テルミドール

トロツキー/訳 湯川順夫・西島栄

【解題】本稿は、当時盛んに論じられていた「テルミドール」についてトロツキー自身が本格的に検討した論稿である。

 テルミドールの問題はすでに、「第15回党協議会によせて――覚書」(1926年9月)の中でウストリャーロフの議論を取り上げる中で論じられ、さらに、1927年6月22日に開催された中央統制委員会会議においてトロツキーはより全面的にテルミドールの問題について論じている(「戦争の危険性とテルミドールの危険性」)。本稿は以上の議論を踏まえて、より理論的にこの問題を論じたものである。この中でトロツキーはテルミドールを「革命の何らかの衰弱ないし士気阻喪の結果として、革命が階段を一段下に降りることであり、右への権力のわずかな移動である」と定義している。他方、これより少し前にラデックもテルミドールについて論じた論文を書いているが、その中ではテルミドールの危険性について次のように定義されている。

 「ソ連邦におけるテルミドールの危険性とは、世界ブルジョアジーの武装介入による労農権力の転覆を通じてでもなければ、資本主義分子の蜂起を通じてでもなく、ソヴィエト権力がプロレタリア的政策の軌道から小ブルジョア的政策の道へとゆっくりと退行していくことを通じて資本主義が勝利する危険性を意味している」(ラデック「テルミドールの危険性と反対派」、『トロツキー・アルヒーフ』第3巻、テラ社、74頁)。

 トロツキーは本稿の中で、クロンシュタットの反乱もテルミドールの一形態であると述べているから、上でのラデックの定義よりもやや広いものであると思われるが、テルミドールを「右への権力のわずかな移動」であると定義したり、また本稿の別の部分では「この復古が一気に一撃で起こるのはなく、一連の継起的に生じる権力移動を通じて……る危険性はあるのか」という問いを出していることからしても、やはりどちらかというと反革命の初歩的・漸進的形態を想定していたと思われる。また、本稿では、それでいてトロツキーら当時の反対派はみな、テルミドールはまだ遂行されておらず、ただテルミドールの危険性が存在するだけだとみなしていた。ラデックの上の定義に見られるように、テルミドールをあくまでも「資本主義の勝利」に結びつけていたからである。しかし、これは「革命が階段を一段下に降りること」「右への権力のわずかな移動」とする定義とは矛盾する。このようなテルミドール観は、後年、トロツキー自身が労働者国家をめぐる論争で批判した「逆回しにされた改良主義」を彷彿とさせる。このような弱点は、当時にあっては、革命を脅かす危険性をもっぱら右からの、クラークやネップマンや国際ブルジョアジーからの危険性としてのみ見ていたことと関連している。

 周知のように、後年、トロツキーは、1920年代におけるテルミドール論を転換して、プロレタリア革命の枠内での権力の官僚主義的変質を理解しなおすことになり、したがってテルミドールはすでに1923年には遂行されていたのだとみなすようになる。

 Л.Троцкий, Термидор, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.4, 《Терра−Терра》, 1990.


 わが国でテルミドールは起こりえるのか? 『プラウダ』では、あれこれの引用を持ち出して、そのようなことが起こりえないという証明がなされている。スターリンは、テルミドールに言及している人々の無知について述べている。しかし、これらすべては間違っており、的をはずしている。

 反対派を小ブルジョア的偏向として、増大する小ブルジョア的自然発生性の反映として非難しながら、同時にブルジョア体制の「テルミドール的」復古の可能性そのものを否定するというのは、まるでつじつまが合っていない。それは2つの点で誤りを犯している。すなわち、反対派の評価と、わが国の発展に内在する危険性の評価に関してである。

 ネップの導入直前およびネップの最初の時期、われわれの多くはテルミドールについてレーニンと少なからず話し合った。この言葉それ自体はわれわれの間で広く流布していた。そのさい誰の頭にも、テルミドールが――われわれの革命は社会主義的な性格を有しているからという理由で――そもそも「不可能である」などという愚かしい衒学的ないし俗物的な主張は思い浮かばなかった。

 クロンシュタットの反乱をめぐってレーニンはこう語ったものだった――「それは何を意味するのか? それは、政治権力をボリシェヴィキから、何らかの無定型な寄せ集め集団、あるいは雑多な諸分子の同盟に移行させることであり、その際、この集団は、ボリシェヴィキより少しだけ右に位置するだけの勢力かもしれないし、あるいは、場合によってはより『左』に位置する勢力かもしれない」。

 「非党員分子はここでは、白衛派が登場するための踏み台階段架け橋としての役割を果たしたにすぎなかった。これは政治的に不可避である」(レーニン「ソ連共産党第10回大会での演説」、1921年3月8日、速記録、19頁(1))。

 クロンシュタットに関与していたのは、周知のように、単に非党員分子だけではなかった。党員であった多くの水兵が反乱に加わった。非党員の水兵とともにこれらの党員水兵は、権力を階級的基盤から移動させようとしたのだ。

 「テルミドール」のクロンシュタット的形態は武装反乱であった。だが、一定の状況のもとで、テルミドールはより平和的に忍び寄ってくる可能性がある。党員および非党員のクロンシュタット派が、ソヴィエトのスローガンとソヴィエトの名のもとに、ブルジョア体制に傾斜したとすれば、たとえその手に共産主義の旗が握られていたとしてもテルミドール的立場へ転落することもありうる。ここに歴史の恐るべき狡智がある。

 テルミドールとは何か? それは、革命の何らかの衰弱ないし士気阻喪の結果として、革命が階段を一段下に降りることであり、右への権力のわずかな移動である。上層部、支配層には、まったく同じ人間、同じ演説、同じ旗が存在しているように見える。テルミドール9日の翌日、その勝利せる参加者たちは、何ら破局のようなものは起こらなかったと深く信じ込んだ。彼らが始末したのは、すっかり混乱し撹乱者になりはて、ピット(2)や当時のチェンバレンの「客観的」協力者となっていた「元指導者」グループだけであった。だが、下部では階級勢力の深い再編が進行していたのである。

 有産階級分子はその時点ではすでに立ち直り、自信と活力を取り戻すことに成功していた。国内秩序は回復された。新しい所有者たちは、手に入れた富を満喫するのを妨げられないことを何よりも望んだ。彼らは国家機構とジャコバン・クラブに圧力をかけた。ジャコバン・クラブのメンバーの多くも、自分が所有者であり、秩序側の人間であると感じていた。ジャコバン党は自らを再編しなければならなかった。すなわち、より順応的で、新しい流れにそって泳ぐことに向いている一定の分子を前面に押し出し、ジャコバン出身でない新しい分子と協力することであり、そして都市の下層階級たるサンキュロットの利益と熱望を体現していた分子を押しのけ、追放し、力を奪い、その首を切断することであった。これらの下層階級は、新しい有産階級とそれを保護している国家機構の圧力にさらされて、もはや自らの力に以前と同じ確信を持つことができなくなっていた。

 最初の権力移動はまさに、同一の支配党内部の変遷のうちに表現された。すなわち、ジャコバン派の一部が他のジャコバン派を押しのけたのである。しかし、それもまた――レーニンの言葉を借りれば――踏み台、階段、架け橋にすぎず、その後それを通じて、ボナパルトに率いられた大ブルジョアジーに権力が移行したのである。

 では、わが国にテルミドールの危険性は存在するのだろうか? この問題は次のことを意味する。(a)わが国にそもそもブルジョア的復古の危険性はあるのか、(b)この復古が一気に一撃で起こるのはなく、一連の継起的に生じる権力移動を通じて起こり、そのさい、最初の権力移動――革命の上昇を体現する分子から革命の衰退に適応しつつあった分子への移動――が上から、かなりの程度は同一の党の内部で起こる危険性はあるのか、である。

 資本主義に包囲された後進国におけるプロレタリアートの独裁に関してブルジョア的復古の危険性を否定することは、考えられないことである。われわれの革命の国際的源泉も国内的源泉も理解しないメンシェヴィキか純然たる降伏主義者だけが、テルミドールの不可避性について語ることができる。だが、テルミドールの可能性を否定することができるのは、小役人、おしゃべり屋、ほら吹きだけである。わが国で問題になっているのはもちろん可能性だけであり、その危険性だけである。まさにこの意味において、レーニンは、「世界のどの勢力もわが国の農地革命を取り消すことはできないだろうが、われわれの敵はいぜんとしてわが国の社会主義革命を取り消すことができる」と言ったのである。

 だが、ブルジョア的復古は、一般的に言えば、先鋭で大規模な転覆という形態か(干渉がある場合もない場合も)、あるいはいくつかの継起的な権力移動という形態が考えられる。これは、ウストリャーロフが「ブレーキをかけながら坂道を下る」と呼んだものである。もちろん、ブレーキをかけながら下りていくからといって、痛みを伴うことなしに事態が進行するわけではまったくない。それは、同じフランス革命が示したとおりである。テルミドールの9日はブリュメールの18日によって補われた。

 したがって、ヨーロッパ革命が勝利しないかぎり、わが国におけるブルジョア的復古の可能性は否定できない。わが国の条件においてより可能性があるのは、急激な反革命的転覆の道か、それとも継起的で連続した権力移動の道か――各段階ごとに一定の急変をともない、最も近い将来にはテルミドール的変動を伴ったそれ――のどちらであろうか? この問題には、きわめて条件つきでしか答えることができない。ブルジョア的復古一般の可能性が否定できないのだから、この2つの道を直視し、――ブレーキをかけた場合とかけない場合の――それぞれの可能性の大きさを測り、それらを準備する諸要素に注意を向けなければならない。経済と同じく政治においても問題は同じままである。誰が誰を?〔どちらが勝つか〕、である。

 第11回党大会で、レーニンは、テルミドール的な権力移動の可能性を鮮やかに描き出した。彼は文化水準の点から問題を取り上げたが、もちろん、これは、政治や経済ときわめて緊密に結びついている。

 「歴史上あらゆる種類の変質が見られた。信念や、献身や、その他のすぐれた精神的資質にたよるのは、政治ではまったく不真面目なことである。
 ……われわれはこう教わった。ある民族が他の民族を征服することはしばしばあるが、その場合、征服した民族が征服者で、征服された民族が被征服者である、と。これは、ごく単純で、誰にもわかることである。しかし、これらの民族の文化についてはどうだろうか? この場合にはそれほど単純ではない。征服した民族が征服された民族よりも文化水準が高い場合は、征服した民族は自己の文化を征服された民族に押しつける。だが、その反対の場合、被征服者が自己の文化を征服者に押しつけることがしばしば起こる」(3)

 レーニンは、統治者のそのような変質が不可避だとみなしたのだろうか? いやそうではない。彼は、それが可能だと考えたのだろうか? 無論だ。彼はその可能性が高いとみなしたのだろうか? 一定の歴史的状況のもとでは、そうである。これは悲観主義を意味したのだろうか? いやそうではない。そうした疑問そのものが愚かしい。(ここで、党のある大物をその友人がいたずらでひっかけたエピソードを紹介しておかなければなるまい。この友人は、自分自身の論文であるとみせかけて、先に私が引用した第11回党大会におけるレーニンの演説の抜粋を彼に見せた。この「大物」は、その真の発言者を知らず、レーニンの演説に次のような判定を下した。「老人のたわごとだ。それには反対派のにおいがする」)。

 このようにレーニンは、たとえボリシェヴィキの手に権力が握られていたとしても、ボリシェヴィキ党の一定の層が台頭しつつある新しい小ブルジョア的自然発生性に目立たない形で文化的・政治的に飲み込まれていくことによって、ブルジョア的変質への経済的・文化的移行が長い期間にわたって生じる可能性が除外されているとは考えていなかったのである。まさにこの点でレーニンは、テルミドール的亀裂と権力移動の可能性を認めていたのである。もっとも、彼が党をテルミドール派とみなしていたとか、われわれをテルミドール派とののしっていたことを意味するものではけっしてない。だが、マルクス主義の言葉はきちんと理解しなければならない。

 わが党によって愚かな官僚主義的政策が行なわれているもとで、テルミドールのまったく現実的な危険性を生み出しうる過程がこの国で進行しているのであろうか? そうだ、進行している。ここではクラークや私企業家のことや、あるいは帝国主義による外からの圧力について詳しく論じないでおこう。これらは周知のものである。そこで、次のような例を取り上げよう。あちこちの工場で、革命的労働者の古参カードルが新しい分子によってわきに押しのけられ、あっさりと反対派へと追い立てられている。ときとして、これらの新しい分子は内戦すら経験していない。そして、これらの分子の中には、革命以前には経営者に従順に従い、革命の最初の時期にはボリシェヴィキに敵対していた連中がたくさんいる。そして、今や彼らは、党員として従順に上司に従い、かつて自分たちがボリシェヴィキに対して用いていたのと同じ言葉で反対派をののしっている。工場でさえ起こっているこのような「権力移動」はまれな例外ではない。それは何を意味するのか? それは、反革命や政権転覆のようなものではなく、まったく同一の階級内における、そしてまったく同一の党内における勢力の再編であり、最もやすやすと状況に順応した分子を上層に引き立て、それによって労働者階級の革命的抵抗力を引き下げるような再編である。この線に沿った勢力再編がより大規模にわが党内で起こりつつあるのだろうか? まさにそうだと私は主張したい。反対派に対する凶暴な闘争方法こそがまさに前述した党内の勢力再編を――非プロレタリア的諸階級の圧力のもとで――促進するものなのである。ここにこそ最も危険な過程が、すなわち、国内のテルミドール分子が党に打撃を与えるのを大いに促進する過程が存在するのである。

 テルミドールの危険性を指摘するわれわれの警告に対して、彼らは、わが国ではかつてのフランスとは異なる階級的相互関係が存在している、等々と主張する。だが、われわれはもまた、ボリシェヴィキの基盤が、18世紀の前プロレタリア的階層ではなく、20世紀の産業労働者階級であることを重々承知している。またわれわれは次のように聞かされていた。フランスはより後進的な封建諸国に包囲されていたので、フランス革命には外部への出口がなかった。だがわが国の革命の場合、より先進的な資本主義国に包囲されているので外部への出口がある。フランスにおける反革命は、絶対的な歴史的必然性であった。だが、われわれの場合、反革命は可能性にすぎず、それは、国際的諸条件が今後もっぱら不利な形で結合し、まったく誤った国内政策が行なわれる場合にかぎられる、と。

 今日において党を理論的に武装解除しようとしている論者の1人は、プロレタリア革命を過去の衣装で包むのは無意味であるという趣旨のマルクスの文章を引用し、そこからテルミドールについて話すことは無意味だとする愚かで甘ったるい結論を引き出している。過去の衣装で身をつつむのは、自らの歴史的役割のちっぽけさを自分と他人に対して覆い隠すためでしかない。そんなことは下らないことである。だが、過去との類推を行ない、過去の例から学ぼうとするのは可能であるし、必要である。1902年〔本当は1904年〕、レーニンは、社会民主主義者とは、労働者階級の革命運動と結びついたジャコバン主義者であると書いた(4)。25年まえのその当時、私は、このレーニンの議論に反対して、フランス革命は小ブルジョアジーの革命であり、われわれの革命はプロレタリア革命であって、過去やジャコバン派などに戻る必要はない、と主張した(5)。要するに、私は、反対派に対して批判者が現在――水で薄めた形で――繰り返している知恵を展開していたのだ。言うまでもなく、レーニンは、18世紀と20世紀との違いについて、サンキュロットと産業労働者との違いについて、われわれに劣らず知っていた。しかし、それでもやはり、レーニンは、ジャコバン派からボリシェヴィズムへといたる歴史的連続性の糸を握っていた点で、まったく正しかったのである。

 テルミドールとのアナロジーもまた同じような意義を有している。それは多くのことを教えてくれる。テルミドールは、分割払いで、何回かに分けて遂行される反革命の特殊な形態である。それは最初の段階においては、同じ支配党の諸分子を利用する――彼らを新たに再編し、相互に対立させることを通じて。

 一部の賢人たちは、ロベスピエール・グループがテルミドール9日にいぜんとして権力の座にあり、野党の側にはいなかったという事実を持ち出しているが、まったく笑止千万である。誰もこの2つの過程がまったく同一であるとは言っていない。テルミドール派は、ロベスピエール・グループをすぐさまギロチンにかけず、徐々に権力を奪っていき(最初はいわば彼らを「叩いた」にすぎなかった)、ついにこのグループは野党になった。他方、わが国の場合、反対派に対する物理的懲罰の手段を早急に要求するすでに成熟したテルミドール派にこと欠かない。ここで問題になっているのは、過程の技術的側面であって、その政治的本質ではない。

 以上の私の言葉から、誰かが次のような結論を引き出し、それを広く流布するだろうということはまったく疑いない。すなわち、われわれの革命が破滅する運命にあり、その前にはテルミドールの道しかなく、わが党はテルミドール派であり、社会主義的発展は不可能である、等々、等々。私はこうした「反対派叩き」の方法を、われわれ自身の党の機構に対するテルミドール的潮流の影響力の最悪の現われの一つであるとみなしている。これは、プロレタリアートを精神的に武装解除すること、党を眠らせることであり、左派と右派、革命派と日和見主義派、社会民主主義とボリシェヴィズムとの間のイデオロギー的・政治的境界を抹消することである。党を理論的に武装解除し、政治的に眠らせることは、テルミドール派潮流の活動を促進する。このような武装解除に反対して、反対派は、非妥協的闘争を展開してきたし、展開し続けるだろう――まさしくテルミドールがけっして不可避的あるとはみなしていないがゆえに、である。

エリ・トロツキー

1927年7月

『トロツキー・アルヒーフ』第4巻所収

『トロツキー研究』第42/43号より

  訳注

(1)邦訳『レーニン全集』第32巻、大月書店、191〜192頁。文章は少し異なっている。強調はトロツキーによるもの。

(2)ピット、ウイリアム(1759-1806)……イギリスの保守政治家、首相。1783年に首相になり、フランス革命の拡大に反対して、1793年に対仏大同盟を結成し、対仏戦争を遂行。戦況が悪化するにつれて反動化し、国内の統制と弾圧を強める。1800年、アイルランドを併合。1801年に引退するも、1804年に対仏戦争再開により復帰。戦争に敗れ引退。

(3)レーニン「ロシア共産党(ボ)中央委員会の政治報告」、邦訳『レーニン全集』第33巻、292頁、294頁。

(4)レーニン『1歩前進2歩後退』、邦訳『レーニン全集』第7巻、411頁。

(5)トロツキー『われわれの政治的課題』、大村書店、185頁以下。

 

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