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ロシアへの帰還とセルゲイ大公の暗殺

セルゲイ大公(1857-1905)

(アレクサンドル2世の息子で、暗殺当時、モスクワ県総督(知事))

イワン・カリャーエフ(1877-1905)

(1905年2月4日に、血の日曜日事件への報復としてセルゲイ大公を暗殺したエスエル戦闘団員。その罪で同年処刑)

 「私とセドーヴァはミュンヘンからウィーンに移った。すでに亡命者の波がロシアへと逆流しつつあった。ヴィクトル・アドラーは、亡命者たちに金やパスポートや隠れ家の住所を手配するための仕事にすっかり忙殺されていた。彼のアパートで私は、国外のロシア保安警察員に知れ渡っている私の外貌を床屋に頼んでつくり変えてもらった。……

 ウィーンで、私たちはセルゲイ大公暗殺の報に接した。さまざまな事件があいついで起こった。社会民主党の新聞は東方に目を転じた。私の妻は、キエフでアパートを探し、連絡をつけるために、一足先に出発した。私は、退役少尉補アルブーゾフのパスポートをもって2月にキエフに到着したが、数週間はアパートを転々とした。最初は若い弁護士の家に泊まったが、彼は自分の影にさえ怯えるような人物だった。次に、技術専門学校の教授のところに泊り、ついで自由主義派の未亡人のところに泊まった。ある時には眼科医院に潜伏したことさえあった。私の素性を承知している院長の指示で、看護婦が足浴してくれたり、害のない目薬を点眼したりしてくれたが、それにはいささか閉口した。私は二重に秘密活動をすることを余儀なくされた。つまり、非合法の宣伝ビラを書き、かつ、私が目を酷使しないよう厳重に監視している看護婦に隠れてそれをしなければならなかった。」(『わが生涯』第13章「ロシアへの帰還」より)

 

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