トロツキー写真館

  

少年時代のトロツキー

9歳のころのトロツキー

 「私の子供時代は飢えと寒さの子供時代ではなかった。私の家は、私が生まれた頃にはすでに一定の豊かさに達していた。しかし、それは、貧困から這い上がりつつある人々の、そして途中で立ち止まるつもりのない人々の、余裕のない豊かさであった。すべての筋肉が張りつめ、すべての思考が労働と蓄積に向けられていた。こうした日常の中では、子供にはつましい場所しかあてがわれない。私たちは欠乏を知らなかったが、人生の恵みや優しさも知らなかった。私の子供時代は、ごく少数の人々にとってのような「陽のあたる草地」でもない代わりに、大多数の人々にとってのような、飢えと暴力と惨めさの暗い穴蔵でもなかった。それは、辺ぴな農村にある小ブルジョア家庭の平凡な子供時代であった。自然は広大であったが、習慣やものの見方や関心は貧しく偏狭であった。」(『わが生涯』第1章「ヤノーフカ」より)

かつてトロツキーの生家があった土地

(かつてのヤノーフカ村、現在はベレスラフカ村)

 「生涯の最初の9年間、私は生まれた村からほとんど出たことがなかった。そこは、地主のヤノフスキーの名前にちなんでヤノーフカと呼ばれ、私の父は彼から土地を購入したのである。ヤノフスキー老人は一兵卒から身を起こして陸軍大佐にまでなった人で、アレクサンドル2世の時代に上層部に引き立てられ、ヘルソン県のまだ入植者のいないステップのうち500デシャチーナ分の土地を自由に選んでもらいうけることになった。大佐は草原に、わらぶき屋根の土造りの母屋を建て、同じくらい粗末な農場小屋を建てた。だが、農場経営の方はうまくいかなかった。大佐が死ぬと、大佐一家はポルタワに住居を移した。私の父はヤノフスキーから100デシャチーナを越える土地を購入し、さらに200デシャチーナの土地を小作用に借りた。」(『わが生涯』第1章「ヤノーフカ」より)

当時のロシア農村における農作業のひとコマ

(農業は粗末な道具を使って行なわれていた)

 「播種面積はしだいに広がり、馬や家畜の数も増えた。メリノ種の羊も手に入れようとしたが、これはうまくいかなかった。その代わり豚はたくさんいた。豚は自由に敷地内をうろつき回り、そこらじゅう掘り返し、庭園をすっかり台無しにしてしまった。農場の経営は注意深く行なわれていたが、やり方は旧態依然だった。どの部門が利益を上げどの部門が赤字を出しているかの判断は、目分量でしかできなかった。財産の総額を見積もるのも、同じ理由から困難であった。全財産はつねに土地と麦穂と穀物にあり、穀物は穀物置場に貯蔵されるか、港に送られた。……

 ステップの灼けつくような厳しい夏が終わり、それとともに夏の仕事のクライマックスである「ストラーダ(農繁期)」――家から遠く離れたところで繰り広げられる収穫の取り入れ作業――が終わると、1年間の労働の総決算をする初秋がやってくる。脱穀がたけなわになる。生活の中心は、家から4分の1ヴェルスタほどのところの穀束置場の先にある脱穀場に移る。脱穀場の上には、わらの埃がもうもうと舞い上がっていた。」(『わが生涯』第1章「ヤノーフカ」より)

現在のボブリネツ美術館にあるトロツキー・コーナー

(ボブリネツはトロツキーの生まれた村の隣にある町。この美術館にはトロツキーの生家で使われていた調度品の一部も展示されている)

 「作業場や使用人用の炊事場や裏庭には、家庭の中とは違った、より広い世界が私の前に開かれていた。人生という映画には果てしがなく、私はまだそのほんの始まりのところにいたにすぎなかった。私がまだ幼かった頃、誰一人として私のいることに気がねする者はいなかった。人々は言いたいことを自由にしゃべり、とくにイワン・ワシリエーヴィチと管理人がいないときにはそうであった。何といっても、この2人は半ば主人側に属する人間であったからだ。鍛冶場の炉や炊事場のかまどの光に照らし出されると、両親や親戚や近所の人々はしばしば、まったく新しい陰影を帯びて私の前に現われた。その頃に交わされた会話の多くは、私の記憶の中にいつまでも残っている。そして、その多くはおそらく、現代社会に対する私の関係の基礎になっている。」(『わが生涯』第1章「ヤノーフカ」より)

 

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