主要な危険性はどこにあるか

――中央統制委員会会議における第2の演説

トロツキー/訳 西島栄

【解題】本稿は、1927年6月22日に開催された中央統制委員会の会議におけるトロツキーの第2の演説である。第1の演説の「解題」で述べたように、この演説は大幅に縮小されて『スターリンの偽造学派』に掲載された。削除部分は下線部で示してある。

 削除部分でとくに興味深いのは、トロツキーが自伝で語ったレーニンとの最後の対話――官僚主義に反対する「トロツキー=レーニン・ブロック」を形成することを取り決めた対話――について詳しく語られていることである。この対話がなされた時期については、自伝では曖昧であったが、この演説では、「外国貿易の独占問題について彼が手紙を書いたで、民族問題についての手紙を書くの時期」であり、「第2の発作を起こす2、3週間前」とより具体的に明示されている。外国貿易の独占問題に関するレーニンの一連の手紙は、1922年12月12日から12月21日まで数回にわたって書かれており、グルジア問題に関する手紙は1923年3月5日と6日に書かれているので、最後の対話はこの間の時期に行なわれたものと推測することができる。さらに、レーニンが第2の発作を起こして政治の舞台から退くのは、1923年の3月10日なので、その2、3週間前であるから、最後の対話がなされたのは1923年2月の半ばぐらいであると考えられる。

 なお、全体の題名も小見出しも訳者が適当につけたものである。

 Л.Троцкий, Две речи заседании ЦИК: Вторя речь, Архив Троцкого: Коммунистическая оппозиция в СССР: 1923-1927, Том.3, ТерраТерра, 1990.


   2つの通信の示すもの

 トロツキー ここでなされたのは、中央統制委員会幹部会のメンバーである党幹部の同志たちによる「論告」である。この場は、反対派を攻撃することなら何でもしゃべれる集会の場でもなく、秘密会議の場でもなく、ヤロスラフスキーのシパルガルカ〔宣伝・煽動用の手引き〕の中でもなく、党の最高機関である…。そしてここで語るのは「検事」である。しかし事実はそれでも諸君よりも強力である。党の最高機関は言うまでもなく巨大な意義を有している。しかし事実は諸君よりも強力なのだ。

 ちょうど今朝の会議から戻ってきたら、2つの「報道用ではない」通信を見つけた。それらはまたしても諸君の言っていることを反駁するものである。一つは折りよくと言うべきか折り悪くと言うべきか英露委員会に関するものであり、もう一つは中国革命に関するものである。両者とも党から隠されている。最初の通信にはこう書かれている。

 「ロンドン、6月22日(タス)

 英国労働組合総評議会は本日、全ソ労働組合中央評議会の代表者との会談に関して6月18日にヒックス(1)とシトリン(2)によってベルリンから送られてきた報告を検討するとともに、この報告および全ソ労働組合中央評議会とのやり取りの要旨を国際関係委員会に報告用に送付することを決定した」。

 どうやら、われわれの代表者たちは総評議会の代表者たちとすでに会談したようである。イギリスではこの情報についてブルジョア出版物がすでに報道している。だがわれわれは今のところ何も知らされていない。

 ペトレス いたるところで報道されているのだから知らないはずがない。

 トロツキー 報道されていたのは、会談がなされるだろうということだけである。しかし、すでにヨーロッパ中でこの会談そのものについて語られており、報告がなされているのである。さて「報道用ではない」タス通信をさらに見てみよう。そこにはこうある。

 「さらに、総評議会は〔この問題に関する〕声明文を討議して、それを次の会議で採択するとした。総評議会の次の定例会議は通常7月にならないと開催されないことになっており、労働組合界はこのことを、総評議会が英露委員会の召集に同意しないことの現われであると見ている。総評議会の右派に近い筋の、労働運動問題関係の新聞記者は、タスの代表者とのインタビューの中で、現在形成されつつある状況をロシア人への宣戦布告であると特徴づけた」。

 このように、英露委員会の召集に関する提案を報告用に国際関係委員会に送付することが決定されている。このサボタージュは、まったく正しくも「ロシア人への宣戦布告」として評価されている。これが、ロンドンから今日送られてきた通信である。ところがこれは「報道用ではない」とされている。どうしてわれわれにはこれを知る権利がないのか? そして、このような通信を100万の党から隠すのはいったいどこのどのような「貴族」なのか? 中央統制委員会はこのような通信を党から隠そうとする者が誰か、どうして隠そうとするのかについて、党に答えなければならない。そしてさらに重要なことは、英露委員会の評価全体に関して正しかったのは誰なのかについて答えなければならない。1年前、モスクワ委員会は、英露委員会が戦争の危険性が迫った際に大きな役割を演じるだろうと述べた。戦争の危険性はとっくに存在している。トムスキーはベルリンにいて、そこで会合を持った。それでどうなったか? 英露委員会を召集するという提案は報告のために国際関係委員会に送付されることになった。総評議会はチェンバレンにではなく、われわれに戦争を布告した。これは一つの事実である。

 もう一つある。ナウエンからの通信である。

 「ナウエン、6月22日(無線)。馮玉祥将軍(3)は司令部とともに、南京軍の総司令部の蒋介石を訪問し、軍事的苦境の問題について議論した。上海の新聞は馮玉祥が漢口〔当時共産党が同盟していた汪精衛の武漢政府のこと〕と決裂するだろうと予言しているが、それに対して共産党筋は馮玉祥が漢口のために交渉しているのだと主張している」。

 どちらが本当なのだろうか? どちらも本当である可能性がある。おそらく、馮玉祥は本当にこの漢口の裏切りに全責任を負っているのだろう。だがそれと同時に、彼は反漢口の点で蒋介石とブロックを組んだのである。そして同志オルジョニキッゼがこの現象を説明して、彼らにはヴォロシーロフ(4)やブジョンヌイ()のような人々がいないとか言っているが、それは全問題を転倒させるものである。1917年のわれわれにも、ブジョンヌイやヴォロシーロフのような人々はいなかった。だが当時における根本問題は敵の軍隊を解体させることであった。中国では敵の軍隊しか存在しない。ボリシェヴィキの課題は何よりも、軍隊の敵対的分子を解体することである。なぜなら、大きな革命的観点からすれば、現在、北伐をわれわれの課題とみなすことは笑うべきことだからである。この北伐は誰の課題か? 現在われわれの課題は北伐などではなく、帝国主義と結びついた中国の支配階級に対する労働者と農民の戦役を組織することである。これこそわれわれの課題だ! 支配階級――地主、軍国主義者、反動的な国民党将軍、高利貸し――に対する労働者と農民の革命的戦役からのみ、中国の赤軍が生まれてくるのである。将軍連中に対するスターリン式の追随からはけっして生まれない! この新しい学派(同志ジノヴィエフはここでネオ・メンシェヴィズムの赤色教授連中の論文の一つを引用した)がどのように言っているかをわれわれは耳にした。「反対派は将軍たちとの衝突を挑発している」。われわれは将軍たちとの衝突を「挑発」しているだけでなく、公然かつ直截に、すべての中国兵士、すべての中国労働者、すべての革命的農民たちに、将軍たちに対抗して団結することを呼びかけ、兵士ソヴィエトを結成し、地主将校どもに反旗を翻し、追跡し、銃殺するよう呼びかけている。そしてそのために、兵士の革命裁判所を設立し、革命的地方で農民ソヴィエトを結成するよう呼びかけている。ここにこそ基本的課題がある。彼らに中国版「ヴォロシーロフ」や「ブジョンヌイ」がいないなどということを持ち出すなかれ。かかる人物をいったいどうやって手に入れるのか? われわれは革命路線をとることで、赤軍を結成するのだ。ヴォロシーロフは管区会議で、かの中国には革命的カードルがおらず、そんな彼らから何を期待することができるのかなどと説教した。とんでもないことだ! レーニン的路線こそ革命的党カードル創出の前提条件ではなかったのか? 中国におけるマルトゥイノフ的路線にもとづいて、どうやって革命的カードルをつくり出そうというのか? 党の若さがメンシェヴィキ的路線を正当化するというのか? 現在、わが党指導部のもとで中国で共産党が遂行している路線は許すことのできるものだろうか? メンシェヴィキに反対しボリシェヴィズムを擁護するための闘争は現在、わが国では諸君に対する闘争として遂行されている。そしてこの闘争は中国革命の運命のかかった闘争である。

 ここで演説した者の中には、陳独秀を唐生智(6)や譚平山(7)から区別できないと、まるで自慢でもするように言う者がいた。同志諸君、これがボリシェヴィキの最高機関で語られたことなのだ! もちろん、すべての名前を覚えることは不可能だが、これらは基本的な名前である。いったいこれはどういうことか? 私は諸君に言う。これは方向性であり路線なのだ、と。こともあろうに中央統制委員会で「譚平山だって。そんな奴のことなど知ったことか」などとどうして語ることができようか? 今になってもなおこの男のことを知らないなどということがありうるのか? もし本当に知らなければ、沈黙を守り、この問題について何も語らないことだ。われわれはケレンスキーとコルニーロフとを区別し、共産党とエスエルやメンシェヴィキとを区別したのではなかったか? もし諸君が本当に中国革命を指導したいと思っているのなら、諸君の中央統制委員会が、中央委員会との合同総会の場で、この問題を討議し決定するというのなら、これらの名前を知らないなどとどうして平然と言えるのか? これは、わが国の工業やわが国の軍隊に負けず劣らずわれわれの運命を左右している中国革命に対する許しがたいシニシズムである。

 

   他の発言者の発言について

 トロツキー 私は、同志ヤンソンが述べた次のような発言を喜んで確認しよう。われわれはいつでも労働者細胞に出向いていって、その場で自分たちの見解を擁護することができるが、労働者の拒否に会うことはあっても、中央統制委員会によって迫害されることはないだろう、と。

 83人の声明」(今ではそれよりもずっと多くの者が署名している)が党規律の破壊ではないとされたことも喜んで確認しよう。このことから私は、署名者に対するいかなる弾圧も党規約を蹂躙することになるという結論を引き出す。このような弾圧がなされた場合には、力と可能性の許すかぎり、同志オルジョニキッゼにそのことを知らせるために、あらゆる手を尽くすだろう。しかし、これがヤロスラフスキーの立場ではないことをここで言っておかなければならない。さらにつけ加えておかなければならないが――おそらく私は悲観主義者で不確信者なのだろう――、私は同志ヤロスラフスキーの立場が同志オルジョニキッゼの立場よりも強力であると思っている。なぜならヤロスラフスキーは、現在の路線をはるかに確固として、決然と、首尾一貫して遂行しているからである。

 欠陥品問題に関する同志ソーリツ()の論文に対して原則的な批判をすることができるという彼の発言も喜んで確認しよう。同じく喜んで確認するが、本会議の多数派はこの同志ソーリツの提案を支持している。喜んで確認するが、本会議に出席している『プラウダ』編集部書記の同志ウリヤーノヴァ(9)もこのことに抗議していない。

 同志ロイゼンマン10の、ウォッカ用の不幸なコルク栓について彼が行なった調査に関する発言も確認しておこう。この栓には新しいソヴィエトのスローガンが印字されている――「ウォッカなしには食事がのどを通らない」、「がぶがぶ飲んで酔っ払おう」等々。私は、これらの宣伝文句について、わが議長から非常に短く雄弁な言葉が記されたメモを受け取った――「下劣」と。しかしながら言っておかなければならないが、コルク栓は単独で存在するものではなく、それは、労働者国家がウォッカを売っているという事実を補完するものでしかない。

 オルジョニキッゼ (ウォッカの国家専売が指導部で議題になったとき)ジノヴィエフ自身それに賛成した。私は反対したのだが。

 トロツキー 彼がそれに賛成したのは誤りであった。貴君が反対したのは正しかった。結局のところ、帝政時代にウォッカが国家財政にはプラスであったが、私的経済においてはマイナスであったことを理解しなければならない。これはツァーリのシステムのもとでのことであった。だがそれは社会主義システムにおいては何を意味するのか? それは、国家財政にはプラスだが、国営経済においてはマイナスを意味する。例の宣伝文句のような他のあらゆるマイナスの結果を度外視したとしても、国営経済に対するマイナスは財政に対するプラスよりもはるかに大きいのであり、そのようなやり方によってわれわれは自分自身に損害を与える活動をしていることになるのだと私は主張したい。

 同志ヤロスラフスキーが、私によるミャスニコフ(11)の逮捕なるものや共産党員の銃殺なるものについて語り始めたとき、議長が彼を制したことを、私は喜びをもって確認したい。言っておかなければならないが、私が共産党員を銃殺したとかいった下劣な噂はずいぶん前から世間に流布されている。だが、このような醜悪なデマに対してウラジーミル・イリイチがどのように反応したか諸君に言っておかなければならない。同志諸君、ここに、イリイチの署名の入ったメモ用紙のコピーが存在する。このコピーの原本を私は数年前にレーニン研究所に送付した。私の手元にあるのはその写真コピーであり、ここにあるのはそれを印刷機でコピーしたものである。

 このメモ用紙の上の方には次のように印字されている――「人民委員会議長」。その下の方には、レーニン自筆の一文が書かれている。そこにはこうある。

 「同志諸君、私は同志トロツキーの命令の厳格な性質を知りつつ、同志トロツキーによって発せられた命令が正しく、合目的的で、われわれの事業にとって必要であることを確信するがゆえに、しかも絶対的なまでに確信するがゆえに、私はこの命令を全面的に支持するものである。V・ウリヤーノフ(レーニン)」12

 これは同志レーニン自身の手で書かれたものである。私はこのメモ用紙を手渡されたとき、空白部分の下にこのような数行が書かれてあるのを見て、当惑した。彼はこう説明した――「君が共産党員を銃殺しているという、君を貶めるための噂が流布されていることは私にも伝わってきている。この用紙を君に渡しておくよ。必要なら何枚でも、私が君の決定を支持すると約束したこういう用紙を渡すつもりだ。上の空白部分に君はどんな命令でも書き込むことができる。そして私の署名はすでにあるわけだ」。これは1919年7月のことである。現在、ウラジーミル・イリイチに対する私の態度について、そしてそれよりもはるかに重要なことには、私に対するウラジーミル・イリイチの態度について、多くのゴシップが広められているが、ウラジーミル・イリイチの署名の入ったこのような半分白紙の用紙をもらっている者が誰か他にいるとしたら、ぜひ見せてもらいたいものだ。彼はこの紙片の中で、私のあらゆる決定に対してあらかじめ支持すると言っているのだ。この命令には単に個々の共産党員の運命のみならず、もっと大きなものがかかっていたのにである。これが事の真相である。

 しかし、この問題においてもヤロスラフスキーの方がオルジョニキッゼよりも強力なのではないかと思っている。なぜなら各支部で流布されているのはヤロスラフスキーの「説」の方であって、オルジョニキッゼが彼を制したという事実の方ではないからである。そのうち、オルジョニキッゼ自身もこう述べるだろう――「もうどうすることもできない。大衆がそれを求めているのだ。もっとも私自身はトロツキーの話で納得したのだが…」。

 オルジョニキッゼ たいした予言だ!

 トロツキー 同志オルジョニキッゼが『プラウダ』の社説を非難したことを満足をもって確認しておきたい。しかし、誹謗中傷で毒された50万部の『プラウダ』は政治的事実であり、同志オルタナティヴの非難は閉じられた空間の中にとどまっている。ヤロスラフスキー的人物は県委員会にも郷委員会にもたくさんいる。マレツキー(13)の論文は、県委員会や郡委員会などにいるヤロスラフスキー的人物のためのスターリン用音叉である。(反トロツキズムの)キャンペーンはこの音叉に合わせて進行している。これは、最も意識の遅れた層の黒百人組的本能を操ろうとする汚らしい策略である。

 ヤロスラフスキー このような中傷的攻撃に抗議する。君こそ黒百人組だ。(オルジョニキッゼがベルを鳴らす)

 

   官僚主義と政治的二重権力

 トロツキー 昨年中に官僚主義が増大したという同志オルジョニキッゼの発言――それは私の意見と同じだが――を喜んで確認しておきたい。

 ヤロスラフスキー 抗議する!

 ロージト こうなったら中傷の問題を議事日程に入れるべきだ。

 オルジョニキッゼ 誰も君たちに発言する権利を与えてはいない。

 トロツキー 問題になっているのは、単に官僚の数ではなく、体制の問題、路線の問題、被統治者に対する統治者の態度の問題である。地方委員会の書記のヤコヴレフが反対派に反対する分派的報告を行なった秘密党員集会において、一人の女性労働者がおおむね次のように発言した――「ここで言われたことはすべて正しいと思います。反対派をやっつけることが必要です。でも困ったことに、小ざっぱりした服装をした役人が地方委員会にやってくると、ただちに必要なところへ案内されるのに、薄汚れた服装をした女性労働者がやってくると、長い間廊下で待たされるのです」。これは地方委員会の一員である女性労働者によって言われたことである。こうした声はますます頻繁に聞かれるようになっている。それは、単に官僚の数が増加したということだけではなく、支配徒党がますますソヴィエト・ネップ社会の上層階層になりつつあるということをも意味しており、また、2つの階層、2つの生活様式、2種類の生活習慣、2種類の姿勢、あるいは、もっと厳しい言葉を用いれば、日常生活における二重権力の要素が創られつつあるということをも意味する。それは、このまま発展していけば政治的二重権力に転化するかもしれない。そして政治的二重権力はプロレタリアートの独裁に対する直接の脅威となるだろう。都市の党職員とソヴィエト職員の膨大な層は午後3時まで官吏の生活を送り、3時以降はプチブル市民としての生活を送り、中央委員会に対して自由主義者の態度をとる。水曜日には、6時になると、反対派の不確信を非難する。このタイプの党員は、個人的にはダーウィンの学説を信奉しながら必要があれば正饗式の信認状を出したツァーリの役人とよく似ている。

 同志オルジョニキッゼは、官僚主義に対する闘争において自分を支援するようわれわれに提案した。だとすれば、どうして彼は反対派党員を活動から追い出すのか? どうして反対派党員は「支援する」ことを拒否されているのか? 反対派党員は仕事ができないということを証明しようとし、いわば裏口から反対派の名誉を失墜させようとする、ミリューチン型の連中がいるし、以前もいた。だが私は、反対派党員の圧倒的多数は、その仕事がまずかったからではなく、また中央委員会の指令を守らなかったからでもなく、反対派メンバーとしてのその確信ゆえに、その報いとして追放されているのだと主張する。彼らはいわゆる「トロツキズム」の罪で追放されているのだ。

 官僚主義との闘争を支援してほしいとの同志オルジョニキッゼの提案は、別のより権威のある提案を思い起こさせる。それは私にとってウラジーミル・イリイチとの最後の対話であった。それは、外国貿易の独占問題について彼が手紙を書いたで、民族問題についての手紙を書くの時期のことで(14)、彼が第2の発作を起こす2、3週間前のことであった。彼はクレムリンの自分の部屋に私を呼んで、ソヴィエト機構の中で官僚主義が恐ろしいまでに成長していること、この問題に対して正しいアプローチをするための梃子(てこ)を見出す必要性があることについて話しあった。彼は中央委員会に特別の委員会を設置することを提案し、私にこの仕事に積極的に参加するよう訴えた。私はこう答えた――。

 「ウラジーミル・イリイチ、私の確信によれば、現在、ソヴィエト機構の官僚主義に対する闘争においては、地方でも中央でも、特定の指導的グループ・個人の周囲に党員・非党員・半党員の官僚とスペッツの特別の集団が形成されていることを忘れることはできません。県でも、郡でも、地方でも、中央でも、つまりは中央委員会、等々でもです。官僚に圧力をかけようとすると、スペッツを取り巻きにした指導的党員グループとぶつかります。こうした現状のもとでは、このような仕事を引き受けることはできません」。

 ウラジーミル・イリイチはしばらく沈黙してから――私はここでほとんど逐語的に引用するが――こう述べた。「つまり、私はソヴィエト官僚主義との闘争の必要性について語っているのだが、あなたは中央委員会組織局に対する闘争もそこに加えることを提案しているのだね?」。

 この思わぬ発言に、私はつい笑ってしまった。というのも、このような完成された定式は私の頭の中にはなかったからである。私はこう答えた――「そういうことになりましょうか」。続いてウラジーミル・イリイチは言った――「よろしい。ではブロックを提案する」。私は答えた――「立派な人物と立派なブロックが組めて非常に光栄です」。最後に、ウラジーミル・イリイチは、中央委員会に「一般に」官僚主義と闘争する委員会を設置し、それを通じて中央委員会組織局にも対処してはどうかと提案した。彼は問題の組織的側面について「熟考する」ことを約束した。こうしてわれわれは別れた。それから2週間、私はレーニンからの呼び出しのベルが鳴るのを待ちつづけた。しかしイリイチの病状はますます悪化し、まもなく倒れた。その後、ウラジーミル・イリイチは秘書を通じて民族問題に関する手紙を私に書いてきただけであった。そのため、この事業はそれ以上続くことはなかった。(会場が騒然とする)

 私は当時、このことについて中央委員の近しい同志たちに話しており、たぶん彼らは以上の話を逐語的に繰り返してくれるだろう。同志諸君、これは当時の状況全体から生じている。これは、おそらく、ウラジーミル・イリイチが民族問題についての手紙を書いていたか、そのことについて熟考していた時のことである。つまり、外国貿易の独占問題についての手紙を私に書いた後、民族問題に関する覚書を書く前のことである。

 

   ヤロスラフスキーの発言について

 トロツキー 同志ヤロスラフスキーはこの場で、この種の事柄では実に彼らしい断固とした調子で私の話を、つまりヤロスラフスキーが馮玉祥のことを信頼のおける革命家だと数日前に推奨したという話を否定した。私はこの問題を調査する委員会を設置するよう中央委員会に提案する。つまり、同志ヤロスラフスキーがごく最近、大規模な党細胞会議で、文字通り、馮玉祥は信頼のおける革命家だとか、「真の農民」だとか、「真のプロレタリア」だと語ったかどうかを調査する委員会である。誰かが彼に「馮玉祥は敬虔なクリスチャンだ」と言うと、ヤロスラフスキーは「そんなことはない。彼はモスクワから中国に到着すると、すべての神父を追放したのだ」と答えた。すると会場は、ヤロスラフスキーの盟友にして積極的な無神論者としてモスクワから帰還した馮玉祥を讃える大きな拍手喝采を送った。

 4月5日の同志スターリンの演説の速記録を私に送るよう改めてお願いしたい。中央統制委員会の議長に、この速記録を私の元に送るようお願いする。私が中央委員であるかぎり、それを受け取る権利がある。中央委員会のメンバーとして、私は自分の権利のために闘うことを常としている。それゆえ、この速記録を送ってもらいたい。

 同志ヤロスラフスキーは、メンシェヴィキのダンが喜んで私の演説を印刷するだろうと述べた。ダンが、わが党の内部批判について知りえたすべてのことを喜んで印刷するだろうし、われわれの内紛を激化させるためにわれわれの内部軋轢のいっさいを喜んで印刷するだろうこと、これは疑いない。この問題に関しては以前すでに述べたことをここでも繰り返そう。ブルジョア系および社会民主主義系の新聞雑誌を読むなら、それらが非常に頻繁に反対派による批判をほめそやしているが、反対派の政治的立場を容赦なく非難していることに気づくだろう。だが諸君の場合はその政治的立場がほめそやされている。ブルジョア系および社会民主主義系の新聞雑誌はスターリンと政治的に連帯しているのだ。国内問題に関しても中国革命に関してもである。われわれはその批判だけが持ち上げられているにすぎない。思い出すが、レーニンがわが国のソヴィエト機関の官僚主義や共産党員のうぬぼれについて語ったとき、そしてわれわれがツァーリズム体制から官僚主義の最悪の側面を受け継いだと語ったとき、すべての白衛派的悪党どもが喜び勇んで高笑いしたが、しかしそれは、レーニンがわれわれ自身の国家機構に対して向けた批判の意義をいささかも減じるものではなかった。

 

   トロツキズムの諸問題

 トロツキー 私はここで、せめてこの機会に、短い時間でもいいから、トロツキズムの問題について、すなわち、私の政治的経歴にかこつけて、とくに裁判官としてここに出席しているヤロスラフスキーやその同類たちの口とペンによって流布された嘘について、述べておきたいと思う。一度ならず語ってきたし、またすべての古参党員によく知られているように、多くの重要問題において私はかつてレーニンおよびボリシェヴィキ党と闘ってきたが、私はメンシェヴィキではなかった。メンシェヴィズムを一個の政治的・階級的路線として理解するならば――そしてそのようにのみ理解しなければならない――私は一度としてメンシェヴィキであったことはない。私は、将来のメンシェヴィズムと、1904年の半ば以降に、すなわち、それが政治的傾向として形をとり始めメンシェヴィズムになりつつあったとき以降、組織的にも政治的にも分裂した。私は自由主義ブルジョアジーに対する態度の問題をめぐって、ヴェーラ・ザスーリチの論文にはじまり、アクセリロートがゼムストヴォの自由主義者を支持する構想を披瀝した論文等々を発表して以来、メンシェヴィキと関係を絶ったのだ。革命における諸階級の役割の問題において私はかつて一度もメンシェヴィズムと意見が一致したことはなかった。これは根本的問題であった。ヤロスラフスキー的連中は、この10年に関してのみならず、私が当時の社会民主党の2つの主要分派のいずれからも離れていたより遠い過去に関しても、党とインターナショナルを欺いている。

 1905年5月のボリシェヴィキ大会は武装蜂起と臨時政府の問題に関する決議を採択した。大会で同志クラーシンは一つの大きな修正案を提出した。それは事実上別個の決議であって、それはレーニンによって大会で大いに賞讃された15。この決議はまるまるペトログラードで私によって書かれ、クラーシンによって提出されたものである。私はこの点に関する証拠をもっている。大会の会議中にクラーシンによって私に宛てて書かれた覚書である。武装蜂起と臨時政府の問題に関するボリシェヴィキ党第1回大会の最も重要な決議は――議事録を見てみたまえ――私によって書かれた中心部分を含んでいたのだ。そして私はそれを誇りに思う。私の批判者たちはその財産目録中にこれに似たものを何か持っているか?

 1905年、バクーで地下ボリシェヴィキ印刷所によって出された多くのビラは私によって書かれたものである。1月9日の事件をめぐって農民に宛てたもの、ツァーリの農地法について論じたもの16、などがそれだ。1905年(17)の11月には、レーニンの指導下にあった『ノーヴァヤ・ジーズニ』はわが国の革命の性格に関する『ナチャーロ』紙の私の論文への同意を表明した。しかも私はそこでいわゆる永続革命の理論を展開していたのだ。

 オルジョニキッゼ それにもかかわらず、貴君は『ナチャーロ』とともにあったのであって、『ノーヴァヤ・ジーズニ』とではなかった。

 トロツキー しかし諸君はどうやら、当時レーニンを長とするボリシェヴィキ主導の<ロシア社会民主労働党>中央委員会がボリシェヴィキとメンシェヴィキとの統一に賛成する決議を満場一致で採択したことを忘れてしまったようだ。数週間後には『ナチャーロ』は『ノーヴァヤ・ジーズニ』に合流し、後者は一度ならず私の論文を大いに賞賛した。これは統一への傾向をもった時代であった。2ヵ月後には両新聞は合流し、その後再び分裂した。私はすでに監獄の中であった…。もちろん私はボリシェヴィキではなかった。これは議論の余地のないことである。だが、諸君は私の過去を偽って描写している。諸君は、私が1905年のソヴィエトにおいてボリシェヴィキたち(クヌニャンツ18、ネムツォフ19、クラシコフ20など)と手をとりあって活動した事実についてわざと沈黙している。意見の相違はなかった。レーニンは、ボリシェヴィキの外部にいる革命家とのどんなわずかな意見の相違にも激しい批判の砲火を浴びせ、いかなる中途半端さもどんな食い違いも容赦なく叩いたが、それは絶対に正しかった。だが諸君が後から私の誤りを取り上げ、それを現実の発展過程から切り離し、歪曲し誇張するとき、それは不誠実である。諸君は1906年にレーニンがボリシェヴィキの出版社「ノーヴァヤ・ヴォルナ」から、革命における農民に対するわれわれの態度を明確にした私のパンフレット『われわれの戦術』21を出版したという事実についてわざと沈黙している。諸君は、1907年のロンドン大会において、レーニンがブルジョアジーと農民に対する私の態度に好意的に言及したという事実を隠している22。ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトもボリシェヴィズムと意見が異なった問題が少なからずあったが、その意見の相違よりも大きな意見の相違が私とボリシェヴィキとのあいだに存在したことは一度もないと私は主張する。彼らがボリシェヴィズムと異質であったとあえて言うことができる者がいるだろうか。彼らがメンシェヴィキであったとあえて言うことができる者がいるだろうか。

 私は当時ボリシェヴィキではなかった。だが私は、たとえば英露委員会の維持に固執したり中国共産党を国民党に服従させるのごとき途方もない政治的誤りを組織問題で犯したことはけっしてなかった。これは組織問題における日和見主義であるというだけでなく、政策全体における日和見主義であり、私はそのような水準にまで落ちぶれたことは一度としてなかったし、レーニンから最も右側に離れていたときでさえそうだ。

 クリヴォフ ウィーンの政綱は?

 トロツキー 貴君は1912年の8月ブロックについて言っているのか?。

 クリヴォフ そうだ。

 トロツキー あれは調停主義の産物であった。私は当時ボリシェヴィキとメンシェヴィキとを統一させる可能性にまだ希望を失っていなかった。しかし、オルジョニキッゼやヤロスラフスキーなどは、彼ら自身が1917年に――1912年にではなくて、1917年に――メンシェヴィキとの合同組織に参加したということを忘れてはいけない。ウィーン協議会は調停主義の試みの一つであった。ボリシェヴィキに対抗してメンシェヴィキとブロックを形成することはまったく私の考えではなかった。私はなおボリシェヴィキとメンシェヴィキとを和解させる希望を抱いており、両者を統一させようとしていた。いつものことながら、レーニンはこのような人為的統一に向かって進むことを拒否した。調停主義的政策の結果として、私は形式上メンシェヴィキとブロックを組むことになった。だが私と彼らとの闘争はただちに、ほとんど翌日に始まった。そして戦争の勃発はわれわれを和解しえない敵対者とした。ところが、スターリンはこの時期、相当俗物的な調停主義者であったし、しかも最も先鋭な瞬間にそうであった。1911年、スターリンはレーニンとマルトフとの闘争に関して、それは「コップの中の嵐」であると書いた。これがボリシェヴィキ党の一員によって書かれたのだ。1917年3月、スターリンはツェレテリ23との統一に賛成であった。1926年には、スターリンはパーセル24、蒋介石および汪精衛25とのブロックに賛成であった。私の誤りはこれらの誤りに比べれば実に取るに足りないものである。1914年かち1917年までの、すなわち、大戦中の私の活動は、クーシネン26――この純然たる社会民主主義者――の軽々しい手によって、とくに当時愛国主義者であったかあるいはカウツキー主義者であった紳士たちによって無残に歪曲されている。指摘しておくが、戦争勃発直後、私は『戦争とインターナショナル』と題するパンフレットを書いたが、それについてジノヴィエフは――彼は当時、私に対して好意的でなかったし、好意的であるはずもなかったが――それは根本的な点で正しく問題を立てていると書いた。

 シクロフスキー それは1914年のことだ!

 トロツキー まったくその通り、それは1914年のことであった。このパンフレットはドイツ、オーストリア、スイスにおける極左翼の手中の武器となった。私は当時ボリシェヴィキではなかったとしても、革命的国際主義者であった。フランスにおいて、私は社会主義者およびサンディカリストの同志グループとともに活動した。彼らはその後コミンテルンに加入し、その創立者に列した。私は革命的国際主義者としてフランスから追放された。スペインからも革命的国際主義者として追放された。ニューヨークではヴォロダルスキー27やブハーリンらとともに『ノーヴィ・ミール』の編集局で働いた。当時、凡庸なメンシェヴィキであったメリニチャンスキー28のような「ボリシェヴィキ」は、後から私に対し偽りの告発を行ない、事実を偽造しているのである…。

 アムハーストのカナダ捕虜収容所において、私はリープクネヒトの信奉者であるドイツ水兵を組織したが、彼らは帰国後スパルタクス団の側に立って闘った。1917年2〜3月に、スターリンが『プラウダ』に半メンシェヴィキおよび半祖国防衛主義者として登場していた時、私が『ノーヴィ・ミール』紙上に書いた諸論文29は、なるほど当時のレーニンの諸論文とその深遠さの点で匹敵するものではないが――私は何もそんな評価は求めていない――レーニンの諸論文と同じ精神で書かれたものだった。

 オルジョニキッゼ 貴君に残された時間はあと4分だ、同志トロツキー。

 トロツキー 私は、わが革命の「衰退」に関して、諸君が持ち出した根本問題に対する回答にまだ至っていない。

 オルジョニキッゼ だったらなぜ自分の経歴についてそんなに長く論じたのか?

 トロツキー 告発されている人間には自己の経歴について語る権利があるし、このような場合に議長には制止する権限はないと私は考える。いずれにせよ、経歴の問題を最初に持ち出したのは私ではない。そんなことはまったく考えていなかった。そうでなくとも、問題は山積みなのだから。しかし、スターリン一派は、すべての政治問題を私の経歴問題にすりかえている。それゆえ、私は反駁しがたい事実でもって捏造に答えているのである。幹部会に対し、わが革命の運命の問題に答えるために15分間の延長をお願いしたい。

 オルジョニキッゼ 貴君が残る4分間を語ってから、時間延長の問題をとり上げよう。

 

   フランス革命とロシア革命

 トロツキー オルジョニキッゼはフランス大革命とのアナロジーを持ち出したことで私を非難した。監獄やギロチンや革命の衰退の展望、等々について語るべきではない、というわけだ。だが災いが言葉から起こるというのは迷信である。災いは事実から、行動から、誤った政策から起こるのだ。しかしながら、この問題そのものは私のイニシアチブで持ち出されたのでは全然ないということを言っておかなければならない。このことはきっぱりと言っておく。ソーリツは、私が彼の言葉を引用したとき、それに反駁しなかった。それゆえ、私はこの引用が確認されたものとみなした。ヴォロビヨフによれば、ソーリツは次のように述べた。「君は、ロベスピエールがダントンをギロチンに送ったとき彼のことを気の毒に思わなかったと考えているのか? 君はロベスピエールが誠実な革命家ではなかったとか、彼がただ革命の利益だけを考えていたのではなかったと考えているのか? だがロベスピエールもギロチンで処刑されて終わった。これが革命闘争の論理なのだ」。私はソーリツの言葉を引用した。それが私に革命の種々の段階の問題、その上昇と下降の波、それが一時的なのか最終的なのか、という問題を提出させる論拠を与えたのである。

 一時的なのか最終的なのか――ここに問題の核心がある。この問題に入る前に、私はすべての細胞において今やますますエスカレートする「結論」を引き出すための準備――まさしく貴君、同志オルジョニキッゼがかくも軽々しくまた官僚的に払いのけている分野、すなわち、追放と抑圧の分野でそうした準備がなされつつあることを述べておかなければならない。しかり、私は主張する、諸君は党内で、党に対して起こりつつあることに目を閉じて、あまりに軽々しく官僚的に振舞っている。すでにここで一人の同志がこう述べた――「どうしてこんなことになってしまったのか。こんな風にする必要はなかった」。これは、現在進んでいる現実の準備の反響である…。どの細胞でも、ウグラーノフやマンデリシュタムによって特別に訓練された報告者は、反対派の問題を、労働者が立ち上がって(たいてい命令によってだが)次のように言い出すような形で持ち出している――「どうして奴らのことにいつまでもかかずらあっているのか。そろそろ銃殺してしまう時期ではないか」と。すると報告者は偽善的にやんわりと反対する。「同志諸君、何も急ぐ必要はない」。これはすでに党内での日常茶飯事となっている。問題は常に反対派党員の背後で、遠まわしに、汚らしい暗示をもって持ち出される。反対派綱領や反対派党員の革命的経歴は俗悪で不誠実で純粋にスターリニスト的な形で歪曲され、まるで革命の敵として、党の敵として描き出される。これらすべては、欺かれた聴衆の中で、あるいは、諸君が人為的に党の隊列に詰め込んだ未熟な若い党員の中で、凶暴な反応を引き起こすためである。その上で諸君はこう言うのである――「見たまえ! われわれは我慢するつもりだが、大衆がそれを求めているのだ」と。これがスターリンの特有の戦略である。諸君自身が多かれ少なかれこうしたカンパニアの組織者である。そして、その後、その波が諸君に押し寄せるとき、諸君はこう言うだろう――「党がそれを求めている。もうどうすることもできない…」。

 同志オルジョニキッゼによって私に向けられた第2の非難は、政治的なものであり、より一般的な性格を持った非難である。彼は、フランス大革命との比較には私の「悲観主義」が示されていると述べている。トロツキーは革命が死んだと考えている、というわけだ。もし本当に私が革命は死んだと考えているならば、どうして諸君と闘わなければならないのか? この点で諸君はまったくつじつまが合っていない。もし私が、諸君の主張するように、社会主義の建設を信じていないとすれば、なぜ私は、これも諸君が主張するところでは「農民を収奪する」よう提案しているのか? もしかしたら農民に対する個人的憎悪からか? もし私が革命を信じていないとすれば、どうして闘争しているのか? 流れに沿って泳いだ方がいいではないか。この点を理解していただきたい。革命はもうすでに死んでいると考えている者は闘争に参加したりしないだろう。同志諸君、諸君はまたしてもつじつまが合っていない。

 10月革命は死んではいない。そんなことは考えたこともない。私が言ったのは、このままの方向で進んでいけば10月革命が滅びることもありうるということである。しかも諸君はすでにその方向へ向けて何ごとかを行なった。この問題についての貴君の全思考は、同志オルジョニキッゼ、弁証法的でなくて形式的である。貴君は生きた諸力の闘争の問題、党の問題を無視している。貴君の思考は隅々まで運命論に支配されている。貴君は楽観主義と悲観主義とを、あたかもそれが諸条件や政策から独立した2つの不変のカテゴリーであるかのごとく区別している。貴君によれば、人はただ「楽観主義者」かあるいは「悲観主義者」かのいずれかでしかない。すなわち、革命が完全に死んでしまったと考えているか、それともどんな条件のもとでも滅びないと考えるか(ちょうど今貴君がそう考えているように)、どちらかだというわけである。だがどちらも間違っている。革命はすでに数々の上昇と下降を経験したではないか? われわれは10月革命の時期に巨大な昂揚を経験したし、ブレスト講和の時期にはわれわれは危機一髪の状況にあったではないか? レーニンが左翼共産主義者との闘争のときに語ったことを思い出したまえ。すなわち、革命の時代において権力という自動車を制御することはきわめて困難である。なぜなら常に急力ーブを切ることを余儀なくされるからだと。ブレストは退却であった。クロンシュタット反乱の後、ネップは退却であった。そして退却の波のたびに日和見主義的気分が起こらなかったか? これらの退却の動きや革命の下降が1年、2年、3年と長びくとき、それが大衆の気分だけでなく党の気分のより深い沈滞を引き起こすことは明らかである。同志オルジョニキッゼ、貴君はカフカース人だから、山頂に通ずる道がまっすぐではなく、曲がりくねりジグザグで、しかもしばしばけわしい上りの後には、2、3ヴェルストも下り、その後で再び上りがきて、こうしたすべての道を通じて山頂に至るのだということを知っている。部分的な下降を行なっている時でも、道が再び上るだろうということを知っていなければならない。だがもし「楽観主義」のゆえに、これらの上下のジグザグをそもそも無視してしまうなら、四輪馬車は曲り角の一つで谷底へ転がり落ちるであろう。現在諸君の道は右に、下に通じていると私は言っている。危険は、諸君がこのことを見ようとしないこと、それに対して目を閉じていることにある。そして目を閉じて山に上ることは危険である。

 われわれは10年も上りつづけている。だがこの間にもブレストがあったし、クロンシュタットの反乱があったし、ネップへの移行があった。ネップへの移行は絶対に必要なものであったが、それはウストリャーロフ主義のような現象を生み出した。

 1923年の秋、われわれはドイツ革命の高揚と平行して、国内ですばらしい高揚の波を経験した。だがその敗北の後、わが国でも退潮が始まった。この退潮から、スターリンの一国社会主義論が、すなわちマルクス主義の原則と根本的に矛盾する衰退の理論が生まれた。1926年に中国革命が勃発し、わが国の国際状況の改善とともに、強力な上昇の波が起こった。その後、中国革命が上海の敗北をこうむった後、いっそう強い退潮がやってきた。歴史的運動の曲線をその全具体性においてとらえなければならない。1923年以来われわれは一連の大きな敗北を経験した。ただみじめな憶病者だけが意気消沈するだろう。だが、右足と左足を区別しない者、革命の前方と後方とを区別できない者は、盲目で愚かな官僚である。ドイツ革命の敗北後の1924年1月にブランドラーと討論した時、彼は私にこう言った――「1923年の秋に私はあなたと意見が一致しなかったが、それはあなたがあまりに楽観主義的だったからだ。しかし今ではあなたはあまりに悲観主義的であり、またしてもあなたと意見が一致しない」。私は答えた――「同志ブランドラー、どうやらあなたは革命家になれそうもない。なぜならばあなたは革命の前方とその反対側とを区別できないのだから」。

 同志オルジョニキッゼは、革命の勝利か敗北かという問題を、弁証法的過程からまったく独立に、すなわちわれわれの政策と客観的諸条件から完全に独立に扱っている。彼は次のように問題を立てる――革命の不可避的な勝利か、それともその不可避的敗北か、と。だが私はこう言う――もしわれわれがこれまで通り誤りを犯し続けるならば、革命を破滅させる可能性がある。しかしもしわれわれが誤った路線を是正するために全力を傾けるならば、勝利するだろう。だが、われわれが何をなそうとも――クラークに関しても、英露委員会に関しても、中国革命に関しても――革命に何の害も及ぼさないなどと主張すること、革命は「それでもやはり」勝利すると主張することは、ただ無関心で冷淡な官僚にしかできない。そして彼らこそがまさに、革命を滅ぼす連中なのである。

 わが国の革命はどの点でフランス革命と異なっているか?

 まず第1に、それぞれの時代の経済的および階級的土台が異なる。フランス革命において指導的役割を果たしたのは都市の小ブルジョア的下層であった。わが国ではプロレタリアートであった。まさにこのゆえにこそ、わが国ではブルジョア革命が社会主義革命に成長転化し、これほどまでに発展することができた。ただし、いまだ大きな障害と危険性が残ってはいるが。これが第1の相違点である。

 第2の相違点。フランスは封建的諸国に包囲されていた。つまり、フランス自身よりも経済的および文化的意味において後進的な諸国に包囲されていた。われわれは、技術的・生産力的にわれわれよりも先進的な資本主義諸国に包囲されており、その資本主義諸国にはより強力で文化的なプロレタリアートがいる。それゆえ、比較的近い将来にこれらの国々で革命が起こることを期待することができよう。つまり、わが国の革命の国際情勢は、帝国主義がわれわれに対して恐ろしく敵対的であるにもかかわらず、広い歴史的意味からすれば、18世紀末のフランスの場合よりもはるかに有利なのである。

 最後に第3の相違点。われわれは帝国主義の時代、最大級の国際的・国内的動乱の時代に生きている。そしてこれは、われわれの政策との基礎となっている大きな革命的上昇曲線をつくり出している。だがこの「曲線」がいかなる条件のもとでもわれわれを救ってくれるだろうと考えることはできない。それは間違っている! 数十年間にわたって資本主義がプロレタリアートを粉砕することに成功する場合でさえ、社会主義を建設しきることができると信ずる者は、何も理解していないのだ。これは楽観主義ではなくて国民的改良主義の愚劣さである。われわれはただ世界革命の不可欠の一部としてのみ勝利しうる。われわれは国際革命まで持ちこたえなければならない。たとえ国際革命が何年も先延ばしになったとしてもである。この点で、われわれの政策の方向性は決定的な重要性をもっている。正しい革命的路線はその数年間、自らを強化し、コミンテルンを強化し、社会主義の道に沿って前進し、こうして国際革命の偉大な歴史の曳き船がわれわれを牽引する地点へと至ることができるだろう。

 

   主要な危険性はどこにあるのか

 トロツキー 政治的退行、ウストリャーロフ主義への志向――これらは世界革命にブレーキをかけ、われわれを弱め、確実に滅亡への道を歩ませている。わが国の状況はいったいどうなっているか? 革命はすでに死んだのか? 私はけっしてそうは思わない。さもなくば、今こうして闘っている意味などない。しかし、この3年間、客観的な原因と誤った政策の結果として、革命の深刻な下降が見られたと私は考えている。客観的な原因についてよく知られている。1923年にブルジョアジーはドイツ労働者を打ち砕いたか? そうだ打ち砕いた。ここではすでにブルガリアとエストニアの敗北についても指摘された。中国革命は現時点で、帝国主義と協力した中国ブルジョアジーによって打ち砕かれたか? 打ち砕かれた。これらはすべて巨大な歴史的意義を持った事実である。これらはわが国に影響を及ぼしているか? 影響を及ぼしている。社会主義に向けたわれわれの発展は遅延しているか? 遅延している。わが国経済の危機――それはさまざまな鋏状格差に表現されている――は、労働者・農民の不満と革命的気分の下降のための基盤をつくり出しているか? つくり出している。諸君はわれわれの「パニック」について語っている。ナンセンスだ! 私は諸君に言う、諸君の官僚主義的盲目性はわが国を滅ぼしかねないと。このことについてはコミンテルンの執行委員会でも語った。官僚主義的盲目性こそ、あらゆる危険性の中で最も危険なものであると。「楽観主義」を気取っている官僚主義的盲目性はわれわれを滅ぼしかねない。私が現在の党内体制を最大の危険性だと言ったことに腹を立てた同志がいた。しかり、そのとおりだ。わが党の体制のうちには、目的と手段の不一致が、課題と方法との不一致が、すなわち内的な鋏状格差が存在する。だとすればそれらはわれわれを引き裂き、破滅させかねない。現在の党路線はどのように遂行されているか? 諸君の路線はまさに中国で最も鮮明かつ正確に遂行された。私は冒頭で今日の通信を読み上げたが、諸君はそれを党から隠さざるをえなかった。なぜなら、それは諸君の路線の誤りを暴露しているからである。

 オルジョニキッゼ 同志トロツキー、君がここで読んだということは、それが新聞に発表されたということだ。

 トロツキー もちろん、部分的には知らせざるをえないだろう。しかし、犯罪的なのは、基本的な事実が何週間も党から隠されていることである。しかし、他のより重要な状況も存在する。通信の中身そのものがそれである。それは、現在われわれが基本的な問題でまったく盲目であったことを物語っている。われわれは、パーセルに対する希望でもって国際プロレタリアートを「武装」し、蒋介石に対する期待でもって中国労働者を「武装」してきた。これが革命的政策だろうか? すでにコミンテルン執行委員会で述べたように、このような政策のもとでは、ゼネストや戦争の際の武装蜂起に関するおしゃべりに一文の値打ちもないことになろう。パーセルに希望を託す者、彼に希望を託しうる者は、いついかなる場合でもこのような路線〔ゼネストや武装蜂起〕をとろうとはしないだろう。イギリスの労働者は再びゼネストの道に立ちあがるだろうか? そのためには、彼らは資本や国家に反対して立ち上がるだけでなく、労働組合と労働党の全機構にも、その官僚どもの世論にも反対して立ち上がらなければならない。再びゼネストを展開するためには、この腐り果て買収された官僚どもに対する憎悪の念を抱かなければならない。だが諸君は何をしているのか? 諸君は一方では、国際革命を支援すると言い、他方ではパーセルと連帯し、彼は戦争の際の貴重な友人であると言いふらし、パーセルが労働者をだまし眠らせるのを助けている。このような政策でもってどうして労働者をゼネストや蜂起に立ち上がらせることができるというのか? 諸君は、こうした問題においてレーニンが教えたことのいっさいを忘れてしまったのか?

 私は言う、わが党の現在の路線にこそ主要な危険性があると。それは革命的抵抗力を窒息させ、右傾路線を強化している。右傾路線とは何か? 私は主張する、諸君は強い農民に期待を寄せ、農業労働者(バトラーク)と貧農には期待を寄せない。諸君は官僚と役人の方に進路をとり、大衆には進路を向けない。諸君はあまりに大きな信頼を機構に置いている。機構の中に巨大な内的で相互的な支えをもち、お互いに保険をかけあっている。それゆえ職員の数を減らすことさえうまくいっていないのである。大衆からの独立は、相互隠蔽のシステムをつくり出す。そしてこのすべてが権力の主要な支柱とみなされている。党内では今や書記に重心が置かれ、一般党員大衆には置かれない。これが現在の党体制である。上層と機構に重心が置かれ、下部の共産党員や一般大衆には置かれない。諸君は今やパーセルに期待を寄せ、パーセルに憤っているプロレタリア大衆には期待を寄せない。諸君は革命的炭坑夫をあてにせず、炭坑夫を裏切ったパーセルをあてにする。中国では、諸君は蒋介石と汪精衛に顔を向け、上海プロレタリアート、肩に大砲をかつぐクーリーや、反乱農民に顔を向けない。党内では現在、マルトゥイノフに頼り、ラフェス30、ペトロフスキー31、ステツキー32、マレツキー、シュメラル33、ペッパー34、クーシネンに頼っている。これらの連中は政治的な意味で腐っているか半分腐っている。困難な瞬間に彼らはわれわれを助けはしないだろう。

 諸君はわれわれを中央委員会から追放するという問題を日程にのせた。言うまでもなく、われわれはみな、どんなポストにあっても、一党員として己れの仕事を遂行するだろう。だがこれで問題が解決するわけではない。諸君はさらなる結論を引き出さなければならない。実生活そのものが、かかる結論を引き出すことを諸君に強制するだろう。おそらく、その前に立ち止まって、その路線を変更するべきであろう。われわれを追放することによって、諸君は党をいっそう右傾化させ、コミンテルンをいっそう右傾化させるだろう。諸君は、われわれを裏切っているパーセルの「支援」のためにわれわれを追放しようとしている。もし中央統制委員会の諸君がこのことを理解しようとしないのなら、その時には党の危機が緩和するどころか、その反対に、党路線の是正を果てしなく困難にするだろう。

1927年6月22日

『トロツキー・アルヒーフ』第3巻所収

完全版としては本邦初訳

  訳注

(1)ヒックス、ジョージ……1926年のイギリスでのゼネストのときの総評議会のメンバー。

(2)シトリン、ウォルター(1887-1983)……イギリスの労働組合指導者。1926年から46年までイギリスの労働組合会議の総書記。イギリス資本主義に対する貢献によって、1935年に騎士に叙せられ、1946年には准男爵に。

(3)馮玉祥(ひょう・ぎょくしょう/Feng Yu-xiang)(1880-1948)……中国の軍閥、政治家。河南省を拠点。キリスト教を信じ、「クリスチャン将軍」と呼ばれる。夫人は李徳全。1911年の辛亥革命に参加し、1924年の奉直戦争で直隷派を破り、国民軍を結成。ソ連および国民党と接近。1926年、国民党に入党。1926〜27年モスクワを訪問。北伐に参加。1930年、汪精衛、閻錫山とともに反蒋介石蜂起に立ち上がるが失敗。日中戦争中は連ソ・抗日を主張。

(4)ヴォロシーロフ、クリメント(1881-1969)……ロシアの革命家、古参ボリシェヴィキ、ソ連元帥。労働者出身。1903年からボリシェヴィキ。1905年革命にルガンスクで参加。ルガンスク・ソヴィエトの議長。1908〜17年、ボリシェヴィキの非合法活動家として国内で活動。内戦中はツァリーツィンで赤軍を指導し、軍事専門家排斥、ゲリラ戦重視のツァリーツィン・グループを組織。スターリンと組んで、軍事人民委員トロツキーと対立。1925年に軍事人民委員部に所属。1934〜40年、国防人民委員。1937年に赤軍の粛清を実行。1941年、レニングラードの前線で指揮し、レニングラード防衛に貢献。1943年、テヘラン巨頭会議に出席。最後までスターリンの盟友。1953〜60年、ソヴィエト最高幹部会議長。1960年以降、フルシチョフによって権力の中枢から遠ざけられる。

(5)ブジョンヌイ、セミョン(1883-1973)……ソ連の軍人、元帥。1903年に帝政ロシア軍に入隊。1917年に革命運動家となり、連隊兵士委員会議長。1919年にボリシェヴィキ入党。内戦では赤色騎兵隊を率いて活躍。1919〜23年、第一騎兵軍団長。1937年、モスクワ軍管区司令官。1940年、軍事人民委員代理。1939〜52年、党中央委員。

(6)唐生智(とうせいち/T'ang Sheng-chih)(1889-1970)……湖南の軍閥。1926年に国民党に加入し北伐に参加し、武漢を奪取。1927年4月のクーデター後に蒋介石と分裂して武漢の左翼国民党政府の軍最高司令官に。上海の共産党員労働者虐殺事件を隠蔽し、1927年7月に武漢で共産党を弾圧。その後、蒋介石に対する闘争を継続。

(7)譚平山(たんへいざん/T'an P'ing-shan)(1887-1956)……1920年に北京で共産主義グループに参加。1924年に国民党の創立大会で中央委員に選出。1926年まで同党組織部の長。武漢の左派国民党政府で共産党の農業大臣になり、農民の土地獲得運動を弾圧。1927年8月に南昌(ナンチャン)(江西省の一部)の共産党政府の長に。8月7日の臨時党大会で革命失敗のスケープゴートとして除名。

(8)ソーリツ、アロン・アレクサンドルヴィチ(1872-1945)……古参ボリシェヴィキ、スターリニスト。1898年からロシア社会民主労働党に参加。地下印刷関係の仕事に従事。何度も投獄され流刑にされるが、そのたびに脱出。1918年、左翼共産主義派に属し、ブレスト講和に反対。1920年から中央統制委員会メンバー。1923〜34年、中央統制委員会幹部会メンバー。

(9)ウリヤーノヴァ、アンナ・イリイチナ(1864-1935)……レーニンの姉、古参ボリシェヴィキ。1886年から革命運動に従事。1898年からロシア社会民主労働党員。革命後は『プラウダ』編集部の書記。

10)ロイゼンマン、ヴェ・ア……1924年から党中央統制委員会幹部会員。

11)ミャスニコフ、ガヴリール(1889-1946)……1906年以来の古参ボリシェヴィキ。1920年には労働者反対派のメンバー。党内民主主義を求める小冊子を非合法に配布したかどで1922年に除名。1923年、非合法の反対派団体「労働者グループ」を組織。1923年夏にストライキを組織しようとして、逮捕され、バクーに流刑。後にペルシャに亡命し、パリに移住。1929年、亡命中のトロツキーに接近をはかるが、立場が違いすぎて失敗。第2次世界大戦後、ソ連に帰還するも、逮捕され銃殺。

12)このメモ用紙は、1991年にロシアで出版された『レーニンの知られざる文書』(ロスパン社、モスクワ)の中に収録されている。

13)マレツキー、ドミトリー・ペトロヴィチ(1901-1937)……赤色教授養成学院卒。歴史家、経済学者。「ブハーリン派」で最も優秀な人物の一人。1936年11月に逮捕され、1937年5月に銃殺。1958年に名誉回復。

14)外国貿易の独占問題に関するレーニンの一連の手紙は、1922年12月12日から12月21日まで数回にわたって書かれており、グルジア問題に関する手紙は1923年3月5日と6日に書かれている。

15)レーニンは1905年5月19日の演説で次のように述べている――「大体において私は同志ジーミン〔クラーシンのこと〕と同意見である。文筆家として、私が問題の文筆上の立て方に注意を払ったのは当然である。闘争目標の重要性を同志ジーミンは非常に正しく指摘しており、私は完全に彼に同意する。闘争目標である地点の占領を予定せずに闘争することはできない。第2項への同志ジーミンの修正提案『……実現は……臨時政府であり、これのみが……』云々はまったく適切であり、私は喜んでそれを受け入れる。第3項に対する修正提案も同様である。現在の社会・経済的諸条件のもとではブルジョアジーは必然的に強化するであろうと指摘することは、ここでは非常に当を得ている。決定部分の(イ)項では『プロレタリアートは要求するであろう』という表現は、私の定式よりすぐれている。なぜなら重心がプロレタリアートに移されるからである。(ロ)項で、力関係によっては、と指摘するのはまったく当を得ている」(レーニン「臨時革命政府に関する決議に対する修正提案についての演説」、邦訳『レーニン全集』第8巻、大月書店、401頁)。

16)トロツキー「農民たち、われわれの言葉を諸君に!」、同「新たなツァーリのご慈悲」(『わが第一革命』、現代思潮社)のこと。

17)『トロツキー・アルヒーフ』(テラ社)の原文では「1906年」になっているが、明らかに「1905年」の間違いである。

18)クヌニャンツ、ペ・エム(1878-1911)……アルメニア出身のボリシェヴィキで1905年革命のさい、トロツキーとともにソヴィエトで活動し、ともに逮捕され、とートロツキーと同じくシベリアへの終身流刑となるが、1907年に脱走。1910年に再び逮捕され、獄死。

19)ネムツォフ、ニコライ(マカール)……金属労働者出身のボリシェヴィキ。1905年革命の際、労働者代表ソヴィエトのヴィボルク地区代表で中央執行委員。逮捕されシベリアに流刑。

20)クラシコフ、ピョートル・アナニエヴィチ(1870-1939)……古参ボリシェヴィキ。1892年から社会民主主義運動に従事。『イスクラ』の受任者。1905年革命当時はペテルブルク・ソヴィエト執行委員。1918年から司法人民委員代理。

21)トロツキー「憲法制定議会のための闘争におけるわれわれの戦術」のこと。前掲『わが第一革命』に所収。

22)レーニンは1907年5月14日の発言で次のように述べている――「トロツキーについて一言しよう。私には、ここで、われわれと彼との意見の相違を立ち入って論じる暇がない。ただ、トロツキーがその『党の擁護のために』という小さな著書の中で、ロシアの現在の革命におけるプロレタリアートと農民の利害が経済的に共通していると書いたカウツキーと自分の意見が一致していることを紙上で表明したことだけを指摘しておこう。トロツキーは、自由主義ブルジョアジーに反対する左翼ブロックを、容認できる、目的にかなったものと認めていた。トロツキーがわれわれの見解に接近したことを確認するためには、これらの事実だけで私には十分である。『永続革命』の問題には関わりなく、ここには、ブルジョア政党に対する態度の問題の基本点で意見の一致があるのである」(レーニン「ブルジョア政党に対する態度についての報告の結語」、邦訳『レーニン全集』第12巻、481頁)。また、翌日には次のように発言している。「トロツキーの修正はメンシェヴィキ的なものではなく、それは『同じ』思想、すなわちボリシェヴィキの思想を表現している、ということに同意しないわけにはいかない」(レーニン「大会で採択されたブルジョア政党に対する態度についてのボリシェヴィキの決議へのトロツキーの修正提案に対する反論」、同前、491頁)。

23)ツェレテリ、イラクリー(1881-1959)……ロシアの革命家、メンシェヴィキの指導者。第2国会の議員。1912年に流刑。1917年2月革命後、流刑地から戻ってきてペトログラード・ソヴィエト議長。5月に、郵便・電信相として第1次臨時政府に入閣。6月、第1回全ロシア・ソヴィエト大会で中央執行委員会議長に。7月事件後、第1次臨時政府の内相に就任。1918年にグルジアのメンシェヴィキ政府の首班。1921年に亡命。

24)パーセル、アルバート(1872-1935)……イギリスの労働組合活動家で、イギリス総評議会の指導者。英露委員会の中心的人物。1926年に起こったゼネストを裏切る。

25)汪精衛(おう・せいえい/Wang Ching-wei)(1884-1944)……本名は汪兆銘。中国の国民党左派指導者。武漢()政府の首班。コミンテルンは、蒋介石の1927年4月のクーデター後、この武漢政府をたよりにしたが、汪精衛はこのクーデターからわずか6週間後に労働者弾圧を開始した。1929年から31年まで反蒋運動に従事。対日妥協政策を主張し、抗戦派と対立。1940年、日本の傀儡政権を南京に樹立し、その主席となる。日本の名古屋で病死。

26)クーシネン、オットー(1881-1964)……フィンランドの共産主義者で、1918年のフィンランド革命の敗北後、モスクワに亡命。その後、コミンテルン内でスターリンの代弁者となる。1922〜31年、コミンテルンの書記。

27)ヴォロダルスキー、モイセイ・マルコヴィチ(1891-1918)……ロシアのユダヤ人革命家。若い頃から革命運動に従事し、1905年からロシア社会民主労働党員(最初はブントでのちにメンシェヴィキ)。1911年に流刑、1913年にアメリカに亡命し、第1次世界大戦中は国際主義者として、ブハーリンとともに『ノーヴィ・ミール』で活動。1917年にメジライオンツィ派としてボリシェヴィキに入党。党のペトログラード委員会およびペトログラード・ソヴィエトの幹部会のメンバー。10月革命に積極的に参加。革命後は、出版宣伝煽動人民委員。1918年6月20日にエスエル党員によって暗殺。

28)メリニチャンスキー、グリゴリー・ナタノヴィチ(1886-1937)……1902年にロシア社会民主労働党に入党(ボリシェヴィキ)。何度か逮捕され、1910年末にアメリカ合衆国に亡命。1917年3月にトロツキーらとともに革命のロシアに向かってアメリカ合衆国を出発するが、途中の海上でイギリス軍によって拘束される。ロシアに帰還後は労働組合分野で活動。1918〜21年、全ロ労働組合中央委員会の幹部会員、およびプロフィンテルンの幹部会員。1925〜30年、ロシア共産党中央委員候補。1929〜31年、最高国民経済会議(ヴェセンハ)の幹部会員。1931〜34年、ゴスプランで活動。1937年に逮捕され銃殺。死後名誉回復。

29)この時の諸論文は『トロツキー研究』第5号に掲載。革命の始まり」「2つの顔」「発展する衝突 」「戦争か平和か」「誰からどのように革命を防衛するのか」など。

30)ラフェス、M(1883-1942)……ロシアのブント活動家。1917〜18年にウクライナのペトリューラ反革命政府に参加し、反ソヴィエト活動に従事。1919年にボリシェヴィキに入党し、コミンテルンで活動。1920年代、中国共産党の指導に参加。

31)ペトロフスキー、グリゴリー・イワノヴィチ(1878-1958)……古参ボリシェヴィキ。1897年から「労働者階級解放同盟」に参加。1912年に第4国会議員に選出され、ボリシェヴィキ議員団の一員。同年、中央委員会に補充。1918年、ソヴィエト側の講和代表団の一人。1919〜1938年、全ウクライナ中央執行委員会議長。1921年から党中央委員、1922年から、中央統制委員。1926年に政治局員候補。

32)ステツキー、アレクセイ・イワノヴィチ(1896-1938)……ブハーリニスト。1915年からボリシェヴィキ。レーニン死後、ブハーリンの緊密な協力者となり、ステンらとともにブハーリン学派の若手理論家の一人となる。1924〜27年、中央統制委員。1925年から『コムソモール・プラウダ』の編集長。1927年に党中央委員。ブハーリンの失脚後にスターリニストに。1938年に逮捕され、銃殺。1956年に名誉回復。

33)シュメラル、ボフミール(1880-1941)……チェコスロバキアの共産党指導者。1897年にチェコスロヴァキア社会民主党に入党。1904年に党中央委員。1911年に国会議員。第1次大戦中、最初は愛国派で、後に反戦派。1914〜17年、チェコスロバキア社会民主党の議長。1921年、チェコスロバキア共産党を創設し、その議長に。1922年、第4回コミンテルン世界大会に参加。その後ロシアに滞在し、コミンテルンの仕事に従事。ロシア党内での分派闘争においてスターリン派を忠実に支持。1935年にチェコに戻り、上院議員に。1938年にソ連に再移住。そこで死亡。

34)ペッパー、ジョン(1886-1937)……本名はヨゼフ・ポガニ。ハンガリーの共産主義者。1919年にベラ・クンのソヴィエト・ハンガリー政府の一員。政権崩壊後、ソ連に亡命。コミンテルンの活動に従事。その後、コミンテルンの代表者としてアメリカにわたって、アメリカ共産党の指導者に。後にモスクワに戻り、反トロツキー闘争に従事。 

 

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1920年代後期