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 10月17日のツァーリの勅令

ツァーリによる国会開設と憲法制定の勅令

(ヴィッテが起草し、10月17日にニコライ2世の名前で発布された)

 「全体として言えば、10月のストライキは政治的ストライキの水準にとどまり、武装蜂起に移行することはなかった。それでも、度を失った絶対主義は譲歩した。10月17日(30日)、憲法に関するツァーリの勅令が発布された。たしかに、ツァーリズムは大きな打撃を受けたが、権力機構を自己の手中に保持していた。この時の政府の政策は、ヴィッテの言葉を借りれば、いつにもまして『臆病さと盲目さと狡猾さと愚鈍さとのからみ合い』だった。しかし、それでも革命は最初の勝利を獲得した。その勝利は不完全とはいえ、前途有望なものだった。」(『わが生涯』第14章「1905年」より)

 「同志諸君、この国家は、工場の機械と同じく、労働者階級の背中にのしかかって維持されている機構であり、人民がそれを支えることを拒否するならば、それはばらばらに崩壊し、その中央集権的力は塵あくたのごとく消散してしまう(拍手、『そうだ、そうだ』の声)。そしてロシア専制主義のこうした歴史的基盤の動揺にもとづいて、10月ストライキに対する回答として、より拡大した選挙権、集会の自由、団結権、出版の自由などを約束した10月17日の勅令〔宣言〕が出されたのである。専制政治とロシア正教に立脚したツァーリ、この『白帝』〔異民族がロシアの皇帝につけた尊称〕は、たちまちのうちに、憲法の革皮紙に自らの署名を記した。これはまさにプロレタリアートの偉大な革命的勝利だった! だが、その数日後にはプロレタリアートは血の海に沈められた。しかし、われわれはこの勝利をけっして忘れないだろう。それをしっかりと書き留め、こう言うだろう――ツァーリは革命を前にして敬礼の姿勢をとったのだと(拍手喝采)。」(トロツキー「ロシア革命(ソフィア演説)」より)

ニコライ2世

(一方で国会開設と憲法制定の勅令を出しながら、トレポフを通じて革命運動を弾圧した)

トレポフ将軍(1855-1906)

(血の日曜日事件後にペテルブルク総督(知事)になり、革命運動弾圧の先頭に立った)

 「10月18日は偉大なる躊躇の日であった。ベテルプルクの街々を大群衆が途方にくれて動きまわっていた。憲法が与えられた。次は何か? 何ができ、何ができないのか?

 物情騒然としていたあの頃、私は官職にある一友人[砲兵学校の医師長リトケンス]宅に寄宿していた。18日の朝、『官報』を手にした彼と顔を合わせた。その知的な顔の上では、喜びにみちた興奮の微笑といつもの懐疑主義とがせめぎあっていた。

 『憲法制定の勅令が出たぞ!』

 『本当ですか!』

 『読んでみたまえ』。

 私たちは声をあげて読み始めた。まず騒擾に対する父親的な心痛、次に『人民の悲しみは朕の悲しみ』との確認、最後に、あらゆる自由、国会の立法権、選挙権拡大に関する明確な約束。

 私たちは黙って顔を見合わせた。勅令が呼び起こした、矛盾に満ちた思想と感情を言葉にすることは難しかった。集会の自由、人身の不可侵、行政府に対する統制…。もちろん、これらは単なる言葉だ。しかし、自由主義者の決議文の言葉ではない。皇帝の勅令の言葉なのだ。ニコライ・ロマノフ、あのポグロム派の最高のパトロン、トレポフのテレマコス、それがこれを書いたのだ! ゼネストがこの奇跡をやってのけたのだ。11年前、自由主義者たちが『専制君主と人民との交流』について控え目な請願をした時、即位したばかりの士官候補生は、これを『無意味な夢想』だとして子供にするように叱りとばした。その彼が自らこのような言葉を吐いたのだ! 彼はいまやストライキに入ったプロレタリアートの前で、気をつけの姿勢をとったのだ。

 『どう思います?』、私は友人にきいてみた。

 『びっくり仰天したのさ、馬鹿なやつらめ!』という返事が返ってきた。

 これは、それなりに名文句だった。続いて私たちはヴィッテの[自由主義的な]奏議文を読んだ。『以上を方針とする』とのツァーリの書き込みが付されていた。

 『あなたの言うとおり、馬鹿な連中は本当にびっくり仰天したようですね』。」(トロツキー『1905年』「10月18日」より)

 

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