トロツキー写真館

  

ラコフスキーとゲレア

 ラコフスキーとトロツキーとドブルジャヌ・ゲレア

(1913年、ブカレストにて)

 「ルーマニアで過ごした1ヵ月は、私をドブルジャヌ・ゲレアに近づけ、1903年以来の知人であったラコフスキーとの友情を永遠に打ち固めてくれた。

 1870年代世代に属するあるロシア人革命家が、露土戦争前夜に『通りすがりに』ルーマニアに立ち寄り、そのままそこに腰を落ち着けた。そしてわずか数年で、この同胞は、ゲレアという名前で、まずルーマニアのインテリゲンツィアに対し、続いて先進的労働者に対し、大きな影響力を持つようになった。社会的基盤に立脚した文芸批評、これが、ゲレアがルーマニア・インテリゲンツィアの先進グループの自覚を促した主要な分野であった。彼は、美学と個人的道徳の諸問題から科学的社会主義へと導いていった。ルーマニアのほとんどすべての政党の政治家たちの多くは、青年時代に、ゲレア指導下のマルクス主義の即席学校で学んだ。もっとも、このことは、彼らが成長して反動的ギャング政治を行なうことを妨げるものではなかったが。

 Ch・G・ラコフスキーはヨーロッパの社会主義運動の中で最も国際的な人物の1人であった。彼は出自としてはブルガリア人であり、ブルガリアのど真ん中にあるコーテルという町の出身であったが、バルカンの地図からすればルーマニア国民であった。フランスで医者としての教育を受け、その人脈、共感の対象、著述活動の点ではロシア的であった。ラコフスキーは、バルカン諸国のすべての言語とヨーロッパの4つの言語をあやつり、さまざまな時期に、4ヵ国――ブルガリア、ロシア、フランス、ルーマニア――の社会主義政党の党内生活に積極的に参加した。その後、彼は、ソヴィエト連邦の指導者の1人となり、コミンテルンの創始者の1人、ウクライナ・ソヴィエト人民委員会議長、イギリスとフランスのソヴィエト大使となり、最後には、左翼反対派と運命をわかちあった。ラコフスキーの個人的特徴――広い国際的視野と高潔な人格――は、正反対の資質の持ち主であったスターリンにとってとくに忌ま忌ましいものだった。

 1913年、ラコフスキーは、のちに第3インターナショナルに加盟したルーマニア社会党を組織しその指導者となった。この党は伸張を遂げた。ラコフスキーは日刊紙を編集するとともに、その資金も出した。ラコフスキーは、マンガリアからほどない黒海沿岸に、遺産として受け継いだ小さな土地を所有していたが、そこからの収入をルーマニア社会党や他国の革命グループ・個人への資金援助にあてていた。ラコフスキーは、週のうち3日をブカレストで過ごし、論文を書き、中央委員会の会議を主宰し、集会や街頭デモで演説をし、それが終わると、細引ひも、釘などの日用品を持って黒海沿岸行きの汽車に飛び乗り、自分の所有地へと向かう。着くと、その足で畑に出かけ、新しいトラクターの作業状況を点検し、都会的なフロックコートを着たまま、トラクターの後について畑のうね溝を走り回る。そして翌々日には、集会や会議に遅れないよう再びとって返すのであった。

 私はこの往復旅行に付き合ったことがあるが、その猛烈なエネルギー、疲れを知らぬ気力、変わることのない新鮮な精神、名もない人々に対する優しい思いやりに心を打たれた。彼はマンガリアの道ばたで会話するさい、わずか15分ほどの間に、ルーマニア語からトルコ語、トルコ語からブルガリア語へと移り変わり、入植者や商人たちと話すときにはフランス語やドイツ語を話し、さらに、付近に大勢住んでいるロシア人のスコペツ教徒とはロシア語で話していた。彼は、時には地主として、時には医師として、ブルガリア人として、ルーマニア国民として、そして何よりも社会主義者として話を交わした。私から見れば、彼は、この辺鄙でのどかで淀んだ沿海の町にあって、一個の生きた奇跡であった。夜になると、再び汽車に乗って戦闘の場へと向かうのである。彼は、ブカレストにいても、ソフィアにいても、パリやペテルブルクやハリコフにいても、変わることなく快活で自信にあふれていた。」(『わが生涯』第17章「新しい革命の準備」より)

 

前へ次へ

第1期第2期第3期

 

トロツキー研究所

トップページ

トロツキー写真館