トロツキー写真館

  

最初の逮捕と入獄

秘密警察のファイルに収められていた青年トロツキーの正面写真

秘密警察のファイルに収められていた青年トロツキーの側面写真

 「われわれは、他の都市も運動に引き入れることを念頭において、自分たちの組織名を『南部ロシア労働者同盟』とした。私は、同盟の規約を社会民主主義の精神にのっとって起草した。各工場では管理側の人間が演説をしてわれわれに対抗した。われわれは翌日、声明を出してそれに答えた。この対決は、労働者だけでなく、町の広範な住民をも興奮させた。しまいには、町中が、各工場をビラで氾濫させる革命家たちの話でもちきりとなった。われわれの名前はあらゆる所で口にされるようになった。しかし、警察は、『庭にたむろする若造たち』がこんな大それた運動を組織しているとは信じられず、われわれの背後にもっと経験豊かな指導者がいるとにらんでいたため、なかなか腰を上げなかった。どうやら警察が疑っていたのは元流刑囚の連中だったようだ。おかげでわれわれはさらに2〜3ヵ月の猶予を得た。だが結局、われわれを尾行することで事態の性格が十分明確となり、憲兵は必然的にわれわれのグループをいもづる式に次々と探知するにいたった。」(『わが生涯』第7章「最初の革命組織」より)

 「1898年1月28日、大量検挙が実施された。全部で200人以上が逮捕された。弾圧が吹き荒れた。逮捕された1人であるソコロフという名の兵士は、取り調べでの脅迫に耐えかねて、拘置所の2階の廊下から飛び降りたが、重い打撲傷ですんだ。もう1人の被勾留者レヴァンドフスキーは、憲兵によってついに精神錯乱にまで追い込まれた。他にも何人もの犠牲者が出た。

 逮捕者の中には、たまたま捕らえられた人々が大勢いた。われわれが信用していた人の中からも、われわれから去っていった者や、裏切った者が出た。逆に、目立たない存在であったのに、意志の強さを示した者もいた。50がらみのドイツ人の旋盤工アウグスト・ドルンは、せいぜい1度か2度サークルに顔を出しただけなのに、何ゆえか逮捕され、長期間勾留された。彼は立派にふるまい、拘置所中に響きわたる大声で、陽気な――たしかに、必ずしも上品ではなかったが――ドイツの小唄を歌ったり、ブロークンなロシア語で冗談を言ったりして、逮捕された青年たちの士気を鼓舞した。私たちは、モスクワの中継監獄でいっしょの監房に入れられたが、その時ドルンは、サモワールに向かってこっちに来てくれるよう頼み、最後にはいつもこういうセリフで結んだ。

 『いやかね。ならばドルンの方からそちらにまいろう!』。

 こうした場面は毎日のように繰り返されたが、そのたびにみんな人がよさそうに笑った。

 ニコラーエフの組織は厳しい打撃をこうむったが、壊滅はしなかった。他の者がすぐさまわれわれの穴を埋めた。そして、革命家も憲兵もより多くの経験を積むことになった。」(『わが生涯』第7章「最初の革命組織」より)

 

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