トロツキー写真館

  

クラーシン

 

若き日のレオニード・クラーシン(1870-1926)

 

10月革命後のクラーシン

(地下活動家、テロリスト、電気技師、外交官、経済指導者、等々――きわめて多様な顔をもつボリシェヴィキ)

 「キエフには当時、有名な非合法印刷所があり、周囲で何度も摘発があったにもかかわらず、憲兵司令官ノヴィツキーのおひざもとで何年も持ちこたえた。私の宣伝ビラを1905年春に印刷したのも、この印刷所だった。だが、もっと長文のアピール文は、キエフで知りあった若い技師のクラーシンに委ねた。クラーシンはボリシェヴィキの中央委員会のメンバーであり、カフカースにある、設備の整った大きな印刷所を管理していた。私はキエフでこの印刷所のために一連のビラを執筆したが、その印刷の出来栄えたるや、非合法の条件下ではまったく異例なまでに見事だった。

 この時期の党は、革命と同じくまだ非常に若く、人物の点でも仕事の点でも、未熟さと不十分さが目についた。もちろん、クラーシンとて、そのような傾向からまったく免れていたわけではなかった。しかし、彼にはすでに、堅実さや、断固たる姿勢、『行政的』能力がそなわっていた。彼は一定の経験を積んだ技師であり、次々と仕事をこなし、非常に高い評価を受けていた。知人の範囲も、当時の若い革命家の誰よりも広く、多彩だった。労働者地区、技術者のアパート、モスクワの自由主義工場主の邸宅、文学サークル――あらゆるところにクラーシンはつながりを持っていた。これらすべてを巧みに結びつけていたおかげで、彼の前には、他の者にはけっして望めないような実践的可能性が開けていた。

 1905年、クラーシンは党の一般的な活動に参加しただけでなく、最も危険な領域の活動をも指導していた。武装部隊の編成、武器の調達、爆発物の製造などである。広い視野をもっていたにもかかわらず、クラーシンは、政治においても、生活全般においても、何よりも直接的な成果を追求するタイプの人間だった。ここに彼の強みがあったが、同時にアキレス腱もそこにあった。長期にわたって粘り強く、諸勢力を結集したり、政治的訓練を積み重ねたり、経験を理論的に総括したりすること――こうしたことは彼には向いていなかった。1905年革命が期待に背く結果に終わったとき、クラーシンの関心の第一位を占めたのは電気工学であり、総じて工業であった。クラーシンはこの分野でも、傑出した実務家としての本領を発揮し、並々ならぬ成果を達成した。技師としての活動によって得た大きな成功が、それ以前の数年間に革命活動の中で得たのと同じ個人的満足感を彼に与えたことは、疑いない。10月革命に関しては、あらかじめ失敗が運命づけられた冒険として、敵意のこもった疑惑の目で見ていた。長いあいだ彼は、経済的崩壊を克服する能力がわれわれにあるとは信じていなかった。しかし、やがて彼は、スケールの大きい活動ができる可能性に食指を動かすことになる…。

 1905年におけるクラーシンとのつながりは、私にとって、まさに天からの贈り物だった。私たちはペテルブルクで落ち合うことを約束した。また、彼からペテルブルクでの隠れ家をいくつか教わった。」(『わが生涯』第13章「ロシアへの帰還」より)

 

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