トロツキー写真館

  

負傷兵と捕虜

ブルガリア軍の負傷兵たち

トルコ軍の捕虜兵士たち

 「ソフイアの通りの小さな商店やカフェには、足を引きずったり、腕を包帯でつったり、血が滲んで固まった白いガーゼで頭を覆った兵士たちの姿がしばしば見られるようになった。昨晩は雪が降った。今、雪はゆっくりと溶けている。上空では湿ったものが降ってはいるが、通りで通行人が立ち止まって負傷兵を取り囲む集団となるのを妨げるほどではない。誰もが、総司令部の電報ではあのように非人問的な数字で示されている恐ろしい出来事を――たとえ他人の言葉を通じてであれ――経験したいという思いに強くとらわれている。一方負傷兵の方も、聴衆とともに(ただ聴衆より百倍も真剣にだが)、身も心も震わせて榴散弾の火炎や背後からの迂回や「銃剣突撃」の世界に再びのめりこもうとするのである。

 戦闘参加者の話というのは極端に主観的である。戦場で彼ら一人ひとりが見たのは小さな断片だけであって、複雑な戦略的作戦の意味は彼らにとっては秘密であったし、おそらくこれからもそうだろう。熱病やみのような目で周囲を見まわしながら、負傷者は心の中の自分の体験から戦闘の姿を描き出す。だから、同一の事実に関する彼らの話は、彼らの一人ひとりが自分なりに真実を見たとおりに語ったとしても、ひどい矛盾を含むものになる。また戦火をくぐり抜けてきた負傷兵自身も、軍事行動の過程についての自分の知識が部分的なものであることに満足できず、自分の人生を真っ二つに切断してしまった出来事の意味を説明してくれるような一般化をしてしまうのだ。もちろんそうした一般化はきわめて粗野なものであるが、その粗野さの中に、戦った兵士たちの気分や戦闘行動の過程におけるいくつかの基本的な特徴が現われてもいるのである。

 現時点におけるわれわれの知識のもう一つの源泉は捕虜である。彼らの観察は、負傷者の話に見られたのと同じ特徴、つまり、きわめて主観的な恣意性と最も単純な一般化に向かう傾向をはっきり示している。しかし、そこにはひとつ本質的な相違がある。負傷者は勝利した軍に属し、その勝利を誇りに思っており、軍の欠陥を愛国心や軍律のために隠そうとする。だが、捕虜は違う。一連の失敗と敗北は愛国的なトルコ兵にさえすでにトルコ軍はだめだという思いを植えつけていた。捕虜になった将校の方は、慎重な言いまわしではあるが、戦略的な計画の存在についてなおもほのめかそうとする。退却や敗北はその不可欠な構成要素だというのだ。もちろん彼ら自身それを信じていない。一方、下級兵士はこのような見せかけの愛国心とは無縁である。彼らは自分たちが目にしてきたこと、それこそがトルコ軍の失敗を説明できると彼らがみなしているさまざまなことをいささかも隠そうとしない。捕虜としての立場が軍律から彼らを内的に解放しているだけになおさらである。」(トロツキー「戦争参加者の言葉から」、『バルカン戦争』より)

 

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