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第2の流刑

トロツキーの第2の流刑

(前列左から2番目がトロツキー)(→同じ時に撮影されたもう1枚の写真はこちら

 「われわれはチュメーニまで鉄道で行った。チュメーニからは馬ソリになった。14人の流刑囚に加えて、52人の護送兵がおり、さらに大尉と警察署長、コサックの下士官がいた。約40台ものソリをつらねて目的地に向かった。チュメーニからトボロスクを経由してオビ河に沿って道はのびていた。私は妻に宛てて書いた――。

 『このところ毎日、90〜100ヴェルスタづつ、すなわち緯度にして1度づつ北に向かっている。このようにどんどん距離を進んでいるおかげで、文化が薄れていくさまが――そもそも文化と言えたらだが――、鮮烈な形ではっきりとわれわれの前に現われる。日々われわれは、一歩また一歩と極寒と未開の帝国へと下っていっているのだ』。

 チフスが猛威を振るっている地方を通り過ぎて、33日間もかけてようやくわれわれは、1907年2月12日にベリョーゾフに到着した。そこはかつて、ピョートル大帝の盟友であったメニシコフ公が流刑された地である。ベリョーゾフでわれわれは2日間ほど滞在することになっていた。流刑先のオブドルスクまでまだおよそ500ヴェルスタもあった。われわれは自由に付近を散歩した。当局もここまでくれば逃亡を心配することはなくなった。帰り道はオビ河に沿って1本しかなく、電線もそれに沿っていた。どんな逃亡者も追跡されて捕らえられるはずであった。」(『わが生涯』第15章「裁判、流刑、脱走」より)

 

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