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モスクワ中継監獄と最初の著作

トロツキーの最初の著作『オデッサとニコラーエフの労働運動』

(トロツキーがモスクワの中継監獄で執筆した。1900年にジュネーブで出版)

 「2年目の終わりになって、われわれは、南部ロシア労働者同盟事件の判決を受けた。主犯格の4名の被告は東シベリアへの4年間の流刑を宣告された。それからさらに半年、モスクワの中継監獄で過ごさなければならなかった。それは理論活動に励む日々であった。レーニンのことを初めて耳にしたのも、ロシア資本主義の発展に関する彼の刊行されたばかりの著作を研究したのも、この中継監獄でだった。また、私がニコラーエフの労働運動に関する小冊子を執筆して獄外に流したのも、そこだった。その小冊子は後にジュネーブで出版された。夏になってから、われわれはモスクワの中継監獄から出された。だがさらにいくつかの監獄で足止めをくい、流刑地にたどりついたのはようやく1900年の秋になってからのことである。」(『わが生涯』第8章「最初の監獄」より)

 「[流刑地に移送されるまでの]時間が長引き、何ヶ月も過ぎた。われわれが入れられていた棟はしだいに新しい囚人によっていっぱいになっていった。彼らは本来われわれの党を補充するべき人々であったが、党はそうするにはあまりにも力不足だった。

 囚人の構成はいまやきわめて雑多なものになった。一般房の状態はますます困難でうんざりさせるものとなり、それはわれわれの神経にも有害な影響を及ぼしはじめた。第一陣の囚人グループであるわれわれは、一般房のない別の棟に移すよう監獄所長に要請した。われわれは、その棟では形式的に独房になっているだけで(各房は一本の共通の廊下で接していた)、看守による監視もゆるく、そのため、一般房のあらゆる不都合さから解放されつつ、独房と一般房の両方の利点をともに享受できることを知っていた。所長は、独房に入れられるのは何らかの罪を犯した囚人だけであって、われわれのうちの誰も監獄内で罪を犯していないので入れるわけにはいかないと拒否してきた。だが、まもなくして、まったく思いがけないことに、罪を犯す絶好の機会がやってきた。そして、われわれがみな満足したことに、めでたく独房のある棟に移されることになったのである。

 それは次のような顛末であった。

 ある日のこと、ブロンシュテインと私とその他数人が房内で座っていたとき、われわれの同志が房内に息せき切って入ってきた。彼の話では、たまたま棟の入り口付近にいたイリヤ・ソコロフスキーおよびその他1、2名のものが、監獄所長がそこに姿を現わしたときに帽子をとらなかったとして、独房送りにされたというのである。そこにいた誰もが一瞬狼狽した。ただちに何らかの手を打たなけばならなかった。ブロンシュテインはすぐに事態を把握した。棟内部の単調な生活を考えれば、今回の事件と今後起こるであろう監獄所長との衝突は、大事件であった。ブロンシュテインはたちまち戦闘モードに入った。手短に打ち合わせをして、次のような行動をとることを決定した。われわれ全員が帽子をかぶったまま棟の入り口に出て行き、看守に警報を鳴らして所長を呼ぶよう要求すること。もちろん、所長が出てきても、みんなは帽子をかぶったままでいること。それから先は状況しだいで決めることにした。

 しかし看守は狼狽し、警報を鳴らすことを拒否した。われわれは看守を取り囲んだ。一番前に立っていたブロンシュテインは、時計を取り出し、それを自分の前に持ってくると、おごそかな調子で言った、『2分だけ考える時間をやろう』。タイムリミットが過ぎると、ブロンシュテインは無抵抗の看守を押しのけ、堂々とした態度で警報ボタンを押した。それからわれわれは帽子をかぶったまま、中庭へ出た。しばらくすると小門の鉄製の錠前ががちゃがちゃと鳴って、おびただしい数の武装看守を引き連れた所長が勢いよく門をあけ、中庭へ駆け込んできた。

 『どうしておまえは帽子をとらないんだ』、所長は、一番前に立って最も挑戦的な態度をとっているように見えたブロンシュテインに向かってどなり散らした。『そういうお前はどうして帽子をとらないんだ』、彼は毅然として言い返した。

 『こいつを独房に放り込め!』

 数人の屈強な看守がブロンシュテインをひっつかむと、彼を独房へ引きずっていった。所長は同じように叫んで、残りの者たちにも同じ処置を下した。」(G・A・ジフ『トロツキー』第4章「中継監獄と流刑地」より)

 

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