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 ガポン神父

 

 

冬宮への行進を組織したゲオルギー・ガポン神父(1870-1906)

ガポンと「工場労働者協会」メンバー

(「工場労働者協会」は、帝政ロシアの秘密警察長ズバトフが提唱した警察組合主義の一環としてガポンによって1903年に組織された)

 「ストライキは、労働者の純粋に経済的な要求を掲げて始まった。しかし、だいぶ以前から、ロシアの政治的条件のもとでは、どんな大ストライキも政治的性格を帯びるのは不可避であった。このことは、屈辱的な戦争がひどく民心を揺り動かした後の今日では、とりわけよくあてはまる。イニシャチヴをとったのはわが社会民主主義組織である。社会民主主義組織は政治的要求を提出し、その周囲に大量のストライキ参加者を結集させることに成功した。この時、政治的アジテーターとして登場したのがガポン神父である。彼は、事態の発展を促進し、そこに彼独特の性格を付与した。この個性はまだ完全に明らかになっていないが、彼が最近の事件で果たした役割は完全に明らかである。ゲオルギー・ガポンが、意識的に無学な大衆の考えや気分に自らの見解を一致させたのか、それとも実際には、彼は自分で言っている以上ではなかったのか、いずれしても、彼は疑いもなくわれわれよりもこれらの大衆に近かった。しかし、この大いなる近さは、政治的目的や政治的闘争手段の明確さを犠牲にして達成されたものである。それゆえ、大衆を結集するわれわれの組織が点としてしか存在していなかった時に、ガポン神父はこれらの大衆を直接導くことができたのである。しかし同時に、まさにそれゆえ、この運動の内部には始めから内的矛盾が孕まれていた。彼は大衆をツァーリのもとに連れて行ったが、ツァーリに敵対させてしまった。彼は大衆を平和的デモに連れ出したが、革命に連れ出してしまった。彼が従えていた組織には数千の労働者が参加していた。この組織は、革命の中心として、数十万の大衆を自己の周りに結集することができた。しかし、この組織自身は己れの革命的性格を自覚しておらず、その革命的意味は隠されていた――まさにそれゆえ、数千の労働者を抱えたこの組織がガポン神父とともに労働者大衆の中に入ってくるやいなや、群衆という環で組織という鎖をつくり出す代わりに、未組織の群衆の中に溶解してしまったのである。ガポンと群衆――これこそ、1月9日の定式である。……

 必要なのは、反乱が全国に波及し、ある共通の瞬間に全国で最高度の緊張に達することである。ペテルブルグからどんなに急速に伝わろうとも、それでも地方は今回立ち遅れた。百万人以上の大衆が全国で蜂起の準備を整えたとしても、――そしてこのことは、今なおわれわれの前で展開しているこの大衆的運動の状況が示していることなのだが――いっせいに立ち上がるためには組織が必要なのである。

 現在の政治的条件下においては、この何十万もの人々を組織することは不可能である。しかし、今後全体を結びつける酵素となり、そして革命の瞬間には自己の周囲にこの数十万の人々を結集させるであろう組織をつくることはできる。

 われわれのなすべきことは革命を組織することである。

 われわれはこれまで、労働者をその階級闘争のために組織してきた。今やわが国には特殊な課題がある。それはもちろんのこと、最初からあったものではなく、これまでの活動から生まれてきたものである。それはすなわち、労働者の革命的カードルを組織することである。当面する明確な課題をもった、組織された労働者集団が必要である。その課題とは、大衆に蜂起の準備をさせ、蜂起時に自己の周囲に彼らを結集し、特定のスローガンのもとに蜂起に立ち上がることである。」(パルヴス「総括と展望」、『イスクラ』1905年1月27日号)

 

ガポン神父の遺体

(ガポンは「血の日曜日」事件後に亡命し、社会主義組織に接近したが、1906年に秘密警察のスパイとなり、エスエル戦闘団によって暗殺された)

 

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