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シュトゥットガルト大会とハリー・クウェルチ

 

 

ヴィクトル・アドラー

ハリー・クウェルチ(1858〜1913)

(イギリス社会主義連盟の指導者。各国際大会でイギリス社会民主主義を代表)

ベルハルト・フォン・ビューロー(1849〜1929)

(1900年から1909年までドイツ帝国宰相)

 「第2インターナショナルの大会では、まだ1905年のロシア革命の息吹が感じられた。大会は左にならって整列していた。しかし、革命的方法に対する幻滅もすでにうかがわれた。ロシアの革命家に対する興味関心は衰えていなかったが、その興味の中には多少の皮肉っぽいニュアンスが込められていた。またわれわれのところに戻ってきましたな、というわけだった。私が1905年2月にウィーンを経てロシアに向かったとき、将来の臨時政府への社会民主党の参加問題についてどう考えているかヴィクトル・アドラーに尋ねたことがある。アドラーは、いかにも彼らしい答え方をした。

 『あなた方の場合、将来の政府の問題に頭をつっこむには、現在の政府をどうするかという問題の方があまりにも大きいようですね』。

 シュトゥットガルトで、私はこの言葉をアドラーに思い出させた。するとアドラーはこう言った。

 『あなた方が、私の思っていたよりも臨時政府に近かったことを認めましょう』。

 アドラーは総じて私に非常に好意的だった。何といっても、オーストリアの普通選挙権は基本的にペテルブルクの労働者代表ソヴィエトのおかげで獲得されたようなものだからである。

 1902年に私が大英博物館に出入りできるよう取り計らってくれたイギリスの代議員クウェルチはシュトゥットガルト大会の場で、その時ちょうど開かれていた外交会議を『強盗の集まり』と呼んだ。この発言はドイツ宰相フォン・ビューロー公のお気に召さなかった。ヴュルテンベルクの州政府はベルリンの圧力に屈して、クウェルチを国外追放にした。たちまちベーベルは途方に暮れた。ドイツ社会民主党はこの追放に反対するいかなる行動にも出なかった。抗議のデモさえなかった。インターナショナルの国際大会は学校の教室のようなものと化してしまった。不作法な生徒が教室から追い出されるが、他の生徒は押し黙っている。ドイツ社会民主党の膨大な党員数の背後には、無力さの影がはっきりと感じられた。」(『わが生涯』第16章「第2の亡命とドイツ社会主義」より)

 

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