トロツキー写真館

  

ドイツ社会民主党の中央派

中央派の実践的指導者アウグスト・ベーベル(1840〜1913)

 中央派の理論的指導者カウツキー

 ゲオルグ・レーデブール(1850〜1947)

フーゴ・ハーゼ(1863〜1919)

 「もう一つ思い出されるのは、カウツキーのアパートで開かれたレーデブールの60歳の誕生祝いのことである[1910年]。10人ほどの来客の中に、その時すでに80歳にさしかかっていたアウグスト・ベーベルもいた。それはドイツ社会民主党が絶頂にあった時であった。党の戦術的統一性は完璧であるように見えた。古参幹部たちは党の成果を列挙し、確信を持って未来を見ていた。主賓であるレーデブールは夕食の時、こっけいな諷刺画を書いてみせた。この内輪の祝いの席で私は、ベーベルと妻のユリアに初めて会った。カウツキーをはじめとする参会者たちは、老ベーベルの言葉を一語一語聞き入っていた。私もそうしたことは言うまでもない。

 ベーベルは、その人格のうちに、ゆっくりとだが着実に台頭しつつある新しい階級を体現していた。この痩せた老人は全身これ、単一の目標に向けられた我慢強く揺るぎない意志でできているように見えた。その思考、その雄弁、その論文と著書において、ベーベルは、直接的な実践的課題に役立たないような精神的エネルギーの支出をまったくすることがなかった。そこに、彼の政治的パトスの独特の美しさがあった。わずかな自由時間に学び、一分一秒を無駄にせず、厳密に必要なものだけを貪欲に吸収しようとする、そういう階級をベーベルは体現していた。何という比類なき人間像であることか! ベーベルは、バルカン戦争と世界大戦との間のブカレスト講和会議の最中に死んだ[1913年]。私はその知らせをルーマニアのプロエシュティ駅で受けとった。私は信じられなかった。『ベーベルが死んだ。ドイツ社会民主党はいったいどうなるんだろう?』。

 すぐ頭に浮かんだのは、ドイツ党の内情について語ったレーデブールの言葉である。『20%は急進派、30%は日和見主義者、残りはベーベルについていく』。

 ベーベルが自分の後継者として選んだのはハーゼだった。老ベーベルは、疑いもなく、ハーゼの理想主義に惹かれていた。だがハーゼのそれは、スケールの大きい革命的理想主義ではなく、もっと狭く、もっと個人的で凡庸な理想主義だった。たとえば、ケーニヒスベルクでの金になる弁護活動を党の利益のために断ったといった類のことである。さして英雄的とも言えないこの自己犠牲について、ベーベルはこともあろうに――ロシアの革命家は大いに当惑したものだが――イエナで開かれた党大会の演説で持ち出し、ハーゼを執拗に党中央委員会の副議長に推薦した。

 私はハーゼのことはよく知っていた。ある党会議の後、私たちはいっしょにドイツ国内の小旅行に行き、ニュールンベルクを観光して回った。個人的なつきあいでは柔和で親切だったハーゼは、政治においては、その根っからの性質にもとづく水準を最後まで脱することはなかった。すなわち、正直な凡人、革命的な気質も理論的視野も持たない地方的民主主義者という水準を。哲学の分野では、彼は少し気恥ずかしそうにカント主義者を自認していた。危機的な情勢になるときまって彼は、最終的な決定を回避し、小手先の措置と事態の静観に傾いた。のちに、独立社会民主党が党首にハーゼを選んだのも十分理解できることである。」(『わが生涯』第16章「第2の亡命とドイツ社会主義」より)

 

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