極左一般、とりわけ救いがたい極左について

(若干の理論的考察)

トロツキー/訳 西島栄

【解説】本稿は、スペイン革命をめぐる極左派の誤りを明らかにした重要論文である。この中でトロツキーはとりわけ次のように述べている。

 「スターリン=ネグリン政府は社会主義への道にとって擬似民主主義的なブレーキである。しかし、それはまたファシズムヘの道にとってもブレーキである。たしかにあまり確実でもなく永続的なものでもないが、そうである。明日か、あさってになれば、スペイン・プロレタリアートはおそらくこのブレーキを粉砕して権力を握ることができるだろう。しかし、たとえ受動的であれ今日このブレーキを破壊することを助けるならば、それはファシズムに奉仕することにしかならない」。

 本稿の最初の邦訳は『スペイン革命と人民戦線』(現代思潮社)に所収のものだが、差別用語が使われていることもあり、今回、英語版にもとづいて全面的に訳し直されている。

L.Trotsky, Ultralefts in General and Incurable Urtralefts in Paticular, The Spanish Revolution (1931-39), Pathfinder, 1973.


 マルクス主義の思考は具体的である。すなわち、それは、どの問題においても決定的ないし重要なすべての要因を、それらの相互関係の観点からだけでなく、それらの発展の観点からも考察する。それは、その時々の状況を一般的展望の中に解消するのではなく、一般的展望を用いて、その時々の状況をそのあらゆる特殊性を踏まえて分析することを可能にする。政治というものはまさに、こうした具体的分析から始まるのである。日和見主義的思考とセクト的思考は次のような共通の特徴を持っている。それは、複雑な諸条件と諸力の中から、彼らにとって最も重要と思われる(実際にそうである場合もある)一つないし二つの要因を取り出し、それを複雑な現実から切り離して、これらに無制限の途方もない力を付与することである。

 こうして、世界戦争に至るまでの長い時期、改良主義者たちは、当時におけるきわめて重要であるが一時的な要因(たとえば資本主義の力強い発展やプロレタリアートの生活水準の向上、民主主義の安定など)を利用してきた。現在、セクト主義者たちは、資本主義の衰退や大衆の生活水準の低下や民主主義の解体といった最も重要な要因や傾向を利用している。しかし、過去の時代の改良主義と同じく、セクト主義もこの歴史的傾向を全能で絶対的な要因に変えてしまっている。「極左」は、本来ようやく分析が始まる地点で分析をやめる。彼らは現実に対し出来合いの図式を対置する。ところが大衆は現実の中で生きているので、セクト主義的図式は労働者の琴線にいささかも触れることができない。その本質そのものからしてセクト主義は不毛を運命づけられている。

 帝国主義的資本主義はもはや人類の生産力を発展させることはできない。それゆえ、労働者に対して、物質的な譲歩も効果的な社会改良も行なうことができない。これはすべてその通りである。しかし、これが正しいのは一時代全体という規模に照らして見る場合だけである。生産の全般的水準が戦前および戦中の水準より上昇していない、あるいはほんのわずかしか上昇していないという事実にもかかわらず、戦後、目ざましい勢いで発展しているいくつかの産業部門がある(自動車、飛行機、電気、ラジオ)。さらに、この老いぼれた経済にも引き潮と上げ潮がある。労働者は、ほとんど絶えることなく、次から次へと闘争に入り、しばしば勝利を収める。もちろん、資本主義は左手で労働者に与えたものを右手で取り返している。たとえば、物価の騰貴は、レオン・ブルム(1)時代の大きな獲得物を帳消しにしている。しかし、さまざまの要因の介入によって決定されるこうした結果は、それはそれで労働者を闘争の道へ駆り立てる。革命の展望を開くのはまさに、現代のこの力強い弁証法なのである。

 腐朽しつつある資本主義という一般的傾向だけを指針にして、あらゆる経済的・部分的闘争を放棄するような組合指導者は、その考え方がいかに「革命的」であろうとも、反動の手先である。マルクス主義的な組合指導者は、単に資本主義の一般的諸傾向を把握するだけでなく、状況の特殊な諸特徴や景気の諸局面や地域的諸条件(心理的要素をも含む)をも分析したうえで、闘争に出るべきか、注意深く待機するべきか、退却するべきかを決定しなければならない。広範な大衆の経験と密接に結びついたこうした実践的活動にもとづいてはじめて、組合指導者は解体しつつある資本主義の一般的諸傾向を暴露し、労働者を革命に向けて教育することができるのである。

 現代が社会主義(共産主義)とファシズムとの無慈悲な闘争をその政治的特徴としているということは、自明の理である。だが、残念ながら、これは、プロレタリアートがすでにあらゆる場所でこの二者択一を自覚しているという意味ではなく、また、どの国であれその時々においてプロレタリアートが民主主義的自由を擁護するための部分的闘争を無視することができるという意味でもない。共産主義かファシズムかという根本的な二者択一(これはレーニンによって確立された)は、多くの者にとって無内容な定式になってしまった。左翼中間主義者はもっぱら自らの屈服を隠すために、セクト主義者はその無為無策を正当化するために、しきりにこの定式を利用している。

 カタロニアのジェネラリタトゥ(自治政府)に入閣するにあたって、不幸なアンドレウ・ニンは、ラジオ放送された声明を次のようなテーゼで始めた。「現在始まっている闘争は、一部の者が考えているようなブルジョア民主主義とファシズムとの闘争ではなく、ファシズムと社会主義との闘争である」。この定式はさらに、POUMのお気に入りの言い方となった。『ラ・バターリャ』のあらゆる論文は、このテーゼの解釈か言いかえでしかなかった。一部のセクト主義者、たとえばベルギーのセクト主義者は、POUMの政策を全面的ないし部分的に正当化するためにこの定式に飛びついた。しかしながら、ニンは実践の上でレーニン主義の定式をその正反対物に変えてしまった。すなわち彼は、萌芽的な社会主義革命のあらゆる獲得物、あらゆる拠点を破壊し圧殺することを目的とした政府に入閣したのである。彼の考えの基本は次のようなものであった。この革命は「本質的には」社会主義革命なのだから、われわれが政府に入ることはその革命を促進することにしかならないだろう、と。そしてエセ革命的セクト主義者はこう叫ぶ。「ニンが政府に入ったのは誤りかもしれないが、その重大さを誇張するのは犯罪である。ニンは、革命が『本質的には』社会主義的なものであると認めたではないか」。なるほど彼はそう宣言した。しかし、それは革命の土台を掘り崩す政策を正当化するためでしかなかった。

 スペイン革命の社会主義的性格は、現代の基本的な社会的諸要因によって決定されているとはいえ、出来合いのものとして与えられるわけでも、革命的発展の最初の段階から完全に保証されているわけでもない。いや、1931年4月以降、スペインの偉大なドラマは「共和」革命、「民主主義」革命の性格をとった。その後の数年間、ブルジョアジーは諸事件に自らの刻印を捺すことができた。共産主義かファシズムかというレーニン主義的二者択一は――究極的には――そのあらゆる価値を保持しているとはいえ、である。左翼中間主義者とセクト主義者がこの二者択一を超歴史的な法則に変えれば変えるほど、大衆をブルジョアジーの支配から引き離すことができなくなる。それどころか、彼らはこの支配を強めることしかしなかった。POUMはこの経験に高い代償を払ったが、なお不幸なことに、そこから必要な教訓を引き出さなかった。

 左翼中間主義者が革命をその当初の枠組み、すなわちブルジョア民主主義という枠組みに閉じ込めるためにレーニンを隠れ蓑にしているとすれば、極左は同じレーニン主義的二者択一から、革命の現実的発展過程を無視しそれを「ボイコット」する権利を引き出している。

 私はアメリカの同志に宛てた返事(2)の中で次のように述べた。「ネグリン政府とフランコ政府との相違は、腐敗しつつあるブルジョア民主主義とファシズムとの相違である」。われわれは、自らの政治的方向性を定めるにあたって、この基本的な認識から出発する。極左はこう叫ぶ――何だって! われわれをブルジョア民主主義かファシズムかの選択に制限するつもりなのか? それは純然たる日和見主義だ! スペイン革命は基本的に社会主義とファシズムとの闘争だ。ブルジョア民主主義など何の解決にもならない……云々、云々。

 社会主義かファシズムかという二者択一が意味しているのは単に、スペイン革命はプロレタリアートの独裁を通じてのみ勝利しうるということだけである(そしてそれで十分だ)。しかし、これは、前もってその勝利が保証されているということを意味するものではまったくない。問題は今なお、この混成的で混乱した中途半端な革命を社会主義革命に転化させることであり、まさにここに政治的課題があるのだ。現状を語るだけでなく、その「現状」を出発点として利用するすべも知らなければならない。指導的な諸党は、POUMをはじめとする社会主義について語る党でさえ、半ば破壊され傷つけられたこの革命が意識的で完成された革命になるのを全力を挙げて妨げている。革命的高揚期において、スペインの労働者階級は、その階級的本能に突き動かされて、社会主義の道に向けた重要な道標を打ち立てることができた。しかし、これは道標にすぎず、その後、指導的諸党によって破壊されつつある。何らかの社会学的一般化でもって自らを慰め、こうした矛盾した現実を飛び越すことはけっして難しいことではない。しかし、それは一ミリたりとも現実を前に進めるものではない。行動によって、すなわち現実に合致した戦術によって物質的困難を乗りこえなくてはならない。

 現在、スペインの軍事闘争は、一方はフランコによって、もう一方はスターリンとネグリンによって指導されている。フランコはファシズムを代表しているが、スターリンとネグリンは少しも社会主義を代表してはいない。反対に、彼らは社会主義への発展を妨げる「民主主義的」ブレーキを代表している。共産主義かファシズムかという歴史的二者択一は、いまだその本来の政治的な表現に達していない。それどころか、1936年7月以降、スペイン革命は、ニンが理解しないままに定式化していた目標からさえ大きく後方へ投げ戻されてしまった。しかし、それにもかかわらず、スペインの内戦は依然として死活に関わる重要性を持っている。この事実をあるがままに理解しなければならない。すなわちそれは、一方におけるブルジョア民主主義と他方におけるあからさまなファシズムに従属した2大軍事陣営間の武装闘争なのである。必要なのは、この中途半端な闘争に対する正しい態度を確立し、これを内部からプロレタリア独裁のための闘争に転化することである。

 スターリン=ネグリン政府は社会主義への道にとって擬似民主主義的なブレーキである。しかし、それはまたファシズムヘの道にとってもブレーキである。たしかにあまり確実でもなく永続的なものでもないが、そうである。明日か、あさってになれば、スペイン・プロレタリアートはおそらくこのブレーキを粉砕して権力を握ることができるだろう。しかし、たとえ受動的であれ今日このブレーキを破壊することを助けるならば、それはファシズムに奉仕することにしかならない。課題は、単に両陣営を理論的に正しく評価することだけではなく、さらに実践的にこの闘争を利用して前方への飛躍をつくり出すことである。

 左翼中間主義者も救いがたい「極左」と同じく、しばしば、ケレンスキーとコルニーロフとの衝突時におけるボリシェヴィキの政策を例に挙げるが、それについて何も理解していない。「しかし、ボリシェヴィキはケレンスキーとともに闘った」とPOUMは言う。「しかしボリシェヴィキはコルニーロフの脅威のもとにあってもケレンスキーにいかなる信任も与えることを拒否した」と極左は答える。両方とも正しい……ただし半分だけだ。すなわち両方ともまったく間違っている。

 ボリシェヴィキはケレンスキーの陣営とコルニーロフの陣営のあいだで中立的立場をとらなかった。彼らは前者の陣営の中で後者の陣営に対して闘争した。ボリシェヴィキは、ケレンスキー政府を転覆しうるほど強力でないかぎりにおいて、政府の公式命令を受け入れた。ボリシェヴィキの嵐のような上昇が開始されたのは、コルニーロフの反乱が起こったこの8月のことである。この上昇が可能になったのは、ひとえにボリシェヴィキの二面的政策のおかげであった。コルニーロフとの闘争の最前線に立ちながら、ボリシェヴィキはケレンスキーの政策に対するどんなわずかな責任も負わなかった。反対に、反動側の攻勢に対する責任があるとしてケレンスキーを非難し、彼にはこの攻勢を克服する能力がないと糾弾した。このようにしてボリシェヴィキは10月革命の政治的前提条件を準備した。そして、ボリシェヴイズムか反革命か(共産主義かファシズムか)という二者択一は、歴史的傾向から生きた直接的な現実となったのである。

 われわれはこの教訓を青年に教えなければならない。彼らにマルクス主義的方法を伝えなければならない。しかし何十年も前に就学年齢を過ぎてしまっても、あいかわらず同じ定式(ちなみにこれはわれわれから拝借したものなのだが)をわれわれに――われわれと現実に――対置するような人々に関しては、彼らを救いがたい連中であることを公然と認め、革命政策を作成する参謀本部からしっかりと隔離しておかなければならない。

 1937年9月28日

ミアハ将軍

 私がこの論稿を書いている間にも、スペインで新たな「粛清」が大規模に遂行されているようである。意図的に混乱した書き方がなされている新聞記事から判断しうるところでは、今回の打撃はとりわけアナルコ・サンディカリストを標的としているようだ。これによってスターリン=ネグリンがフランコとの調停のお膳立てをしているというのは、ありうることである。しかし、ゲ・ペ・ウによってどんなことでも解決することができると信じているモスクワ官僚が、これまで取り逃がしつづけてきた「勝利」をこういう形で準備しようとしているという可能性もある。実際にはこれはフランコの勝利か、フランコの独裁と瓜二つの「共和主義者」ミアハ(3) [左の写真]の軍事独裁を準備しうるにすぎない。

 まったくの愚か者だけが、スターリニスト徒党やネグリン的民主主義の目的や方法について何らかの幻想を抱くことができる。二つの陣営間の闘争がごく短期間のうちに終結する可能性は大いにある。このような新しい事態になれば、同じ戦略的目標に合致した新しい戦術が必要になるだろう。しかし現在はまだネグリンとフランコとのあいだで軍事闘争が続けられている。そして今日の戦術は今日の状況によって決定されるのである。

1937年9月29日

『スペイン革命 1931-39』所収

新規

  訳注

(1)ブルム、レオン(1872-1950)……フランス社会党の指導者。ジョレスの影響で社会主義者となり、1902年に社会党入党。1920年、共産党との分裂後、社会党の再建と機関紙『ル・ポピュレール』の創刊に努力。1925年、社会党の党首に。1936〜37年、人民戦線政府の首班。社会改良政策をとったが、スペインの内戦に不干渉の姿勢をとる。第2次大戦中、ドイツとの敗北後、ヴィシー政府により逮捕。ドイツに送られる。戦後、第4共和制の臨時政府首相兼外相。

(2)「スペイン情勢に関する質問への回答」(1937年9月14日)のこと。

(3)ミアハ・メナント、ホセ(1878-1958)……スペインの「共和派」の将軍で、スペイン共産党の支援を受けていた。内戦の終了間際、特別の声明を出して、ファシストへの屈服を訴えた。

 

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