革命のカレンダーについて

ジャン・ルーへの手紙

トロツキー/訳 湯川順夫

【解説】本稿は、1937年5月事件をめぐる理論的考察である。トロツキーは、スペイン革命における5月事件をロシア革命における7月事件と対比し、両者の同一性と差異を考察するとともに、1937年5月の時点で革命派は権力を獲得することは可能であったとの結論を下している。

 本稿は最初『トロツキー研究』第22号に掲載されたが、今回アップするにあたって訳注を追加した。

L.Trotsky, On the Revolutionary Calender, The Spanish Revolution (1931-39), Pathfinder Press, 1973.


  親愛なる友へ

 5月5日付け[10月5日付け?]の手紙で、あなたは、1937年5月12日付けのルンドの手紙(「バルセロナの蜂起(若干の予備的考察)」)と1937年8月24日付けの私の論文(「スペインの経験を通じた諸個人と諸思想の検証」)との間に5月事件の評価に関して矛盾があると主張している。

 この矛盾なるものは、ペトログラードでの7月事件とのアナロジーに関係するものである。あなたはまた、親POUM派がこの「矛盾」の恩恵をこうむることになると予測している。私はそうは思わない。なぜなら、このアナロジーは実際あまりにも軽率だからである。私は二つの論文を読み直したが、そこには少しの矛盾も見いだせなかった。反対に、この二つの論文は相互に補い合うものである。

 

   歴史的アナロジー

 歴史のそれぞれの具体的事件は、数多くの根本的、2次的要素によって決定される。弁証法は、所与の事件の中で2次的、3次的、10次的でしかない要素に決定的重要性を与える。したがって、ドイツ労働者階級の敗北がその低い生産力の水準によってではなく、階級対立の不十分な発展によってでもなく、直接に、そしてもっぱら、労働者階級の政党の破産によって決定されたと確信をもって言うことができる。こうして、われわれは、歴史の諸要素のヒエラルキーにおいて党が決定的位置を占めることを知るのである。

 もしロシアの7月事件を徹底的に分析するならば、この国のそれまでの歴史を決定していた上から下までのすべての要素を見いだすことができる。戦争の影響と軍隊の巨大な比重は言うまでもなく、生産水準、労働者階級の特殊な比重、農民の役割、国内におけるペトログラードの位置、さまざまな政党の役割、などがそれである。7月事件が他のどの国でもそのまま繰り返されることがけっしてないことは絶対に明白である。では、アナロジーにはどう役立つのだろうか? われわれが今日にとって実践的に最も興味深い観点から、新しい事件を明確にするために役立つだけである。このようにして、私はしばしば7月事件を重大な敗北の例として引き合いに出してきた。けれども、この敗北は、決定的なものではなく、勝利への途上にある避けられない段階とみなすこともできる。だが、この勝利がけっして敗北によって「保証」されたわけではなく、正しい革命的政策を含む一定の補足的諸条件のもとではじめて可能となったにすぎなかった、という点をつけ加えておかなければならない。

 

   「強調しなければならないこと」

 ルンドの論文は、「不完全であるばかりでなく、意識的に歪められた」外電にもとづいて1937年5月12日に書かれたものだが、次のように述べている。「1917年の7月事件とのアナロジーは、われわれにとってあまりにも明白なので詳しく論ずる必要はない。何よりも強調しなければならないのは、その相違である」。したがって、この筆者は、このアナロジーにまったく満足していないのである。逆に、彼は読者にその分析と診断の不十分性について警告している。彼は言う。「何よりも強調しなければならないのは、その相違である」と。7月事件とのアナロジーは、何よりも、当面の宣伝の目的のためになされている。その至上の目的は、敗北した者を勇気づけることであった。「ロシア人民もまた7月に敗北を喫したが、それでも権力を獲得することができた」というわけである。これこそ、この場合にアナロジーの帰結なのである。

 だからこそ、大衆ではなく指導者を直接に取り上げたルンドが、その手紙で本質的に次のように語ったのである。すなわち、「あなたは当然、ロシアの7月の例を用いて労働者を励ます。それはあまりにも当然なので、強調する必要がない。だが、当面の宣伝にとって重要な意味を持つこのまさに一般的なアナロジーとは関係なく、両国の情勢はまったく異なっており、われわれの分析と診断が共通の特徴よりもむしろその相違に基礎を置かなければならない、ということを忘れてはならない」と。ルンドは、5月の運動をまさに「自然発生的な」ものと特徴づけている。「すなわち、POUMの指導者を含む指導者たちにとって予期せざるものとして勃発した」(再び、ロシアにおける7月事件との一定のアナロジー)。しかし、同じ手紙の中で、ルンドは5月の運動を正しい名称、「蜂起」という名称で呼んでいる。彼はけっしてこの蜂起を「時期尚早」だとみなしていない。彼は、バルセロナの「休戦」に不安を感じている。他方、1917年7月のペトログラードでは、ボリシェヴィキ自身が休戦を追求した。

 ここに、この問題についてルンドが述べている箇所がある。「外電が述べているバルセロナの休戦は何を意味するのか? 主として指導部の一貫性のなさによって決定された蜂起の敗北か、それとも人民大衆の圧力を恐れた指導者の直接の屈服か? われわれにはまだわからない。当面、闘争はバルセロナ以外で続きそうである。バルセロナでの攻勢を再び開始することができるだろうか?」。要するに、ルンドにとって問題は、その出発点がどのようなものであれ、客観情勢全体によって、権力獲得に向けた革命のそれまでの全歴史によって、方向づけられている蜂起の運動の問題なのである。この情勢における唯一の問題は、左翼、POUM、アナーキストの組織の態度の問題であった。以上が、事件と同じ時期になされたルンドの「予備的」評価であった。

 8月24日の私の論文は主として同志フェレーケン(1)に向けられたものであった。彼の間違い、すなわち、数多くある彼の間違いの1つが何に由来しているのか? 彼は、7月事件との純然たる形式的なアナロジーにもとづいて5月事件についての自分の評価を行なう。フェレーケンは、6年間の革命的発展を経て1937年5月に提起されたような情勢を研究する代わりに、図式的なカレンダーを、歴史と政治のすべての謎を解明するマスターキーとみなしている。ルンドが、「何よりも強調しなければならないのは、その相違である」と書いたとき、彼が警告しようとしたまさにその過ちを、フェレーケンは犯しているのである。

 

   権力の獲得は5月に可能であった

 数千マイル離れ、行動の現場でのみ得られる情報を入手することがなくても、5月事件において権力の獲得が物質的に可能でなかったかどうかをやはり問題にすることができる。しかし、それ以降、文書や報告や数え切れない論文がすべての潮流の新聞に登場した。すべての事実、すべての資料、すべての証言は、同一の結論に導かれている。すなわち、権力の奪取は――前もってこの問題を一般的に提起することが可能であるのと同じくらい――可能だったし、確実だった。その最も重要な証拠は、アナーキストからもたらされている。5月の蜂起以降、『ソリダリダ・オブレラ(労働者の連帯)』[カタロニア・アナーキストの有力機関紙]は、相も変わらぬ悲しげな調子で次のように繰り返している。「われわれは5月反乱の煽動者だと非難された。だが、われわれは反乱にはまったく反対だった。その証拠? われわれの敵もわれわれと同様に知っている。もしわれわれが権力の奪取を望んでいれば、5月に確実にそうすることができていただろう。だが、われわれは独裁に反対なのだ、云々、云々」。

 不幸は、まさに、CNTが権力を望んでいなかったことである。不幸は、POUM指導部が受動的にCNT指導部に順応していたことである。(最もささやかな)不幸は、フェレーケンとスネーフリート(2)とヴィクトル・セルジュがPOUMの態度に受動的に順応したことである。なお悪いことに、われわれがPOUMの致命的な自己満足(「自分たちの」建物、「自分たちの」ラジオ局、「自分たちの」印刷機、「自分たちの」民兵隊)をぐらつかせようと試みたまさにその決定的瞬間に、われわれがPOUM指導者たちに、革命が無慈悲な論理をもっており、この論理が中途半端な手段を許さない(スターリニストが社会主義者やアナーキストに取って代わったのはまさにこのためなのである)ことを理解させようとしたときに、この決定的な瞬間に、フェレーケンとスネーフリートとヴィクトル・セルジュが自らの棍棒を車輪のスポークの間に差し込んだこと。

 これらの連中は、われわれに反対してPOUM指導部を支持すること、すなわち、その躊躇や一貫性のなさや日和見主義を支持することが好都合だとみなした。最近の事態は、それらの点を無慈悲に立証した。いわゆる7月事件以来、POUMは強くなるどころか、事実上、壊滅させられた。CNT――POUMはその影である――は、今では、次々とその陣地を失いつつある。下からの新たな爆発によってまだスペイン革命を救うことができるのかどうかわれわれにはわからない。しかし、CNTとPOUMは、スターリニストの勝利を確保するために、すなわち反革命の勝利を確保するために、できることは何でもした。そして、フェレーケンとスネーフリートとヴィクトル・セルジュはこの破滅への道を歩むPOUMを支持するためにあらゆることをやってきた。

 

   決定的問題

 われわれのすべての支部は、最大の関心をもってスペイン情勢の発展を追ってきた。もし現在、われわれの国際的新聞やすべての内部ブレティンを検討するならば、組織の圧倒的多数がレーニン主義的方法をスペインの事態にいかに適用すべきかを知っていたということを満足をもって述べることができる。われわれは、クラート(3)やモウリン(4)やブラウン(5)と通信してきたし、その通信は争う余地のないマルクス主義的価値を有している。われわれの組織は、このようにして歴史規模を持った問題において釣合いの中でその理論的試験に合格した。そして、各段階ごとに、同志スネーフリートとフェレーケンは、ヴィクトル・セルジュの支持を受けて、われわれの立場に、第4インターナショナルの圧倒的多数派の立場に、中間主義的態度を対置した。この態度は、その見通しとスローガンが不明確なだけにいっそう国際書記局に対して激しいものだった。

 同志スネーフリートがわれわれの国際組織といっさいの通常の関係を断ったとき、われわれに反対してわれわれの非和解的な敵と協力したとき、彼は常に、「国際書記局の悪しき体制」、「その無能」などという口実を用いたものだった。同志フェレーケンは、独自の個人的ニュアンスがあるものの、同じことを行なった。「体制」の問題については、われわれもまた、党の生活を締め殺す官僚主義も、綱領もテーゼも討論も好まない指導者の善意も、社会主義革命の世界党の規範とはなり得ないことを示すために、わがスネーフリート同志にいくつか言うべきことがある。だが、今日、それは「体制」の問題ではない。これは、スペイン革命に対する態度の問題なのである。根本的な相違が明らかになった。POUMの政策は、メンシェヴィキの政策であったし、今も寸分たがわずそうであり続けている。だが第4インターナショナルは、ボリシェヴィキ的伝統を継続し、発展させる。

 

   われわれの方法

 第4インターナショナルは、始まったばかりである。それは、教育という途方もなく膨大な任務を達成しなければならない。忍耐強くなければならない。過去10年間のわれわれの歴史を振り返って見れば、忍耐と我慢強さがないといってわれわれを責めることはできない。除名はきわめてまれであった。両手で数えられるほどである。われわれの組織は、常に、討論と説得の方法、また見解の対立点を時間と事件によって検証する方法を用いてきた。分裂と離脱は、われわれの最大限の善意と教育のための忍耐にもかかわらず、自らの「潮流」がボリシェヴィキ的組織と相容れないことを自ら認めた分子やグループの産物であった。第4インターナショナルの「悪しき体制」を言い立てて、われわれと袂を分かった連中は、次々と無価値な存在に転落してしまった。ランダウ(6)、ウィッテ(7)、R・モリニエ(8)、エーラー(9)、ワイスボード10)、フィールド11)など、これら全員は、十余年に及ぶ事態の発展と偉大な歴史的伝統とマルクス主義思想の断絶されることのない集団的作業によって歴史的に決定された路線の枠外に、間に合わせ的に潮流を形成することが容易でないことを、自らのみすぼらしい経験によって確認しなければならなかった。

 同志スネーフリートは、自分の党を国際組織から断絶することをずっと以前から考えていた。なるほど確かに、彼は、自分の立場を表すために「4」という数字を常に用いてきた。しかし、根本的諸原則たるボリシェヴィキ・レーニン主義的綱領の枠外では、それにもとづく集団的作業の枠外では、第4インターナショナルの公式は空文句と化し、何の役にも立たない。こうした状況はますます曖昧なものとなって、ほとんど3年間も続いている。つまり、「革命のカレンダー」としては少々長すぎるのである。言うまでもなく、われわれはわがオランダ支部の離反を望んでいないし、その反対である。われわれが望んでいるのは、オランダ支部がわれわれの国際的枠組みにうまく入って来ること、実際にわれわれの集団的生活に参加することである。いかなる国際組織であろうと、その支部の1つが浸透不可能な壁によって分かれたままでいることを許しておくことはできないし、同志スネーフリートがボリシェヴィキ・レーニン主義者との間の根本的相違を覆い隠すために、「われわれの体制」や「われわれのやり方」に対する――ますます激しさを増し、ますます道理を失いつつある――「告発」をそのまま聞かされるのも、許すことができないだろう。そして、もちろんのこと、フェレーケンは、混乱した政策を支持する機会をけっして逃さない。それが右なのか左なのかということは、彼にとって取るに足りないことなのである。

 われわれはオランダの姉妹組織と徹底的な討論を持たなければならない。これは、官僚的に準備され官僚的に実現される秘密裏の分裂を阻止する唯一の可能性である。われわれのベルギー組織は、当然、この討論に参加するだろう。この討論は、次の国際会議に向けた準備とならなければならない。われわれは、分裂を回避する方法を知っている。同時に、われわれは分裂を準備しつつある者たちを阻止するやり方も知っている。われわれはこの討論から、より成熟して、より統一して出て来るだろう。大きな事件が近づいている。われわれには、2回も、3回も同じ過ちを繰り返す権利はない。スペイン革命は、それがいかに重要であろうと、その何倍も重要な出来事のための「リハーサル」以外の何ものでもない。新しい世代が体験したこの経験からいっさいの教訓を引き出す必要がある。これは、あれこれの問題についての詭弁的解釈によってはなしえない。一部の人々は、それによって、われわれをわれわれの道から逸すことができるだろうが。事態がおのずから物語っている。国際会議は、その声をどう解釈すべきかを知るだろう。

1937年10月22日

『スペイン革命 1931-39』所収

『トロツキー研究』第22号より

  訳注

(1)フェレーケン、ジョルジュ(1894-1978)……ベルギーの革命家、トロツキスト。ベルギー共産党の中央委員から左翼反対派に。1930年代、第4インターナショナルのベルギー支部の指導者。1936〜38年、スペイン革命の問題をめぐってトロツキーと論争。

(2)スネーフリート、ヘンドリク(1883-1942)……オランダの革命家、インドネシア共産主義運動の創設者。1902年にオランダ社会民主党に。1913年、インドネシアに渡り、マルクス主義の普及に努める。1914年、インド社会民主同盟(インドネシア共産党の前進)を結成。イスラム同盟内に共産主義の影響を広める。1918年に追放。第2回コミンテルン世界大会に参加し、アジアの運動の重要性を訴え、その責任者として中国に渡り、中国共産党の創設にも貢献。1923年、オランダに帰国。投獄中の1933年に国会議員に選出。革命的社会党(後に革命的社会主義労働者党)を創設。1933年、4者宣言に署名。その後、革命的社会主義労働者党とともに国際共産主義者同盟に加入。1938年に第4インターナショナルの運動から離れ、第2次大戦中にナチスによって逮捕され処刑。

(3)クラート……ジャン・ルーのペンネーム。ジャン・ルーは1935年9月に国際書記局を代表してスペインに行き、マルクス主義統一労働者党の結成に関与する。1936年にもスペインに行く。

(4)モウリン……チェコスロバキア出身のドイツのトロツキストであるヴィンテルのペンネーム。モウリンは1937年にスペインに行き、「ドゥルティの友」と密接に協力し合い、『レーニン主義者の声』という機関紙を編集。1937年8月にゲ・ペ・ウによって逮捕され、そのまま行方不明になった。

(5)ブラウン……チェコスロバキアのトロツキスト、エルウィン・ウルフのペンネーム。トロツキーがノルウェーに亡命していたときのトロツキーの秘書。1937年にスペインでゲ・ペ・ウによって殺害される。

(6)ランダウ、クルト(1903-1937)……オーストリアの左翼反対派、後にドイツの左翼反対派。1931年に反対派と決別し、独自のグループを結成。後にドイツからフランスに亡命し、さらにスペインに入国してPOUMを支援。1937年にスターリニストに拉致され暗殺される。

(7)ウィッテ……国際共産主義者同盟のギリシャ支部の代表者で、国際書記局の元メンバー。

(8)モリニエ、レイモン(1904-1994)……フランスの革命家。1920年、フランス共産青年同盟に。1926年に左翼反対派に。1929年のフランス共産主義者同盟とその機関紙『ラ・ヴェリテ』の創設者の一人。トロツキーは、共産主義者同盟内の多くの紛争において1935年まで彼と協力してことにあたった。1935年、トロツキーから離反し、国際主義共産党を結成、『ラ・コミューン』を創刊。第2次大戦中はイギリス、ラテンアメリカに亡命。1930年代は、フランスの革命的共産主義者同盟(LCR)に。

(9)エーラー、フーゴ(1903年生)……別名エドワード・オーラー。アメリカの古参共産党員で労働運動の古参活動家、後に合衆国労働者党のエーラー派指導者。「フランスの転換」に反対。

10)ワイスボード、アルバート(1900-1977)……アメリカのユダヤ系革命家、一時期トロツキスト。1920年に社会党に入党。1924年に共産党へ。1929年に、アメリカ共産党から追放され、1930年にアメリカ共産主義者同盟(アメリカの左翼反対派)と結びつくが、1931年にはすでにトロツキストから離れる。共産主義闘争同盟という小さなグループを組織し、『階級闘争』紙を編集。後にマルクス主義と決別し、AFL(アメリカ労働総同盟)のオルガナイザーに。

11)フィールド・B・J(1900-1977)……、別名マックス・グールド。経済学者。アメリカ共産党員。ついでアメリカ共産主義者同盟に入るが2度除名。除名期間中,トロツキーとともに活動し始める。「革命労働党建設準備同盟」を結成するも成果なし。

 

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