トロツキー写真館

  

バルカンの君主と政治家たち

セルビアの君主ペータル1世(1844-1921)

モンテネグロの君主ニコラ1世(1860-1918)

ブルガリアの君主フェルディナンド1世(1861-1948)

ルーマニアの君主カロル1世(1839-1914)

 「バルカン半島は、ドイツと比べて広さではほぼ等しいが、人口はほぼ3分の1(2200万人)であり、オーストリア・ハンガリーの属州であるダルマチア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナを除いて、ギリシア、トルコ、ルーマニア、ブルガリア、セルビア、モンテネグロという六つの独立国に分断されている。独自の王朝、軍隊、通貨制度、関税制度をもつこれら六つの国には、分断され個々の破片になった多数の民族が暮らしている。ギリシア人、トルコ人、ルーマニア人、ブルガリア人、セルビア人、アルバニア人、ユダヤ人、アルメニア人、ジプシーなど……。バルカン半島のミニ国家間の国境は、自然条件や民族の必要にしたがって画定されたものではなく、戦争、外交的陰謀、王朝の利害の結果にしたがって画定されたものである。列強――何よりもまず、ロシアとオーストリア――はつねに、バルカンの人民と諸国家をお互いに対立させ、相互に弱体化させたのち、自己の経済的・政治的影響下におくことに利益を有している。バルカン半島のこれら『細切れにされた諸地域』におけるミニ王朝は、ヨーロッパの外交的陰謀の梃子であったし、今もそうである。強制と陰謀にもとづいたこの全メカニズムは、バルカンの諸人民にのしかかる巨大な重荷となって、彼らの経済的・文化的発展を抑圧しているのである。……

 バルカン半島の国家的統一は、2通りのやり方で進めることができる。上から、すなわち、一個のより強力なバルカン国家が弱小国家を犠牲にして拡大することを通してか――これは、絶滅戦争の道であり、弱小民族を抑圧し君主主義と軍国主義とを強化する道である。あるいは、下から、すなわち、人民自身の統一を通じてか――これは革命の道であり、バルカン共和国連邦の旗のもとでバルカンの諸王朝を打倒する道である。

 これらちっぽけなバルカン君主とその内閣および与党のすべての政策は、一つの王権のもとでバルカン半島の大部分を統一するという見せかけの目的をもっている。『大ブルガリア』や『大セルビア』『大ギリシア』は、こうした政策のスローガンである。しかしながら、実際には、このようなスローガンをまじめに取り上げる者はいない。それは、国民の人気を得るための半ば公式の嘘なのである。バルカンの諸王朝は、ヨーロッパ外交によって人工的に植えつけられたものであり、いかなる歴史的起源もない。鉄と血によってドイツを統一したビスマルクにならった『大がかりな』政策をあえてするには、それらの王朝はあまりにもちっぽけで、あまりにも不安定である。最初の重大な衝撃があれば、カラジョルジェヴィッチ家[セルビアの王家]やコーブルク家、その他の、王位にあるバルカンの一寸法師たちは跡形もなく一掃されるだろう。」(トロツキー「バルカン問題と社会民主党」より)

セルビアの首相ニコラ・パシッチ(1845-1926)

アルメニアの民族主義的英雄アンドラニク・オザニアン(1866-1927

(バルカン戦争中にトルコに対するパルチザン闘争を指導した)

 「個人が歴史をつくるのではなく、歴史は個人を通してつくられる。だから現在のような危機的な時期に、セルヒア史――とはいっても、その登場人物たちがまだ舞台から消え去っていない時代――から何人かの代表的人物の横顔をスケッチしてみるのも無益なことではあるまい。

 ニコラ・パシッチ――職業は技師。急進党の創設者、党首。1883年に死刑判決を受け6年間亡命した。1899年には現存するあのベオグラードの監獄にまだ捕らわれていたが、今日はセルビアの最長老として政府の首長である。というのは、国王はパシッチとその側近であるラザル・パチューやストヤン・プロティチの手の内にある傀儡にすぎないからだ。人々はパシッチがドイツ語もロシア語もフランス語もうまく喋れず、セルビア語さえもうまくないと思っている。身についていない言葉をやっとのことでつないで、最も幼稚な形で自分の思想を伝える。だから談話では愚かにみえる。しかし、もし言葉の響きの背後にあるパシッチの思想そのものを理解しようとすれば、それは、自己完結的なまでに独自的なものであることがわかるのである。パシッチには才能や輝き、理論一般の素養といったものが欠けており、その点では彼はパチューやプロティチより劣っている。しかし、彼はこれらの人物の中で最も『先見の明がある』人物である。もう一人の『先見の明がある』セルビア人、ドラギシャ・ラプチェヴィチ[セルビア社会民主党の指導者]が彼をそのように評価したのだ。」(トロツキー「人物像から見たセルビア」、『バルカン戦争』より

 「並の穏やかな人生で始まるのが似つかわしくない例外的な運命を持った人物が、この世には少なからず存在する。だがもちろん、人生の方が彼らより強い。そこで出番がないときには、彼らも平凡な生活の秩序が要求するものに適応しなければならない。勤めにつき、家族を養い、リュウマチに不平を言い、結局老いさらばえていく。だが、歴史が不安と混乱の時期に入るや、このような人々は活気づき、一声かけられると乗馬用の長靴をはいて、人生の収支決算も考えず、飛び出していくのである。

 ソフィアで結成されたアルメニア義勇隊を率いているのは、歌に歌われた伝説の英雄アンドラニクである。帽子をかぶり、編み上げの長靴をはいた彼は、中背、やせぎすで白髪混じり、顔にはしわがあり、あご髭はそっているが、口にはごわごわした髭をはやしている。その顔つきは、ひどく長引いた歴史の幕問の後にふたたび自分を見いだした人物のものである。

 アンドラニクは46歳、トルコ領アルメニアの出身で、以前は木工家具職人だった。1888年にシヴァス州で革命活動を始め、1892年にアルメニアの「ダシナクツテユン」党に加わった。すでに露土戦争の時代、つまり70年代の終わりにトルコ領アルメニアでは、トルコ人とクルド人の支配に対する武装蜂起という考えは広範な支持を得ていた。また革命家たちはその蜂起が列強、特にロシアの干渉を呼び起こすにちがいないと考えていた。ペテルブルグ外交の諜報員たちは、当時、アルメニアの革命家たちを自分の側に引きつけ、飼いならそうとしていた。しかし、この時期は長続きしなかった。アレクサンドル3世の即位とともに、ロシアの政策はすでに新しいものになっていたのだ……。アンドラニクの政治観はカルボナリ党的な外交方針と打算の枠内で形成されたのである。」(トロツキー「アンドラニクと彼の部隊」、『バルカン戦争』より

 

前へ次へ

第1期第2期第3期

 

トロツキー研究所

トップページ

トロツキー写真館