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トロツキーの父、ダヴィド・ブロンシュテイン

 「私の父は農民であった。最初は小規模な、後にはより大規模な自営農となった。父は少年の頃、南部の広大無辺のステップ地帯に幸福を求めて、ポルタワ県にあるユダヤ人の町から家族とともに出てきた。その頃、ヘルソン県とエカテリノスラフ県には、40ほどのユダヤ人農村居留地(コロニー)があり、約2万5000人の住民が生活していた。ユダヤ人の農民は、他の農民たちと、法的権利の面で平等であっただけでなく、貧しさの面でも平等だった。父は、自分に対しても他人に対しても容赦のない、たゆまぬ厳しい本源的蓄積労働を通じて、しだいに上昇を遂げていった。」(『わが生涯』第1章「ヤノーフカ」より)

隣町のボブリネツにあった父の店

 「父も、せめて私の本の表題ぐらいは読めるようになろうと、すでに老境に入ってから読み書きを学び、たどたどしくだが字を読めるようになった。1910年にベルリンで、父がドイツ社会民主党について書いた私の小冊子を理解しようと根気強くつとめているのを見て、胸を打たれたことがある。

 10月革命の頃には、父はきわめて豊かになっていた。母はすでに1910年に亡くなっていたが、父はソヴィエト政権が誕生するまで生きていた。内戦がたけなわの頃、南部でとくに長期にわたって激しい戦闘が繰り広げられ、政権もつぎつぎと交代したとき、父は75歳の老人の身で、オデッサに一時的な避難場所を求めて、何百キロもの道を徒歩で歩かなければならなかった。赤軍は、父のような富裕者にとっては脅威だった。また白軍の方も、私の父だというので迫害を加えた。ソヴィエト軍が南部を平定したのち、父はモスクワに来ることができた。父が築き上げたすべてのものを10月革命が取り上げてしまったことは言うまでもない。1年少々のあいだ、父はモスクワ近郊にある小さな国営製粉所の管理の仕事をした。当時、食糧人民委員であったツュルパは、経営上の諸問題で父と話し合うのが好きであった。父は、1922年の春、私がコミンテルン第4回大会で報告を行なっていたときに、チフスで死んだ。」(『わが生涯』第1章「ヤノーフカ」より)

 

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