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オーストリア・マルクス主義の面々

マックス・アドラー(1873〜1937)

(新カント主義とマルクス主義との統合を目指し、認識論に足跡を残した。オーストリア社会民主党内では左派に属する)

オットー・バウアー(1881〜1938)

(オーストリア・マルクス主義の代表的理論家で、国家論、民族問題、帝国主義論、オーストリア革命論などの政治理論に足跡を残す)

カール・レンナー(1870〜1950)

(オーストリア社会民主党の右派で、法理論に足跡を残す)

 

ルドルフ・ヒルファーディング

(オーストリア・マルクス主義の経済理論家。レーニン帝国主義論の土台となる理論を構築)

 「ヒルファーディングは、私がこれまで会ったのことのなかったウィーンの友人たちを私に引き合わせてくれた。オットー・バウアー、マックス・アドラー、カール・レンナーといった面々である。彼らは非常に教養があり、さまざまな分野で私より知識があった。最初のうち私は、非常に熱心な――ほとんどこう言ってもいいと思うが――うやうやしい注意深さで、カフェ『ツェントラル』での彼らの会話に耳を傾けた。だが、すぐに私の注意には不審が交じりはじめた。これらの人々は革命家ではなかった。それどころか、彼らは、革命家とは正反対のタイプの人間だった。そのことはあらゆる点に表れていた。問題へのアプローチの仕方に、その政治的意見と心理的評価に、その自己満足――自信ではなく、自己満足――に。私には、彼らの声色にさえ俗物根性が感じとれるような気がした。

 私がひどく驚かされたのは、これらの教養あるマルクス主義者たちが、大きな政治問題、とりわけ革命的変革の問題にアプローチするやいなや、マルクスの方法をまったく使いこなすことができなくなることだった。何よりも私がこのことを確信したのは、レンナーとの会話を通じてである。ある時、カフェに遅くまで居残っていたため、私の住んでいたヒュッテルドルフ行きの路面電車がなくなってしまった。レンナーは自分の家に泊まるよう勧めた。当時、教養と才能に恵まれたこのハプスブルク家の官吏は、自ら歴史的弁護を買って出たオーストリア・ハンガリーの不幸な運命によって、10年後にオーストリア共和国の首相になろうとは、思いもしなかったろう。カフェからの帰り道、私たちは、その頃すでに反革命によって制覇されていたロシアにおける今後の発展の展望について語り合った。レンナーは、この問題について、教養ある外国人らしい慇懃さと無頓着さをもって論じた。彼にとっては、当時におけるオーストリアのベック男爵内閣のことの方が、はるかに大きな関心事だった。ロシアに関する彼の見解は要するに、1907年6月3日のクーデター後のストルイピン体制に表現されていた地主とブルジョアジーとの同盟は、ロシアの生産力の発展に完全に合致しており、したがって、そのまま存続することは十分可能というものであった。私は反論して次のように述べた。私の見解では、地主とブルジョアジーとの支配ブロックは第2の革命を準備するものであり、その革命はほぼ間違いなくロシアのプロレタリアートを権力に就かせるだろう。

 今でも覚えているが、レンナーはガス灯の下で、困惑したような、それでいて相手を見下したような目でさっと私を見た。おそらく彼は、私の予測を、数ヵ月前の社会主義インターナショナル・シュトゥットガルト大会で将来の世界革命の日時を予言したオーストリアの神秘家の黙示録的予言と同じたぐいの、無知蒙昧なたわごとと思ったのだろう。

 『本当にそう思っているんですか?』、レンナーは尋ねた。そして、おそろしく慇懃にこうつけ加えた――『もちろん、私はロシアの状況についてよく知らないんでしょうけど』。

 私たちの間には、これ以上会話を続けるための共通の基盤はなかった。この人物は、エジプトのファラオの中で最も保守的な人間と同じくらい革命的弁証法から遠かった。

 私が受けた最初の印象は、その後ますます深まるばかりであった。これらの人々は多くの知識を持ち、日常の政治的実務の範囲内では立派なマルクス主義の論文を書くこともできた。だが、彼らは私にとっておよそ異質な人々であった。私の交際範囲と見聞が広がれば広がるほど、この点に対する確信はますます強まっていった。彼らは、仲間内でのうちとけた会話の中では、論文や演説におけるよりもはるかにあけすけに本音を語り、時にはあからさまな排外主義的感情を、時には小金持ちの高慢さを、時には警察に対するうやうやしい畏れを、時には女性に対する下劣な態度を、さらけだした。そのたびに私はあっけにとられて、心の中でこう叫ぶのだった。「何という革命家だ!」。

 労働者のことを言っているのではない。もちろん、彼らにも少なからぬ小市民的特徴が見られるが、それはもっと単純で素朴なものである。だが、私が前にしていたのは、戦前のオーストリア・マルクス主義の精華であり、国会議員、著述家、ジャーナリストのお歴々だった。こうしたつき合いを通じて私は、いかに多様な諸要素が同一人物の心理の中に共存しうるかを、そして、体系の一部を受動的に認識する水準から、その体系を総体として心理的に感得し、その体系の精神で自己を再教育するに至るまで、いかに巨大な距離があるかを理解するようになった。マルクス主義者の心理タイプというものは、社会的激動の時代、伝統と習慣との革命的断絶の時代においてしか形成されない。だが、オーストリア・マルクス主義者は、あたかも人が法律を学ぶようにマルクスの理論のあれこれの部分を学び、『資本論』の利子で食っていたため、あまりにもしばしばその俗物性をさらけだした。オーストリア帝国の古い町ウィーン、この階層的でせわしく虚栄に満ちた都市で、マルクス主義の学者たちはいかにもうれしそうにお互いを『博士(ヘル・ドクトル)』と呼びあっていた。労働者もたびたび彼らのことを『同志博士(ゲノッセン・ヘル・ドクトル)』と呼んでいた。

 ウィーンに住んでいた7年間というもの、私はこれらの指導者たちとの誰とも心を割って話すことができなかった。その間ずっと、私はオーストリア社会民主党の一員であり、その集会に出かけ、デモに参加し、出版活動に協力し、時にはドイツ語で短い報告さえしたというのに。私はこの社会民主党指導者たちを自分とは疎遠な人々であると感じたが、集会やメーデーでの行進で出会った社会民主党の労働者たちとは、共通の言葉をやすやすと見出した。」(『わが生涯』第16章「第2の亡命とドイツ社会主義」より)

 

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