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ヨッフェと『プラウダ』編集部

アドルフ・ヨッフェ(1883-1927)

(トロツキーの最も親しい友人の一人。ウィーン『プラウダ』の編集・輸送を担当。ウィーン協議会の組織のためロシア国内に派遣された時に逮捕。革命後に釈放され、外交官として活躍)

マトヴェイ・スコベレフ(1885〜1939)

(古参メンシェヴィキ。1912年に第4国会の議員に。世界大戦中は社会愛国主義派。10月革命後に亡命するが、1922年にボリシェヴィキに入党。1939年に粛清)

 「『プラウダ』における私の主要な協力者は、後にソヴィエトの著名な外交官となるA・A・ヨッフェだった。私たちの親交はウィーン時代から始まった。ヨッフェは、高い思想性を持ちながら、個人的には非常に温和で、大義への揺るぎない献身を有した人物だった。彼は『プラウダ』にその持てる力と手段を注いでくれた。

 ヨッフェは、神経の病に苦しみ、ウィーンの著名な医者アルフレート・アドラーのもとで精神分析の治療を受けていた。この医師は、フロイト教授の弟子として出発したが、その後、師と対立するようになり、個人心理学という独自の学派を旗揚げした。私はヨッフェを通じて精神分析学の諸問題に関する知識を得た。この分野ではまだ多くのことが不明瞭であぶなかしく、空想と独断の入る余地がいくらでもあるが、それでも私はこの学問に大いに興味をそそられた。

 私のもう1人の協力者はスコベレフという学生で、後に、ケレンスキー政権の労働大臣になった男である。1917年に私と彼とは敵として相まみえることになる。一時『プラウダ』の書記をつとめていたのは、ヴィクトル・コップである。彼はいま、スウェーデンのソヴィエト公使になっている。

  ヨッフェは、ウィーン『プラウダ』の仕事のため、ロシアに出かけて活動に従事した。その彼はオデッサで逮捕され、長期間投獄されたのち、シベリアに流刑になった。彼が釈放されたのは、ようやく1917年の2月革命によってであった。ヨッフェは、10月革命の最も積極的な参加者の1人だった。重い病気を持ったこの人物の個人的勇気は実に見事なものだった。1919年の秋、砲弾で穴だらけになったペトログラード郊外の戦場に立つずんぐりした彼の姿が、今でも目に浮かぶ。外交官の洗練された服装に身を包み、落ち着き払った顔に柔和な微笑みを浮かべながら、ステッキを手に持ち、あたかもウンテル・デン・リンデン通り※を歩いているように、ヨッフェは、歩みを早めもせず遅らせもせず、近くで砲弾が炸裂するのをおもしろそうに眺めていた。

 ヨッフェは、思慮深く心のこもった演説をするすぐれた演説家であり、著述家としてもそうであった。どんな仕事においても、ヨッフェは小さなことに細やかな神経を使っていたが、これは多くの革命家に欠けていた資質だった。レーニンはヨッフェの外交官としての仕事を高く評価していた。私は長年にわたって、誰よりもこの人物と深いつきあいがあった。その思想上の志操堅固さはもとより、友情への彼の献身は比類なきものだった。」(『わが生涯』第17章「新しい革命の準備」より)

アドルフ・ヨッフェの墓

(ヨッフェは1927年11月、病気の苦しみとスターリン官僚制に対する絶望から自殺を選ぶ。そのときトロツキーに宛てたヨッフェの遺書は、レーニンのように断固として己の道を歩むようトロツキーに訴えていた)

 「ヨッフェの生涯は悲劇的な結末を迎えた。重い遺伝性の持病は彼をすっかり衰弱させていた。それに劣らず彼を衰弱させたのは、マルクス主義者に対するエピゴーネンどもの野放図な迫害であった。病気と闘う可能性を奪われ、したがってまた政治闘争の可能性をも奪われたヨッフェは、1927年の秋に自ら命を絶った。私に宛てられた遺書は、スターリンの手先によって、こっそりとベッドサイドのテーブルから持ち去られた。友人としての思いやりを込めて書かれた章句が、ヤロスラフスキーをはじめとする内的に堕落した連中によって遺書から削りとられ、歪曲され、中傷された。だがこのことは、ヨッフェが革命の歴史にその最良の名前の一つとして永遠に書き記されることを妨げはしない。」(『わが生涯』第17章「新しい革命の準備」より)

 

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