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第2の脱走

オスチャック人とシューバ

オスチャック人とトナカイ

 「日曜の真夜中に決行することにした。その日、郡当局は素人演劇を催した。私は、臨時の劇場と化した兵舎をたずね、郡の警察署長に会い、体の具合もずっとよくなったので、近いうちにオブドルスクに出発できるだろうと告げた。これは非常に狡猾なやり方だったが、どうしても必要なものだった。

 鐘楼の鐘が深夜の12時を打つと、私は忍び足で『ヤギ足』の庭へと向かった。そこには荷車が用意されていた。私は2枚目のシューバ[毛皮の外套]を敷き、荷車の底に横たわった。『ヤギ足』は凍って冷たくなったワラで私をおおい隠し、それを縄で十字に縛って出発した。ワラが暖まると冷たい水滴が私の顔に落ちた。何ヴェルスタか進んだところで荷車は停止した。『ヤギ足』は縄をほどき、私はワラの下から出た。御者は口笛を吹いた。複数の声がそれに答えた。だが、何たることか、それは酔っ払いの声だった。ズイリャン人は酔っ払っていたうえに、仲間まで連れてきていた。それは実に幸先の悪い出だしだったが、選択の余地はなかった。トナカイの曳くソリに私は小さな手荷物とともに乗り移った。私はシューバを2枚重ね着し――1枚は毛皮部分を裏に、もう1枚は毛皮部分を表に――、毛皮の長靴下、毛皮の長靴、2重毛皮の帽子と同じ2重毛皮の手袋をしていた。つまりは、オスチャク人の冬装備一式を着込んでいた。手荷物にはアルコールの瓶が数本、すなわち雪原では最も頼りになるものが入っていた。……

 われわれはソシヴァ河沿いの道に入った。私の案内人が買い入れてきたトナカイは数百頭の中から選び出された選りすぐりのものだった。酔っ払った御者は最初のうち何度も居眠りをし、そのたびにトナカイは足を止めた。これでは2人ともいつ災難に見舞われるかわからない。ついに御者は完全に眠り込み、私が押しても突いてもまったく反応しなくなった。しかたなく私は彼の頭から帽子をとった。彼の髪はたちまち霜で真っ白になったが、少し酔いからさめた。

 われわれは先を急いだ。誰も足を踏み入れたことのない雪原の中を、エゾマツの林を縫い、野生動物の足跡を追いながら進む、実にすばらしい旅だった。トナカイたちは、舌を横から垂らし、間断なく『シュ、シュ、シュ』と呼吸音を立てながら、元気いっぱいに走り続けた…。道は狭く、トナカイはひと固まりになっていたが、驚くべきことに、彼らはお互いの進行を邪魔することなく走っていた。空腹も疲れも知らない驚くべき被造物! 彼らは、われわれが出発するまで、ほぼまる一昼夜何も食べておらず、それから、食物を与えられることなく走りつづけてすでに24時間近くたっていた。御者の話によると、それでもようやく「調子が出てきた」ところなのだそうだ。平均した速度で、疲れを見せることもなく、1時間あたり8〜10ヴェルスタも進んだ。トナカイたちは自分の食料は自分で見つけた。彼らの首に[遠くに行けないようにするために]大きな薪を結びあわせて、放してやる。するとトナカイは、雪の下に苔の匂いのする場所を選び、蹄で深い穴を掘り、そこにほとんど頭から突っ込むようにして食べるのであった。私はこの動物に対して、たとえて言えば、飛行士が大海の上空を高度数百メートルで飛んでいる時にモーターに対して抱くに違いない感情と同じものを感じた。……

 こうして旅は1週間続いた。われわれは700キロを走破し、ようやくウラル山脈に近づいた。荷馬車の一団と出くわすことがめっきり多くなった。私は、トーリ男爵の北極探検隊の技師で通すことにした。ウラル山脈からほど遠くないところでわれわれは、以前この探検隊のために仕事をしたことがありそのメンバーを知っているという農場管理人に出会った。彼は私を質問攻めにした。幸いなことに、彼も酔っ払っていた。私は、万一の場合に備えて持っていたラム酒の助けを借りて、この窮地を急いで脱した。万事うまく進んだ。ウラルでは馬車用の道が開けていた。今度は役人をよそおい、管轄区を巡回していた税務監査官といっしょに狭軌鉄道にたどり着いた。駅の憲兵は、私がオスチャク人のシューバを脱いでいる様子を無関心に眺めていた。

 ウラル鉄道の引込線まできたものの、私の置かれた状況はまだまだ予断を許さないものだった。このような田舎の支線では、誰であれ「よそ者」は目立つ存在であり、トボリスクからの電報で私はどの駅で逮捕されてもおかしくなかった。私は不安な面持ちで先を急いだ。しかし、まる1日が過ぎ、ペルミ行きの列車の快適な客車に落ち着いたとき、ようやく私はこの勝負に勝ったと感じた。列車は、ついこのまえ憲兵や警備兵や郡警察署長があれほど物々しくわれわれを迎えた駅を次々と通り過ぎていった。だが、今は反対方向に向かって進んでおり、気分もその時とは大違いだった。最初のうち私は、ほとんどがら空きの客車の中で、狭苦しく息づまるように感じられた。私はプラットフォームに出た。そこは風が吹き込み、薄暗かった。胸の奥から無意識のうちに大きな叫び声がわき上がってきた。歓喜と自由の叫びが!」(『わが生涯』第15章「裁判、流刑、脱走」より)

トロツキー『往復』

(写真は1919年版の表紙)

 「レーニンもマルトフも、とっくにペテルブルクを退去してフィンランドで暮らしていた。1906年4月、ストックホルム大会で実現したボリシェヴィキとメンシェヴィキの統一は、すでに再び深い亀裂を見せはじめていた。革命の退潮は続いていた。メンシェヴィキは1905年に演じられた数々の無分別な行為を悔い改めていた。ボリシェヴィキはいっさい悔い改めることなく、新しい革命をめざしていた。私は隣の村に住んでいたレーニンとマルトフをたずねた。……

 別れ際に、レーニンは、ヘルシングフォルスにいる仲間の連絡先を教えてくれた。これは私にとって非常に貴重なものとなった。レーニンが紹介してくれた友人たちは、私たち家族がヘルシングフォルス近郊のオグリビュで隠れ住む手はずを整えてくれた。私たちが移り住んでしばらくしてレーニンもそこに住むようになった。……オグリビュで私は妻と幼い息子といっしょに数週間をすごした。息子が生まれたのは私が獄中にいるときだった。この人里離れたところで、私は自分の旅の記録を『往復』という本に書き記し、それから得た印税でストックホルム経由で国外に出た。妻と息子はしばらくロシアにとどまった。……

 私はスカンジナビアの汽船で新しい亡命の途についた。この第2の亡命期は10年続くことになる。」(『わが生涯』第15章「裁判、流刑、脱走」より)

 

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