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血の日曜日事件

血の日曜日事件

(冬宮前で労働者の平和的行進に発砲する近衛兵)

 「陛下、私たち労働者は、妻や子どもやよるべなき年老いた両親ともども、正義と保護を求めて陛下の御許に参りました。私たちは貧しくなり、苦しめられ、耐えがたい労働に打ちひしがれ、侮辱されています。私たちは人間として認められず、自分の運命に甘んじて押し黙っていなければならない奴隷と変わらぬ扱いを受けています。私たちは我慢してまいりました。しかし、私たちは、ますます貧困と無権利と無学のどん底に追いやられ、圧制と専横に押しつぶされ、あえいでいます。陛下! もうこれ以上は不可能です。我慢できる限界まできています。耐えがたい苦痛が続くぐらいなら死んだほうがましだという、あの恐ろしい時がやってきたのです。……

 陛下、もし私たちの祈りを許容されず、それにお答えなられなかったら、私たちはここで、この広場で、陛下の宮殿の前で死ぬつもりです。他に私たちの行くべきところなどありません。行く必要もありません。私たちにはただ二つの道――自由と幸福への道か、墓場への道しかありません。陛下、おっしゃってください。そのどちらでも、たとえ死の道であろうとも、私たちは絶対に服従し、その道を進みましょう。私たちの命を、苦悩するロシアのいけにえとなしてください。私たちはこの犠牲をいといません。私たちは喜んで命を捧げましょう」(冬宮に行進したペテルブルク労働者の嘆願書より

血の日曜日事件の直後の冬宮前

 「1905年の1月23日[旧暦の1月10日]早朝、私は、汽車の中で一睡もできないまま疲れはてて講演旅行からジュネーブに帰ってきた。売り子の少年が前日の新聞を売ってきた。そこには、冬宮への労働者の行進が行なわれるだろう、と未来形で書かれていた。私はたぶん行なわれなかったのだろうと判断した。1、2時間ほど後、『イスクラ』の編集部に立ち寄った。マルトフは極度に興奮していた。

 『行進は行なわれなかったんでしょう?』、私は尋ねた。

 『行なわれなかっただって?』、彼は飛びかからんばかりに言った――『僕たちは夜通しカフェに座って、最新の外電を読んでいたんだ。君は何も知らないのか? ほら、これを見てみろ、これを!』、そう言って彼は新聞を差し出した。私は、血の日曜日事件に関する外電記事の最初の10行に視線を走らせた。頭を殴られたような鈍い衝撃と焼けつくような感情の高まりに襲われた。」(『わが生涯』第13章「ロシアへの帰還」より)

 「労働者の嘆願書は、自由主義者たちの各種決議の不明確な言い回しに対して、明確な政治的民主主義のスローガンを対置しただけではない。ストライキの自由と8時間労働日の要求を掲げることによって、スローガンに階級的内容を盛り込んだのである。だが、その歴史的意義は文面にあるのではなく、請願行動が行なわれたという事実の中にあるのだ。請願は行動への導入にすぎなかったし、それは理想的君主制の幻影によって労働者大衆を結集させたにすぎなかったが、この結集こそはプロレタリアートと現実の君主制をただちに不倶戴天の敵としてあい対峙させることになったのである」(トロツキー『1905年』「1月9日」より

 

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