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激動の予兆――トルストイの破門、テロ事件、『イスクラ』の創刊

レフ・トルストイ(1828-1910)

(ロシアを代表する作家・思想家。無抵抗主義と愛による救済を解くトルストイ主義を説く。既成宗教を批判したために、1901年にロシア正教会を破門された)

 「雪に閉ざされたシベリアの辺ぴな流刑囚居留地で、われわれが、ロシア農民の階層分化の問題や、イギリスの労働組合、定言命令と階級的利害との関係、ダーウィニズムとマルクス主義について熱心に論じていたとき、政府の内部においてもイデオロギー闘争が起きていた。1901年2月、宗務院はレフ・トルストイを教会から破門した。

 宗務院の教書はすべての新聞に発表された。トルストイは次の6つの罪を犯したとされた。(1)『聖三位一体において祝福された、人格としての生ける神を否認している』、(2)『死から甦った、神=人であるキリストを否認している』、(3)『聖母マリアの処女受胎と出産以前および以後の処女性を否認している』、(4)『来世と神の審判を認めていない』、(5)『精霊の恵みを否認している』、(6)『聖体の秘蹟を愚弄している』。

 白髪で髭づらの府主教たちや、その精神的指導者であるポベドノスツェフや、その他すべての国家の重鎮たちは、われわれ革命家を犯罪者とみなしていただけでなく、頭のおかしな狂信者とみなし、自分たちのことは、全人類の歴史的経験にもとづいた健全でまともな思想の代表者であるとみなしていた。そしてこれらの人々は、偉大な芸術家にしてリアリストであるトルストイに対して、処女受胎や、聖餅(せいへい)を通じて化体される聖霊について信じるよう要求しているのである。われわれは、トルストイを異端とするこの6つの理由を何度も繰り返し読んだ。そのたびに新たな驚きを覚えるとともに、心の中でこうつぶやいた。「いや、違う、全人類の経験に立脚しているのはわれわれの方だ。未来を代表しているのはわれわれだ。あちらの、高みに立っている連中は、犯罪者であるだけでなく妄想狂だ」。そして、われわれはこの狂気の館を片づけてしまうだろうとの確信を深めるのであった。」(『わが生涯』第9章「最初の流刑」より)

ステパン・バルマショフ(1882-1902)

(エスエル戦闘団の学生メンバーで、1902年4月2日、内相シピャーギンを射殺し、ただちに逮捕処刑される)

 

ニコライ・ボゴレポフ(1847-1901)

(教育大臣であった1901年に、エスエル戦闘団のピョートル・カルポヴィチ(1874-1917)によって狙撃され殺される)

 「古い国家建造物のあらゆる所にひびが入りはじめていた。闘争において先導者の役割を演じたのはやはり学生であった。彼らの一部は焦燥にかられてテロリスト的行動に出た。カルポヴィチとバルマショフによる狙撃事件の後、流刑地全体が、警報ラッパが鳴り響いたかのように、にわかに活気づいた。テロ戦術をめぐって論争が起きた。流刑囚の中のマルクス主義派は、部分的な動揺があったとはいえ、テロリズムに反対の立場をとった。爆発物の化学は大衆にとって代わることはできないとわれわれは言明した。孤立したテロリストたちは労働者階級を立ち上がらせることるなく、英雄的闘争の中で燃えつき。われわれの任務はツァーリの大臣を殺害することではなく、ツァーリズムを革命的に打倒することである。この線に沿って社会民主主義者と社会革命党員とを分かつ分水嶺が横たわっていた。監獄が私にとって理論的自己形成の時期であったのに対し、流刑は政治的自己決定の時期となった。」(『わが生涯』第9章「最初の流刑」より)

『イスクラ』創刊号

 「こうして2年の月日がたった。その間、ペテルブルクやモスクワやワルシャワの橋の下を多くの水が流れた。運動は地下から街頭へと流れ出しはじめた。いくつかの県では農民が騒擾を起こしはじめた。ここシベリアでも、社会民主主義組織[シベリア同盟]が鉄道の路線に沿って次々と結成されていった。これらの組織は私に連絡をとってきた。私は彼らのために檄文やビラを書いた。こうして3年の中断の後、私は再び活発な闘争に加わることになった。

 流刑囚たちはもはやこれ以上流刑地にとどまっていることを欲しなかった。脱走が伝染病のように広がり始めた。脱走の順番を決める必要があった。ほとんどどの村にも、子供の時分から古い世代の革命家の影響を受けていた農民たちがいた。彼らは、こっそりと小舟や馬車やソリで政治犯を連れ出し、手から手へと引き渡してくれた。シベリアの警察は実際のところ、われわれと同じく無力だった。シベリアの広大な空間は、警察の味方であるとともに、敵でもあった。脱走した流刑囚を捕まえることは至難の業だった。もっとも、流刑囚が河で溺れたり、針葉樹の密林の中で凍死することの方が多かった。

 革命運動は大きく広がりはしたが、ばらばらなままであった。各地方、各都市がそれぞれ独自の闘争を行なっていた。ツァーリズムは行動の統一性という点で巨大な優位性を持っていた。中央集権的な党を創設する必要性がその頃多くの人々の頭を悩ませていた。私はこの問題で一つの試論*を書き、その写しはいくつかの流刑地に送られ、そこで熱心に討議された。国内や亡命地の同志たちもこの問題について十分考えていないのではないかとわれわれには思われた。だが彼らはすでに考え行動していた。1902年夏、私はイルクーツク経由で何冊かの本を受け取ったが、その表紙の間に、最近国外で出版されたばかりの、非常に薄い紙でできた印刷物が同封されていた。われわれは、国外でマルクス主義者の新聞『イスクラ』が創刊され、同紙が鉄の規律で結ばれた職業的革命家の中央集権組織を創設することを自らの任務としているのを知った。ジュネーブで出版されたレーニンの小冊子『何をなすべきか』もわれわれのもとに届いたが、それはもっぱらこの問題にあてられていた。私の手書きの試論や新聞論説やシベリア同盟のための声明書は、この新しい壮大な任務を前にして、たちまち、取るに足りない時代遅れのもののように感じられた。私は新たな活動舞台を探し求めなければならなかった。脱走が必要になった。」(『わが生涯』第9章「最初の流刑」より)

 

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