トロツキー写真館

  

ニコラーエフのサークル仲間

トロツキーとニコラーエフのサークル仲間

(中央の立っている女性がトロツキーの最初の妻となるアレクサンドラ・リヴォーヴナ・ソコロフスカヤ。左端はその弟のソコロフスキー、中央の座っている男性はジフ)

 「1897年2月、ヴェトローヴァという名の女子学生が、収監されていたペトロパブロフスカヤ要塞で焼身自殺した。結局最後まで真相が明らかにされなかったこの悲劇は、すべての人に衝撃を与えた。あちこちの大学都市で騒動が発生し、逮捕と流刑があいついだ。

 私が革命活動に着手したのは、この『ヴェトローヴァ事件』を契機としたデモが世間を騒がしているさなかのことであった。その顛末は以下のごとくである。われわれのコミューンの中では年少で、私とほぼ同年齢のグリゴリー・ソコロフスキーと通りを歩いているときのことであった。

 『やっぱり僕たちも始めなければ』と私は言った。

 『そうだ、始めなければならない』とソコロフスキーは答えた。

 『でも、どうやってやる?』。

 『そう、そこだ。どうやるかだ』。

 『労働者を見つけなければ。誰もあてにせず、誰にもきかず、自分たちで労働者を探し出し、行動を開始するんだ』。」(『わが生涯』第7章「最初の革命組織」より)

 「トロツキーは、自分がやろうと決意したことに、シュヴィコフスキーからの支持を得ることができなかった。……トロツキーの考えに賛成してくれたのは、若い友人のソコロフスキーだけだった。トロツキーには成熟した人物が必要だった。すなわち、思考が明晰で勇気のある助言者が必要であった。トロツキーはずっと、彼女こそがそういう人物であることを知っていた。

 『僕たちが、工場に行って労働者を組織する活動に本気で着手することについて、どう思う?』、トロツキーは彼女に尋ねた。

 アレクサンドラ・リヴォーヴナは賛成した。彼女は、トロツキーの理論的立場が変わったことについては何も言わなかった。

 『私は彼が自分で気づくようにしようと思ったんです』と彼女は語っている。

 それからずっと後のこと、2人がすでにシベリアでいっしょに暮らしていたとき、彼女は『あなたのような、人間関係のすべてにおいてこれほど思いやりがあって感じやすい人が、どうしてあの新年パーティのときのようなひどいいたずらをしたのかしら』とたずねた。彼はこう語った。オデッサから帰ってきたとき、マルクス主義をめぐるある種の疑念が頭の中に浮かんでいた。その疑念について話したら、シュヴィコフスキーは批判したり助言したりする代わりに、彼を嘲笑し、彼女の影響のせいだとからかった。彼らは、真理から彼の魂を救おうとするあの最後の英雄的努力をみんなしてお膳立てしたのだ、と。」(マックス・イーストマン『若き日のトロツキー』より

 「労働者は、ごく自然にわれわれのところにやってきた。あたかも、工場でわれわれのことを長い間待っていたかのようだった。彼らは各自、友人を連れてサークルに加わった。中には細君を連れてきた者や、中年すぎの労働者の場合のように息子を連れてきた者もいた。われわれが労働者を探し出したというよりも、彼らがわれわれを探し出したのである。まだ若く未経験な指導者であったわれわれは、自分たちが呼び起こした運動にたちまち圧倒されてしまった。一つ一つの言葉が反響に出くわした。下宿の一室、森の中、河のほとりで開かれた秘密の読書会や討論会には、20人から25人、あるいはそれ以上の人々が集まった。多かったのは、高度な熟練工で、稼ぎも悪くない労働者だった。ニコラーエフの造船所では当時すでに8時間労働制が確立されていた。これらの労働者はストライキには関心がなく、彼らが求めていたものは社会関係における公正だった。」(『わが生涯』第7章「最初の革命組織」より)

 

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