時代、すなわち帝国主義以前の時代であると言われている。この問題に深入りすることはできない。しかし、残念ながら、言っておかなければならないが、この点で同志スターリンは重大な理論的・歴史的誤りを犯している。資本主義の不均等発展法則は帝国主義よりも古い。疑いもなく、資本主義は今日でもさまざまな国できわめて不均等に発展している。しかし、19世紀においては、この不均等性は20世紀よりも大きかった。その当時、イギリスは世界の支配者だったのに対し、たとえば日本は、古い世代が記憶しているように、自己の国境の内部に固く閉じられた封建カースト国家だった。わが国で農奴制が廃止されたころ、日本は資本主義文明に参加しはじめた。しかしながら、中国はまだ、最も深いまどろみに包まれていた、等々、等々。当時、資本主義発展の不均等性は現在よりも先鋭で、大きかった。マルクスとエンゲルスは、このような不均等性をわれわれに劣らずよく知っていた。なぜなら、金融資本は資本の最も柔軟で弾力性のある形態だからである。なぜなら帝国主義は、よりいっそう「平準化傾向」を発展させるからである。しかしながら、今日においても発展の巨大な不均等性が存在することに議論の余地はない。しかし次のように主張するとすれば、すなわち、帝国主義以前の19世紀には資本主義がより均等的に発展しており、したがって一国社会主義論は不可能であったが、今日においては、帝国主義が発展の不均等性を増大させたので、一国社会主義論が正しくなったなどと主張するとすれば、これはまったく的外れである。このような主張はすべての歴史的経験と矛盾しているし、完全に事実をひっくり返すものである。他のより真面目な論拠を探さなければならない。

 同志スターリンは「一国における社会主義を建設しきる可能性を否定する者は、10月革命の正当性をも否定しなければならない」と書いている(スターリン『レーニン主義の諸問題』、229頁)。

 しかし、1918年にわれわれはレーニンから、社会主義を建設しきるためには、「ロシアをその中に数えることのできない」いくつかの先進諸国の最も積極的な協力を必要とするということを聞いた。だがレーニンは10月革命の正当性を否定しなかった。そして1918年に彼はこの点について次のように書いている。

 「自分をたいそう賢いものと考え、社会主義者だとさえ自称している知ったかぶりがいることを私はもちろん知っている」――これはカウツキーやスハーノフの追随者たちを批判して書かれている――「彼らは、すべての国で革命が勃発しないかぎり権力をとるべきではないと主張している。彼らは、そう言うことによって革命を放棄しブルジョアジーの側に移っていることを理解していないのである。勤労階級が国際的規模で革命を行なうまで待つことは、すべての者が待機した状態で縮こまったままでいることを意味する。これは無意味である…」――申し訳ないが、この文章にはこう書いているのである。そしてこう続いている――「これは無意味である。革命が困難なものであることは誰もが知っている。……なぜなら最終的な勝利は世界的規模でのみ、そしてすべての国の労働者の共同の努力によってのみ可能となるからである」(『レーニン著作集』第15巻、287頁、1918年3月14日)(24)

 それにもかかわらず、イリイチは10月革命の「正当性」を否定しなかった。

 さらに。1921年――1914年ではなく1921年に――レーニンはこう書いている。

 「高度に発達した資本主義諸国には農業賃金労働者の階級がおり、これは何十年もかけて形成されたものである。……この階級が十分に発達している国でだけ、資本主義から社会主義への直接的な移行が可能である……」――ここで問題になっているのは干渉ではなく、経済発展の水準であり、国の階級的諸関係の発展度である――「われわれは幾多の著作で、あらゆる公的演説の中で、新聞雑誌でのあらゆる論文の中で、ロシアではそのような状況にないこと、ロシアでは工業労働者が少数であり、小農が圧倒的多数を占めていることを力説してきた。このような国では、社会主義革命は2つの条件がある場合のみ勝利することができる。
 第1は、一つないし若干の先進国の社会主義革命によって時機を失せず援助されることである。……
 第2の条件は、独裁を行使している、すなわち自己の手中に権力を保持しているプロレタリアートと農村住民の多数派との協定が存在することである。……
 われわれは、他の国々に革命がやってこないかぎり、農民との協定だけがロシアの社会主義革命を救いうることを知っている。そして、あらゆる会議であらゆる新聞雑誌で、このように率直に言わなければならない」(レーニン「1921年、ソ連共産党第10回大会での演説」、『レーニン著作集』第18巻第1分冊、137〜138頁)(25)

 つまりイリイチは、農民との協定が達せられれば十分で、世界プロレタリアートの運命とは無関係に社会主義を建設しとげることができるなどというように、問題を立てたのではなかった。いや、この協定は条件の一つである。もう一つの条件は、他の国々の革命によって時機を失せず援助されることである。レーニンはこの2つの条件を、後進国であるわれわれにとって特別に必要なものであるとして相互に結びつけているのである。

 最後に、私に対する非難として持ち出されているのは、私が「ロシアにおける社会主義経済の真の高揚は、ヨーロッパにおける最も重要な諸国においてプロレタリアートが勝利して後になってはじめて可能となる」(26)と言ったことである。

 同志諸君、どうやら、われわれはさまざまな用語を使うさいに少し不正確になってしまったようだ。「社会主義経済」という用語は厳密にはどういう意味で使ってきただろうか? もちろん、われわれには非常に大きな諸成果があるし、われわれは当然それを誇りにしている。私は『社会主義へか資本主義へか』という小冊子の中で、外国の同志たちのためにその成果を記述するよう努力した。しかし、われわれは、この成果がどの程度のものであるを冷静に評価しなければならない。

 同志ルイコフのテーゼでは、われわれが戦前の水準に近づきつつあると言われている。しかしこれは正確ではない。わが国の人口は戦前と同じだろうか? いや多くなっている! そして、工業生産物の一人あたり平均消費量はどうか? 1913年よりもかなり少なくなっている。最高国民経済会議(ヴェセンハ)の予想によれば、われわれは1930年になってようやく1913年の工業生産物の平均消費量に到達することになっている。ところで、1913年の水準とは何だろうか? それは窮乏、後進性、野蛮さの水準である。もしわれわれが社会主義経済を、あるいは社会主義経済における真の高揚を語るのであれば、それは、都市と農村との対立が消失していること、全般的な豊かさや安寧や文化といったものが存在していることでならなければならない。これこそ社会主義経済の真の高揚が意味するものである。そしてわれわれはまだこの目標から遥か遠くにいる。わが国には孤児や失業者がおり、毎年農村から200万人もの余剰労働者があふれ出て、そのうちの50万人は都市に仕事を求めてきている。しかし、都市の工業は毎年せいぜい10万人しか吸収できないのである。われわれには自分たちの成果を誇りにするべきであるが、歴史的展望を歪めてはならない。われわれが達成したものは真の社会主義経済の真の高揚といったものではいまだなく、資本主義から社会主義に至る長い長い橋の最初の本格的な数歩にすぎない。これは同じことだろうか? いやけっして。私を非難するために持ちだされた引用文はまったく正しいのである。

 イリイチは1922年にこう書いている。

 「しかしわれわれは、社会主義経済の土台を建設することさえ終了していないし、死滅しつつある資本主義の敵対的勢力は、われわれからこの土台さえも奪い取ることができる。われわれははっきりとこのことを自覚し、そのことを率直に認めなければならない。なぜなら幻想(と目眩、とりわけ高い場所でのそれ)以上に危険なものはないからである。しかし、この苦い真実を認めることに、いかなる恐ろしいものも絶対にないし、ほんのわずかでも落胆する正当な理由を与えるものもまったくない。なぜなら、われわれは常に、社会主義の勝利のためには、いくつかの先進諸国労働者の共同の努力が必要であるというマルクス主義の初歩的真理を力説してきたし、繰り返してきたからである」(『レーニン著作集』第20巻第1分冊、487頁、1922年)(27)

 ここで問題になっているのは干渉ではなく、社会主義を建設しきるためのいくつかの先進諸国労働者の共同の努力である。それとも、もしかしたらレーニンのこの文章は、帝国主義以前の時期、すなわち不均等発展法則が知られていなかったとされる時期に書かれたものなのだろうか? いや、彼がこれを書いたのは1922年であり、この法則はすでに知られていた。

 たしかに、協同組合に関する論文には、[一国社会主義論を肯定しているかのように見える]唯一の文章が存在する。このたった一つの文章は、レーニンが言ったすべてのことに対立させられている。

 会場からの声 偶然だ!

 トロツキー いやこれはけっして偶然ではない。私はこのレーニンの文章に完全に同意する。ただし、それは正しく理解されなければならない。その文章は次のようになっている。

 「実際、すべての大規模な生産手段に対する国家の権力があり、プロレタリアートの手中に政治権力があり、このプロレタリアートが何百万もの小農、零細農と同盟しており、農民に対するプロレタリアートの指導が保証されている、等々。これらは、ネップのもとでの諸協同組合――それらはかつては商人として軽蔑的に取り扱われてきたし、ある面からすればそのように取り扱うことができたわけだが――から、諸協同組合だけから完全な社会主義社会を建設するに十分なものではないだろうか?  これはまだ社会主義の建設そのものではないが、それの必要にして十分なものである」(『レーニン著作集』第18巻第2分冊、140頁。1923年5月26日付『プラウダ』)(28)

 会場からの声 読むのが早すぎるぞ!(笑い)

 トロツキー では、同志諸君、もう少し時間をくれたまえ。(笑い)

 会場からの声 その通り!

 トロツキー その通り? 私もまったく同意見だ。

 会場からの声 それこそわれわれに必要なものだ!

 トロツキー さて、ここで列挙されている要素は何であろうか? ここで列挙されているのは、まず第1に、生産手段の所有である。第2に、プロレタリアートの権力。第3に、プロレタリアートと農民との同盟。第4に、農民に対するプロレタリアートの指導。第5に協同組合である。以上が、ここでイリイチが列挙している諸要素である。諸君にお尋ねするが、本当にたった一国だけでどの国でも社会主義を建設しきることができると信じている者が、諸君の中に誰か一人でもいるのだろうか? たとえばブルガリアのプロレタリアートは、農民を指導して権力を獲得し、協同組合を設立しさえすれば(会場ざわつく)、ブルガリア・プロレタリアートは自分たちだけで社会主義を建設しきることができるというのだろうか? いや、それは不可能であろう。

 したがって、以上の諸要素に加えてさらに別の諸要素が必要である。地理的条件、自然の富、技術、文化、等々。レウラジーミル・イリイチがここで挙げたのは、国家権力に関わる諸条件、所有関係、協同組合という組織形態である。それだけだ! そして、彼が言っているのは、社会主義を建設しきるためには、農民をプロレタリア化する必要はないということ、何らかの新たな革命は必要ではないということであり、手中に権力があり、農民との同盟、協同組合などがあれば、これらの国家的・社会的諸形態・諸方法の助けをかりて課題を最後まで遂行することができるということである。

 しかし、同志諸君、われわれは、イリイチには社会主義の別の定義があることを知っている。この定義によれば、社会主義とはソヴィエト権力プラス電化である。では、先ほど私が読み上げた文章の中で電化は取り消されているのか、いないのか? いや、取り消されてはいない。イリイチが社会主義の建設について述べた他のすべてのこと――私は先にその明確な定式を引用しておいた――は、この引用によって補完されているのであって、取り消されているのではない。この引用文で言われていることは、私が先に挙げたすべての主張を否定しているのではなく、あくまでも補完しているのである。

 なぜなら、電化は真空状態の中で遂行されるものではなく、ある一定の諸条件のもとで、きわめて手強い現実である国際市場と国際経済によって課せられた諸条件のもとで遂行されるものだからである。世界経済は単なる理論的総合ではなく、明確で力強い現実である。その諸法則はわれわれにも影響を及ぼしており、われわれの発展の1年1年がこの事実をわれわれに思い知らせてくれる。

  

   新しい理論 

 トロツキー この問題を詳しく取り扱う前に、次のことを指摘しておかなければならない。われわれの同志の何人かは、彼らが協同組合に関するイリイチの論文の一面的な解釈にもとづいてまったく新しい理論をつくり出す前には――その理論は私の意見では深刻に誤ったものだが――、彼ら自身、別の観点を抱いていたことである。1924年、同志スターリンは現在言っていることとまったく違うことを言っていた。

 会場からの声 第14回党大会のときに説明した。

 トロツキー このことは第14回党大会で指摘されたが、その引用された章句はそのせいで消え去ってしまったのではなく、1926年になっても完全に残っている。読んで聞かせよう。

 「いくつかの先進諸国の共同の努力なしに、一国だけでこの課題を実現すること、社会主義の完全な勝利を達成することは可能だろうか? いや不可能だ。ブルジョアジーを打倒するためには、一国の努力だけで十分である。これはわれわれの革命の歴史によって証明されている。だが、社会主義の最終的勝利のためには、すなわち社会主義的生産を組織するためには、一国の努力だけでは、とりわけロシアのような農民国の努力だけでは不十分である。そのためには、いくつかの先進諸国のプロレタリアートの共同の努力が必要である(スターリン『レーニン主義の基礎について』、1924年4月)。
 ※原注 強調は引用者による――L・T

 スターリンがこれを書いたのは1924年であるが、決議は1922年までのものしか私の論文を引用していない。(笑い)。たしかに、1924年にはこう言われていたのである。社会主義的生産を組織するためには――干渉から守られるためにはではなく、資本主義的秩序の復活を防止するためでもなく、そうではなく――「社会主義的生産を組織するためには」、一国の努力だけでは、とりわけロシアのような農民国の努力だけでは不十分であると言われているのである。同志スターリンはこの観点を放棄してしまった。彼にはもちろんそうする権利がある。

 彼は『レーニン主義の諸問題』という著作の中でこう述べている。

 「この定式の不十分さはどの点にあるのだろうか?
 不十分さは、この定式が二つの異なった問題を一つに結び合わせている点にある。まず一つ目の問題は、一国の力だけで社会主義を完全に建設する可能性という問題である。これに対しては肯定的に答えられなければならない。もう一つの問題は、プロレタリアートの独裁がすでに確立されている国で、他のいくつかの諸国における革命の勝利なしに、外国の干渉から、したがって旧秩序の復活から完全に守られることが可能であるか、という問題がある。この問いには否定的に答えられなければならない」(スターリン『レーニン主義の諸問題』、46頁、1926年)(29)

 しかし、最初の引用文(1924年)において、別にこの2つの問題はまったく混同されてはいない。そこで問題になっていたのは干渉ではなく、ロシアのような農民国の努力だけで他国の助けなしに社会主義生産を完全に組織する可能性だからである。

 そして、実際、同志諸君、全問題を干渉の問題に還元することができるだろうか? われわれがこの家の中で社会主義を建設し、外の通りにいる敵が窓から石を投げ入れている、というように事態を想像することはとうていできない。問題はそんなに単純なものではない。干渉とは戦争であり、戦争とは別の手段をもってする政治の継続である。しかし政治とは経済を総括するものである。したがって問題は、ソヴィエト連邦と資本主義諸国との経済的相互関係の全体である。この相互関係は、干渉という例外的な形態に尽きるものではない。それははるかに継続的で深遠な性格を有している。同志ブハーリンは大いに多言を費やして、干渉という危険性が唯一のものである理由を次のように述べている。いかなる干渉もない場合には「われわれは、このような惨めな技術的基礎にもとづいてさえ社会主義を建設することができる(われわれが社会主義を建設しつつあるのはその通りである――L・T)。この社会主義の成長はより緩慢であろうし、われわれは亀の歩みで進むことになるだろう。しかし、それでもやはり、われわれは社会主義を建設することができるし、建設しきるだろう」(第14回党大会における演説)。

 われわれが社会主義に建設しつつあること、これはその通りである。われわれが世界プロレタリアートと手に手をとって社会主義を建設しきることも、議論の余地がない。(笑い)。私の意見では、世界プロレタリアートと手に手をとって社会主義を建設しきると言ったことを笑うというのは、共産党の協議会では場違いもはなはだしい(笑い。会場からの声「デマを言うなよ!」「話をあわせるなよ!」)。しかし、私ははっきり言うが、亀の歩みで社会主義を建設しきることはけっしてないだろう。なぜなら世界市場はあまりにも厳しくわれわれを統制しているからである。

 会場からの声 つまりすっかりびくついているわけだ!

 トロツキー いったい同志ブハーリンはこの建設完了をどのように想像しているのか? 彼は『ボリシェヴィーク』誌に掲載された最近の論文の中で――言っておかなければならないが、これはブハーリンのペンから出たこれまでで最もスコラ的な論文だ(笑い)――こう述べている。

 「問題になっているのは、もしわれわれが国際的要因を捨象するならば、われわれは社会主義を建設し、建設しきることができるかどうかだ。すなわち問題になっているのは、われわれの革命の性格である」(ブハーリン、『ボリシェヴィーク』第19・20号、54頁)。

 よく聞いてほしい、「問題になっているのは、もしわれわれが国際的要因を捨象するならば、われわれは社会主義を建設し、建設しきることができるかどうかだ」と。もしこのような捨象をなしうるならば、もちろん可能である。しかし、捨象できないのだ! そこが問題の核心なのだ。(笑い)

 われわれは気候と警察を捨象さえすれば、1月にモスクワの通りを裸で歩くこともできよう(笑い)。しかし、気候も警察も捨象できないと思ったら、諸君はこのような試みをするだろうか?(笑い)

 「もう一度繰り返す。これは国内的諸勢力の問題であって、外部世界と結びついた危険性ではない。したがって、これはわが革命の性格の問題なのである」(ブハーリン、『ボリシェヴィーク』第19・20号)。

 国際的諸条件から独立したわれわれの革命の性格の問題だというわけだ! いつからわれわれの革命はこのような自足的な性格を持つようになったのか? われわれが目の前にしている実際の革命は、2つの国際的な前提条件なしにはそもそも存在していなかった。その第1は金融資本であり、これは略奪的やり方でわが国に経済発展の種をまいた。第2は、国際労働運動の理論的前提条件であるマルクス主義であり、これはわが国にプロレタリアートの闘争の種をまいた。以上のことは、ロシア革命が、1917年以前に、世界の巨大な諸力が交差しあう中で準備されたことを意味している。これらの諸力の交差する中から、世界大戦を通じて10月革命が生まれたのである。ところが今では、われわれは、国際状況を「捨象」して自国だけで社会主義を建設せよと言われている。これは形而上学的なアプローチである。世界経済を捨象することは不可能である。

 輸出とは何か? それは国内問題か国際問題か? 輸出すべき商品は国内で生産されなければならない。したがってそれは国内問題である。しかし、それは海外に輸出されなければならない。したがって、それは国際問題でもある。(笑い)。では輸入とは何か? 輸入は国際問題だ。商品は海外から購入されなければならないからだ。しかし、それらは国内に運び込まれるのであり、それは結局のところ国内問題でもある。(笑い)。輸出と輸入といった例だけで、国際状況を「捨象」するよう提案している同志ブハーリンの全理論は粉々に砕け散る。社会主義建設の成否は、経済発展のテンポに依存しており、このテンポは現在、原材料と機械設備の輸入によって、かつてなく直接的かつ先鋭な形で規定されている。たしかに、われわれは外貨不足を「捨象」することができるし、より多くの綿や機械を注文することもできる。しかし、そうすることができるのは1度きりであり、2度目にはこのような「捨象」はできないだろう。(笑い)。われわれの建設事業の全体は国際的諸条件によって決定されているのである。

 われわれの国家はプロレタリア国家かどうかとたずねられるならば、私としては、そんなことは言うまでもないことであるとしか答えようがない。未校正の速記録から取り出されたいくつかの恣意的に修正された言葉でもって判断するのではなく、何十、何百もの論文や演説の中で私が言ったり書いたりしたことにもとづいて判断するのならば――そして、これこそが誰であれ相手の見解を判断する唯一のやり方であるべきだが――、また、あれこれの未校正の章句に飛びつくのではなく、相手の見解をその本質に即して取り上げるならば、諸君は躊躇なく次のことを認めなければならないはずである。すなわち、私が諸君と同じく、わが国の国家をプロレタリア国家とみなしていることである。この国家が社会主義を建設している過程にあるかどうかという質問に対しては、私はすでにいくつかの引用によって答えた。

 だが、全世界で生じていることと独立に30年ないし50年で社会主義を完全に建設しきるのに十分な力と手段がこの国の内部に存在するかとたずねられれば、その時には私は、この問題はまったく間違った立て方がなされていると答えなければならない。わが国には、社会主義建設の事業をさらに発展させていくのに十分な力と手段が存在するし、そうした発展によって世界の革命的プロレタリアートを助けることにもなるだろう。このプロレタリアートが10年、20年、30年以内に権力を獲得する可能性は、われわれがその間に社会主義を完全に建設しきる可能性よりも低いものではけっしてない。いや、低いどころか、はるかに大きい!

 同志諸君、お尋ねするが――そしてこれこそが基本的ポイントであり、全問題の中心軸なのだが――、われわれが社会主義建設の事業を推進しているあいだに、ヨーロッパで何が起こるだろうか? 諸君は答える。われわれは、この間に世界中で起きることと無関係に、自分の国の中で社会主義を建設しきるだろう、と。よろしい。

 では、われわれが社会主義を建設しきるまでにどれぐらいの時間がかかるだろうか? イリイチの意見では、農民国たるわが国はあまりにも後進的なので20年以内で社会主義を建設しきることはとうてい不可能だろうというものであった。そして30年以内でも無理であろう。最低ラインとして30年から50年という期間を取り上げよう。この長い期間にヨーロッパでは何が起こるだろうか? ヨーロッパに関する予測をすることなしにわが国に関する予測をすることはできない。いくつかの場合が考えられる。もちろんヨーロッパ・プロレタリアートはこの30年から50年のあいだに権力に到達するだろうと諸君が言うのであれば、問題は何もないことになろう。なぜなら、もしヨーロッパ・プロレタリアートが来たる10年、20年、30年のうちに権力をとるのであれば、社会主義の地位はわが国においても国際的規模でも保障されるだろうからである。しかし、おそらく諸君は、来たる30年間のうちにヨーロッパ・プロレタリアートが権力を獲得しないという展望から出発してなければならないとみなしているのであろう。さもなくば、諸君の予測は意味をなさなくなる。それゆえ、私は諸君に、この期間にヨーロッパで何が起こると予測しているのか尋ねなければならないのである。純粋に理論的な観点からすれば、3つの場合がありうる。

 まず第1は、ヨーロッパが、現在と同様、戦前レベルをうろうろし、プロレタリアートとブルジョアジーがよろめきながらも相互に均衡をとっている事態である。しかしながら、このような「均衡」はきわめて不安定なものであって、20年も30年も40年も続くものではないと言わなければならない。それはどちらかの側へと崩れるだろう。

 それとも諸君は、資本主義が新しい動的な均衡を見出すだろうと信じているのだろうか? 諸君はヨーロッパ資本主義が新しい上昇期を向かえ、帝国主義戦争以前に起こったような過程の新たな拡大された再生産を実現しうると信じているのだろうか? もし諸君がそんなことが可能であると信じているのであれば(私自身は、資本主義にそのようなチャンスがあるとは信じていないが)、あるいは諸君が理論的に一時そのような仮定をするのであれば、資本主義がヨーロッパ的規模でも世界的規模でもまだその歴史的使命を全うしておらず、現在の資本主義が腐朽しつつある帝国主義的資本主義ではなくて、資本主義はまだ上昇期にあり、経済的・文化的進歩をつくり出しうるということになろう。そしてこれは、われわれが舞台に現われるのが歴史的に早すぎたということを意味するだろう。 

 議長 同志トロツキーは割り当てられた時間をとっくにオーバーした。彼はすでに1時間半以上しゃべっている。彼はあと5分求めている。投票にかけよう。賛成の方? 反対の方? 誰か再投票を求める人はいますか? 

 トロツキー 私が再投票を求める。 

 議長 同志トロツキーにさらに5分の追加を与えることに賛成の方? 反対の方? 反対多数。 

 トロツキー この5分間を用いて、簡単に結論をまとめたいと思っている。 

 議長 ではもう一度投票にかけよう。

 会場からの声 評議員[議決権のない会議参加者]にも投票させよう

 議長 わかった、評議員にも投票させよう。同志トロツキーに5分間の追加を与えることに賛成の方? 評議員も手を挙げて。反対の方? 反対は少数のようだ。どうするか考えるのに5分かけるよりも発言時間を5分延長した方がいいな。では、同志トロツキー、続けてよろしい。 

 トロツキー このように、社会主義を建設しとげるのに必要な今後30年から50年のあいだにヨーロッパ資本主義が上昇を遂げると仮定するならば、われわれが圧殺ないし粉砕されるという結論にならざるをえない。なぜなら、上昇過程にある資本主義は、他のすべてのことはさておいても、それ相応の軍事技術と一般にそれ相応の戦争手段を有しているだろうからである。それだけでなく、周知のように、強力に発展しつつある資本主義は、労働貴族の助けを借りて、大衆を戦争へと引き入れることができるだろう。このような陰うつな展望は、私見によれば、世界経済の状況全体によって排除されている。いずれにせよ、わが国の社会主義の展望をこのような仮定にもとづいて立てることはできない。

 まだ第2の展望が残っている。資本主義が衰退し腐朽しつづけていくという展望である。そしてまさにこれこそ、ヨーロッパ・プロレタリアートが、ゆっくりとだが確実に、革命遂行の技術を学んでいく土台なのである。

 ヨーロッパ資本主義が今後30年から50年のあいだ引き続き腐朽の過程をたどりながら、プロレタリアートがその間ずっと革命を遂行することができないでいる、という事態を想像することができるだろうか? どうしてこのような展望を受け入れなければならないのか? これこそまさに、ヨーロッパ・プロレタリアートに対する暗く根拠のない悲観主義の仮定であるとしか言いようのないものであり、それと同時に、わが国の努力だけで孤立したまま社会主義を建設しきることに対するまったく無批判な楽観主義を開陳するものである。

 ヨーロッパ・プロレタリアートが来たる40年ないし50年のうちに権力をとることはないだろうという展望を受け入れることを(権力を獲得できるとするならば、論争上の問題そのものが消えてなくなる)、いったいいかにして共産主義者の理論的・政治的義務であるとすることができるだろうか? 私は断固主張する、ヨーロッパのプロレタリアートが権力を獲得するよりも農民とともに一国だけで社会主義を建設しきることの方が容易であるとみなす、いかなる理論的・政治的根拠もない、と。

 いや、可能性の秤は、完全にヨーロッパ・プロレタリアートの側に傾いている。そして、もしそうだとすれば、諸君にお尋ねしたい。どうして諸君は、レーニンの言う「2つの条件」を相互に結びつけるのではなく、両要素を対立させるのか? どうして一国だけで社会主義を建設しきることを理論的に承認する必要があるのか? なぜこのような問いを1925年以前には誰も提出しなかったのか?

 会場からの声 提出された!

 トロツキー いやそんなことはない。それはけっして提出されなかった。同志スターリンは、1924年には、ロシアのような農民国一国の努力だけでは社会主義を建設しきるのに不十分であると書いていたのである。私は今日なおも固く確信している、わが国における社会主義の勝利は、ヨーロッパ・プロレタリアートの勝利せる革命と結びついてのみ保障される、と。このことは、わが国の建設が社会主義的なものではないとか、われわれがこの社会主義建設をいっそう前進させることができないとかそうするべきではない、ということを意味するものではない。ちょうどドイツの労働者が権力獲得に向けて準備しつつあるのとまったく同じく、われわれは未来の社会主義の諸要素を準備しつつあるし、ドイツ・プロレタリアートの闘争がわれわれの社会主義的成功を促進するのとまったく同じく、社会主義建設に向けたわれわれの成果の一つ一つはドイツ・プロレタリアートの権力獲得闘争を促進する。これこそが、われわれの社会主義建設にとって唯一正しい国際主義的な展望である。

  

   結論 

 トロツキー 最後に、私は、中央委員会総会で語った言葉をここでも繰り返したいと思う。わが国の国家が――種々の官僚主義的歪みをもっているとはいえ、つまり、多くの誤った官僚主義的意見とは反対に、労働者階級によりいっそう近づけなければならない国家であるとはいえ――プロレタリア国家であると、もしわれわれが本当に信じていないならば、また、わが国の建設が社会主義的なものであるとみなしていないとすれば、わが国の内部に社会主義経済をいっそう前進させるのに十分な資源がないとみなしているのならば、われわれの完全で最終的な勝利を信じていないとすれば、その時には言うまでもなく、われわれのいるべき場所は共産党の隊列の中ではないだろう。

 反対派は次の2つの基準に沿って評価することができるし、評価しなければならない。すなわち、反対派は次のどちらか一方の路線を持つことができる。わが国の国家が労働者国家ではないと考え、わが国での建設が社会主義的なものではないと考える者は、プロレタリアートをこの国家に対立させる方向で指導しなければならず、別党を結成しなければならない。

 第2の路線はこうだ。(会場からの声「君はそれに着手したわけだ」)。わが国の国家は労働者国家であるが、小ブルジョア的自然発生性と資本主義的包囲の圧力のもとで形成された官僚主義的な歪みをもっていると考える者、また、わが国の建設は社会主義的なものであるが、われわれの経済政策が国民所得のしかるべき再配分を十分保証するものとはなっていないと考える者は、党的な方法と手段を用いて、間違っていると思われるもの、誤っていて危険であると思われるものと闘わなければならないが、それと同時に、党と労働者国家の政策全般に対する全責任を共有しなければならない。(議長がベルを鳴らす)。もうすぐ終わる。あと1分半ほど待ってほしい。

 党内闘争が最近、きわめて先鋭な形態を帯びるようになり、分派主義的なものとなったことは疑いない。また、反対派の側の態度がこうした分派的先鋭さを帯びたことが――それがどのような条件によって引き起こされたものであるかは今はどうでもよい。私は今はこれに触れないでおく――、党員大衆のかなりの部分によって、もはや共同の活動が不可能な時点にまで意見の相違が至ったこと、すなわち分裂をもたらしうるものであると受け取られうるものであり、また実際にそう受け取られてきたことも、疑いない。これは、目的と手段との明白な不一致を意味している。すなわち、反対派が実現しようと熱望している目的と、反対派があれこれの理由で採用した手段とのあいだの不一致である。まさにそれゆえに、われわれはこの手段――分派主義――が誤りだったと認めているのであり、それは一時的な配慮にもとづくものではなく(会場からの声「君たちが無力だからだ。敗北したからだよ!」)、党内状況の全体を踏まえたものである。10月16日の声明の目的と意味は、われわれの抱いているあれこれの見解を、あくまでも共同活動という枠組みの内部で、そしてどのポストに就いていようとも党の政策全般に対する共同の責任という枠組みの内部で、引き続き擁護することである。

 同志諸君、社会民主主義的偏向に関する決議に含まれている客観的危険性は、どの点にあるだろうか? それは、この決議が、必然的に分派主義の政策だけではなく2つの党の政策にさえ導くような見解をわれわれになすりつけている点にある。

 この決議は、10月16日のわれわれの声明と中央委員会のコミュニケの両方を単なる紙切れに変えてしまう客観的傾向を有している。

 会場からの声 それは脅しのつもりか?

 トロツキー いや、同志諸君、これは脅しでも何でもない。何らかの脅しを発するというのは、私の考えから最も遠いものである。

 会場からの声 だったらなぜそれを持ち出すのか?

 トロツキー 今は最後まで聞いていただきたい。あと少しで終わる。

 われわれの確信によれば、この決議を採択することは有害な結果をもたらすであろうが、いわゆる反対派、とりわけその指導的メンバーについて判断しうるかぎりでは、この決議の採択は、われわれを10月16日の声明の路線から逸脱させるものではない。われわれは、自分たちに無理やり押しつけられた見解を受け入れはしない。われわれには、意見の相違を人為的に拡大したり、それを先鋭化させたりするいかなる意図もないし、したがってまた分派主義のぶり返しを準備する意図もない。反対に、われわれのうちの誰もが、意見の相違――実際に存在するそれ――を過小評価することなしに、全力を尽くしてこの意見の相違を、われわれの共同活動の継続と党の政策に対する共同の責任という枠組みに収めるだろう。

1926年11月6日付『プラウダ』

『ニューズ・レター』第37・38合併号より

   訳注

(1) ボールドウィン、スタンリー(1867-1947)……イギリスの保守党政治家。1908〜37年、下院議員。1921〜22年、商務大臣。1922〜23年、大蔵大臣。1923〜24年、1924〜29年、1935〜37年と首相。

(2) トーマス、ジェームズ(1874-1949)……イギリスの労働組合運動家、労働党政治家。鉄道労働組合出身で、1911年に全国鉄道ストライキを指導。1920年、労働連合会議議長。1910〜36年、労働党の下院議員。1924年、第1次労働党内閣で植民地相。1931年、マクドナルドともに自由・保守両党との挙国一致内閣に入閣し、労働党を除名。

(3) パーセル、アルバート(1872-1935)……イギリスの労働組合活動家で、イギリス総評議会の指導者。英露委員会の中心的人物。1926年に起こったゼネストを裏切る。

(4) アムステルダム……1919年にアムステルダムでの国際会議で結成された社会民主主義系の労働組合を結集した国際的な労働組合連合組織のこと。第2次世界大戦の際は事実上その活動を停止し、世界労働組合連動の結成とともに1945年12月に消滅した。

(5) トロツキー「ソヴィエト・ロシアの新経済政策と世界革命の展望」、『社会主義と市場経済』(大村書店)、36〜37頁。

(6) トロツキー「人は『政治』によってのみ生きるにあらず」『文化革命論』(現代思潮社)、11頁。

(7) 同前、16〜17頁。

(8) スターリンが読んだ部分は『社会主義へか資本主義へか』の第1章の冒頭部分である――「国家計画委員会(ゴスプラン)は、1925〜26年におけるソ連邦の国民経済に関する『目標』数値の一覧表を発表した。そこに書かれた数字のすべては非常に無味乾燥で、いわば官僚的な響きがする。しかし、この縦に並んだ無味乾燥な統計数値のうちに、そしてそれに付けられたほとんど同じくらい無味乾燥で控えめな説明のうちに、成長しつつある社会主義の壮大な歴史的音楽が聞ける」(トロツキー『社会主義へか資本主義へか』、大村書店、17頁)。この部分についてスターリンは、これはロシア一国における社会主義の勝利の可能性を肯定したものではなく、ロシア一国だけで社会主義を建設しきることができるかどうかという根本問題を回避したものであり「音楽的逃げ口上」であると非難した(スターリン「わが党内の社会民主主義的偏向について」、邦訳『スターリン全集』第8巻、313〜314頁)。

(9) 前掲『社会主義へか資本主義へか』、9〜11頁。

(10) 前掲『社会主義へか資本主義へか』、14頁。

(11) 同前、71頁。

(12) レーニン「革命の諸段階、方向および見通し」、邦訳『レーニン全集』第10巻、77〜78頁。

(13) レーニン「ロシア社会民主労働党統一大会についての報告」、同前、319〜320頁。

(14) トロツキー『1905年』(現代思潮社)、12頁。

(15) トロツキー「平和綱領」、『トロツキー研究』第14号、98頁。

(16) レーニン「ロシア共産党(ボ)第8回大会開会の辞」、邦訳『レーニン全集』第29巻、140頁。

(17) レーニン「共産主義インターナショナル第3回大会、ロシア共産党の戦術についての報告」、邦訳『レーニン全集』第32巻、511〜512頁。

(18) 同前、512頁。

(19) レーニン「農民の質問に答える」、邦訳『レーニン全集』第36巻、591頁。

(20) 前掲『社会主義へか資本主義へか』、25〜26頁。

(21) 前掲『1905年』、12頁。

(22) 『レーニン主義の敵=トロツキズム』、大月書店、493頁。

(23) レーニン「労働者・農民・コサック・赤軍代表ソヴィエト第6回臨時全ロシア大会」、邦訳『レーニン全集』第28巻、155頁。

(24) レーニン「全ロシア中央執行委員会とモスクワ・ソヴィエトの合同会議」、邦訳『レーニン全集』第27巻、379頁。

(25) 邦訳『レーニン全集』第32巻、226〜227頁。

(26) トロツキー「平和綱領」の後記(1922年)、『トロツキー研究』第14号、102頁。

(27) レーニン「政論家の覚書」、邦訳『レーニン全集』第33巻、204頁。

(28) レーニン「協同組合について」、同前、488頁。

(29) スターリン「レーニン主義の諸問題によせて」、邦訳『スターリン全集』第8巻、85頁。

 

トロツキー研究所

トップページ

1920年代後期