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党の分裂

 

第2回党大会で生まれた派閥地図

(左上は「イスクラ派の多数派」でレーニンやプレハーノフの写真、右上が「イスクラ派の少数派」で、トロツキーやマルトフの写真がある)

 「大会が進むにつれて、『イスクラ』の主要幹部の間の対立がしだいに露わになってきた。『硬派』と『軟派』への分化が表面化してきた。意見の相違はまず最初、規約第1条をめぐって、すなわち誰を党員とみなすかをめぐって起こった。レーニンは、党と非合法組織を一致させることに固執した。マルトフは、非合法組織の指導のもとで活動する人々も党員とみなすことを望んだ。だが、この対立は直接の実践的重要性を持っていなかった。なぜなら、どちらの定式においても議決権は非合法組織のメンバーにのみ与えられていたからである。とはいえ、二つの相異なる傾向が存在することは疑いなかった。レーニンは、党の問題において、無定形さを排し、輪郭をはっきりさせることを望んだ。マルトフは曖昧さに流れる傾向があった。この問題におけるグループ分けが、その後の大会のすべての進行を、とりわけ党の指導機関の構成を決定づけた。……

 ついに大会が分裂したとき、それは参加者の誰にとっても予期せざることだった。この闘争において最も積極的な役割を果たしたレーニンですら、分裂など予想していなかったし、望んでもいなかった。両派とも、思いがけない事の成りゆきに深刻な打撃を受けた。レーニンは大会から数週間、神経性の病に苦しんだ。……

 いずれにせよ、第2回党大会は、その後何年にもわたって私をレーニンから引き離したという一点だけからしても、私の生涯における大きな画期となった。だが、今こうして過去を全体として振り返ってみても、このことに悔いはない。私が再びレーニンのもとに戻ったのは、他の多くの人々よりも遅かった。しかし私は、革命、反革命、帝国主義戦争という経験をくぐり抜けそれについて熟考したうえで、自分なりの道をたどって戻ったのである。そのおかげで私は、彼の『弟子』たちよりも確固として、より誠実に戻ったのである。これらの弟子たちは、師が生きていた頃は、師の言葉や身ぶりを――しばしば的外れな形で――真似していたが、彼の死後は、無力なエピゴーネンとなり、敵勢力の手中における無自覚的な道具と化したのである。」(『わが生涯』第12章「党大会と分裂」より)

トロツキー『シベリア代議員団の報告』

(1903年に出版された第2回党大会の報告。レーニンを厳しく批判)

トロツキー『われわれの政治的課題』

(1904年に出版された体系的なレーニン批判の書。代行主義に関する有名な一節がある)

 「党内の政治においては、こういった方法は、さらにのちでもふれるように、党の組織が党そのものを『代行』し、中央委員会が党の組織を代行し、最後には一人の『独裁者』が中央委員会を代行するということに帰着する。さらに、『人民が沈黙を守っている』とき、諸委員会が『方針』をつくったり廃したりすることに帰着する。党外の政治においては、こういった方法は、自己の階級的利害を意識したプロレタリアートの現実的な力によってではなく、抽象化されたプロレタリアートの階級的利害の力によって、他の社会諸集団に圧力をかけようという試みのなかに現れる。こういった『方法』は、すでに見たように、われわれが原則的に採択した綱領をわれわれの党活動の内容に『アプリオリに』同一視することを、前提とする。要するに、この『方法』は社会民主党の政治的戦術の問題を完全に無用化するものである。」(トロツキー『われわれの政治的課題』第3章「戦術的課題」より)

 

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