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シベリア流刑中に『東方評論』で論じた作家・思想家たち(2)

ゴーゴリ(1809-1852)

ウスペンスキー(1843-1902)

ドブロリューボフ(1836-1861)

ベリンスキー(1811-1848)

ダンヌンツィオ(1863-1938)

ジョン・ラスキン(1819-01)

ゲルツェン(1812-1870)

バリモント(1867-1942)

 「反体制派の著作家が、検閲側の攻撃からの避難場所を文芸批評に見出している場合は多い。ブロンシュテインの場合もそうだったのだが、彼にとっては、文芸批評は自分の政治上の見解を述べるための便利な口実以上の意義を持っていた。彼は天成の文芸批評家と言ってよかった。マルクス主義の視点から文学作品を論じようとした彼の最初の試みですらも、しばしばいわゆるマルクス主義批評の主要な特徴になっている例の狭隘な政治的功利主義には染まっていなかった。彼のアプローチの仕方は読者に説教するようなスタイルではなく、テキストに即した分析的なものであり、批評対象のもつ美的価値を生き生きと理解しそれを享受することでより豊かなものとなっていた。彼は飽くことをしらない読書家だった。2年間のシベリア流刑中に彼が論じた著作家たちは、ニーチェ、ゾラ、ハウプトマン[ドイツの劇作家・詩人]、イプセン、ダヌンツィオ[イタリアの詩人・作家、官能主義、耽美主義的立場をとる]、ラスキン[イギリスの批評家、社会改良家]、モーパッサン、ゴーゴリ、ゲルツェン、ベリンスキー、ドブロリューボフ[ロシアの批評家、ベリンスキーの革命的文芸批評の伝統を受け継ぐ]、ウスペンスキー、ゴーリキー、等々にわたっていた。なかには、若さからくる博学のひけらかしとして無視していい評論もあるにはあるが、歴史と文学の両面にわたっての彼の回顧と論及の範囲は、驚くばかりの広さにわたっていた。マルクス主義者としては当然であろうが、彼の根本的な興味は、文学作品の背後にひそんでいる社会的衝動、詩人や小説家によって個性的な表現を与えられているその時代の道徳的・政治的風潮、そしてそれらの作品自体が時代の風潮に与えた影響、などであった。

 しかし、あらゆる詩や戯曲や小説に潜んでいる経済的ないし政治的な階級的利害を発見したと称するような俗流マルクス主義とはいかなる共通点もなかった。彼はまた、例外的なほど(20〜22歳頃の青年としては実に例外的なほど)、セクト的な態度からも自由であった。このようなセクト的態度は、革命家をして、自分の信奉する概念にあてはめることが不可能な、したがって自分には何の利用価値もないような精神的価値を排撃する方向に導きがちである。若いマルクス主義者の場合、こうした態度はたいてい内心の不確信の表われでもある。このようなマルクス主義者は、自分の新たに発見した哲学をまだ真に同化しえていないのである。それは、自分の公言している諸原則が、ある程度まで、自分の思考にとって外在的なものにとどまっている証拠であり、彼は自然な確信によってよりもむしろ義務感から史的唯物論者であるにすぎない。自分の未消化な哲学と矛盾するように思えるものを猛烈に排撃すればするほど、彼の良心はやすらぎ、義務感が満足させられるわけである。したがって、若いブロンシュテインがそういう義務的なセクト的党派性から驚くほど解放されていたという事実は、彼がいかに深くマルクス主義的な思考方法をわがものとしていたかを示すものであり、マルクス主義に対する確信がどれほどのものであったかを示すものである。彼は、社会主義の教義とは縁遠い観念や正反対の観念の持主である作家の才能や天分に対しても、たいてい寛大な敬意を払っていた。それは単に公平さにもとづくだけでなく、『人間の精神的財産は非常に広大で、無尽の多様性を内包しているものであり』、それゆえ『偉大なる先駆者の肩の上に立つ』者だけが、真に新しい、重みのある言葉を発することができるという、確信にもとづくものであった。この21歳の著述家は、革命的社会主義は偉大な文化の伝統の否認ではなくて、その完成であり、否認するのはただその伝統に含まれる保守的で因襲的な概念だけなのだと主張した。彼は社会主義者の見解と非社会主義者の見解とが部分的に重なり合ったり、一致したりすることを発見するのを怖れなかった、自分が全体としては排撃している概念の中にも、真理の堅い芯や一片がひそんでいるのを認めることも怖れなかった。」(ドイッチャー『武装せる予言者』第2章「理想を求めて」より)

 

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