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『ジンプリチシムス』とそこに結集した作家・画家たち

諷刺雑誌『ジンプリチシムス』

(1896年にミュンヘンで創刊された前衛雑誌。シニカルで反体制的であると同時に、多くの諷刺画を掲載した)

トーマス・ハイネ(1867-1948)

(『ジンムリチシムス』の創始者、諷刺画家)

ドイツの劇作家フランク・ヴェデキント(1864-1918)

ノルウェー出身の画家オラフ・グルブランソン(1873-1958)

 「第2回大会における私と少数派との関係は短命だった。すでに数ヵ月のうちに、この少数派の中に2つの路線が浮上してきた。私は、分裂は重大なエピソードだがそれ以上のものではないとみなし、できるだけ早く多数派と統一する準備をすべきだという立場であった。だが別の人々にとっては、第2回大会での分裂は日和見主義に向かって進む出発点だった。1904年は、メンシェヴィキの指導グループとの政治的・組織的衝突に明け暮れた。衝突は、自由主義に対する態度とボリシェヴィキに対する態度という2つの点をめぐって繰り広げられた。私は、自由主義者が大衆に依拠しようとする試みを容赦なく排撃するべきだという立場に立ち、まさにそれゆえ、ロシア社会民主党の2つの分派の統一をますますきっぱりと要求するようになっていった。同年9月、私は少数派からの離脱を正式に表明した。もっとも、4月以来すでに、事実上その構成メンバーに属していなかったのだが。この時期、私は、ロシア人亡命者から離れてミュンヘンで数ヵ月間、過ごした。この都市は、当時ドイツで最も民主的で最も芸術的とみなされていた。おかげで私は、バイエルン地方の社会民主主義と、ミュンヘンの美術館と、『ジンプリチスムス』の風刺画家たちについて、それなりの見聞を得ることができた。」(『わが生涯』第13章「ロシアへの帰還」より)

 「『ジンプリチシムス』とは何か。週刊誌か。いや、それ以上である。社会的諷刺の機関誌か。いや、それ以上である…。あるいはことによると、それ以下かもしれない。『ジンプリチシムス』とは世界観なのである。いや、それだけではない。これは一個の文化でもある。

 私の前のテーブルに最新号――(1908年)6月8日付――がある。あざやかな色どり、陰影なき容姿、とぎつく、けばけばしく、野蛮でジプシー的な色彩配合――兵士靴の色調は空と同じで、顔やピールジョッキ、板張りの台は煉瓦色に塗られ、建物や草原、樹木はサフランのように黄色で、均衡は追放され、遠近法は冒漬されている。これが『ジンプリチシムス』だ。芸術上の約束ごとに対する廟笑、様式に対する愚弄――それでいてあらゆる線は芸術上の約束ごとにもとづいており、様式をもっている。あらゆる点に、才能、観察力、大胆さ、創造、シニシズムの跡がある。これが『ジンプリチシムス』である。

 しかし、順に頁をめくっていくことにしよう。芸術家たちのサインに目をやるまでもない。そのそれぞれには筆や鉛筆を強制する独自のやり方があり、誰のものかが認められる。

 1頁めはトーマス・ハイネの作である。この人物は雑誌の大立て者で、流派全体の創始者である。諸君はあらゆることから彼に気づくことであろう。万華鏡的な浪費と組み合わさった意外なまでに乏しい色彩、7歳の手が描いたかのようなあの故意に頼りなげな草、中央部にあるあの感動的な1本だけの百合、それに何よりもまず、言葉で伝えがたい諸人物像のコンビネーション。『オイレンブルグの跡を追って』なるテーマの絵。証人、取り調べ判事、書記。岸辺、草、百合。判事は髭を剃った黒髪のプロシア人で、司法の殿堂の女像柱さながらに毅然としている。書記はやつれて感情の鈍磨した、すべてに慣れた犯罪記録係である。肩幅が広くてずんぐりとした証人は眉、口髭、顎髪とも濃く、額がなく、イヤリングをしていて、毛むくじゃらの手で茎の長い白百合を指し示して述べている、『この場所で侯爵が私にはじめて恋を打ち明けられました』と。諸君には、彼が酒臭くて、いやなタバコの臭いを発散していることも感じられよう。……

 ところで本号には大きな欠落がある。オラフ・グルブランソンがいない。これは、ミュンヘンのこの雑誌のきわめて多作な画家のひとりである。ハイネと同様、グルブランソンはテーマの選択が果てしなく多様である。ここにはプロシアの法律家たちも、教授たちも、悪魔たちも、ボヘミアンも、牧師も、さらには天上界すらもそろっている。グルブランソンは、今日は母なるドイツやその信徒の政治を図解してみせたかと思うと、明日は尊敬すべきミュンヘンの金利生活者シュレーデラーが道をのんきに歩いていて自動車にはねられ即死したさま、彼の魂が身体から離れて昇夫せざるをえなかったさま、途中で飛行機に追いつかれバラバラになってしまったさまを、鉛筆で物語る。不死の魂にとっても航空時代はままならないというわけだ。グルフランソンは、延々とつづく『有名現代人画廊』――作家や芸術家、政治家の様式化された肖像画――をつくりだした。ここには、髭だけで顔のないトルストイや、ステンカ・ラージンの徒党のマクシム・ゴーリキーもいる。グルブランソンの絵には、幾何学的形態への頑固な愛着がある。平行線、直角。正確な円を描いた牧師の腹。このため、人物はみなごわごわしていて、あたかも糊がきいているかのように見えるが、それでいて表現力に富んでいる。グルブランソンの第2の天性となったこの方法が、彼をハイネから画然と区別している。ハイネの場合は、同姓の偉大な詩人に似て、奔放なシニシズムの爆発にもかかわらず柔軟さ、手法の気まぐれなしなやかさ、女性的ともいうべきトーンに富んでいる。……

 『私の天賦の才とは、私が小市民的空気を呼吸する能力がないという簡単な事実に帰着する』。こういった言葉を、精神や実際の仕事からして『ジンプリチシムス』グループに近い作家フランク・ヴェデキントは、『哲学者と馬泥棒』の混ぜものにしてボヘミアンの不安な精神の体現たる侯爵カイトに言わせている[『侯爵カイト』1900]。ヴェデキント自身も、『ジンプリチシムス』グループ全体も、こういった反逆の身分証明書を手に舞台におどりでた。だが、『小市民的空気』の狡猜な悪魔は、彼らの前方にずるがしこく罠をしかけておいた。彼らが憤激すれば、悪魔はうなずいて彼らに同意した。彼らが嘲笑すれば、悪魔は彼らを拍手で迎えた。彼らが悪魔の面に軽蔑を投げつければ、悪魔は美的熱狂でもって彼らに応えた。そして悪魔は、彼らの憤激にも、嘲笑にも、軽蔑にも、ためらわず気前よく支払った。そうして彼らをしつこく愛撫せんとした。これが悪魔の戦術であった。」。(トロツキー『文学と革命』下「『ジンプリチシムス』」より)

 

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