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ウィーン『プラウダ』の創刊

 ウィーン『プラウダ』第3号

(この号からウクライナの社会民主主義組織スピルカの機関紙ではなくなり、事実上、トロツキー独自の党統一派の機関紙としての役割を果たす)

ウィーン『プラウダ』を読むトロツキー

 「1908年10月、私はウィーンで、広範な労働者層を対象としたロシア語新聞『プラウダ』を発行しはじめた。この新聞は、あるいはガリチアの国境を越え、あるいは黒海を越えて、ひそかにロシアに届けられた。この新聞は、いいときで月に2回程度の頻度で3年半にわたって発行されたが、その発行には面倒で根気のいる多大な労力を要した。ロシアとの秘密の文通には莫大な時間が費やされた。加えて、私は、黒海の非合法の海員組合と密接な関係を持っていて、彼らの機関誌の発行を援助した。」(『わが生涯』第17章「新しい革命の準備」より)

 「ウィーンは当時、ハプスブルク家の首都であっただけでなく、トロツキーの首都でもあった。ロシア社会民主党の亡命者コロニーのほとんどすべては(ただし小規模のものだったが)、トロツキーの影響下にあった。彼には自分の『宮廷』があった。それを構成していた中でとくに近しい面々だったのは、エス・セムコフスキー(エス・ユ・ブロンシュテイン)と彼の妻イレーナ・イズボリスカヤ、ア・ヨッフェ、マトヴェイ・イワノヴィチ・スコベレフだった。彼は当時すでに、自分と自分の盟友たちとのあいだに『距離感』をつくり出すすべを知っていた。彼らはトロツキーを崇拝し畏れていた。私が言っているのは彼のセクトのメンバーのことであり、『トロツキスト』あるいは、彼がウィーンで出していた新聞の名前にちなんで、『プラウダ派』と呼ばれていた」(ピョートル・ガルヴィ『ある社会民主主義者の記録』より)

 

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