トロツキー写真館

  

ソコロフスカヤとの結婚とシベリア流刑

流刑仲間といっしょに写るトロツキーと最初の妻ソコロフスカヤ

(前列の右端がソコロフスカヤ、左斜め後がトロツキー、1900年)

 「私たちはレナ河を下った。河の流れは、囚人と護送兵を乗せた艀(はしけ)をゆっくりと運んでいった。夜は冷え込み、明け方には、私たちの着ていた外套は霜でおおわれた。途中、あらかじめ指定されていた流刑先の村々に着くと、囚人の1人ないし2人がそれぞれ降りていった。たしかウスチ・クートの村まで約3週間の船旅だったと記憶している。この村で私は、ニコラーエフ事件で親しくなった女性流刑囚といっしょに降ろされた。彼女、アレクサンドラ・リヴォーヴナは、南部ロシア労働者同盟における第一人者の1人であり、社会主義への深い献身と完全なる無私の姿勢とは、争う余地のない道徳的権威を彼女に与えていた。共通の仕事が私たちを密接に結びつけた。流刑地が離れ離れにならないよう、私たちはモスクワの中継監獄で結婚した。」(『わが生涯』第9章「最初の流刑」より)

 「オデッサですでに、流刑地への移送のはるか以前に、婚約者のいる者はみな、結婚許可書を手に入れて結婚しようと急いでいた。婚約者のいない者も、別々の流刑地に送られて完全な孤独をかこつのを避けるために、偽装結婚をした。

 ブロンシュテインとA・ソコロフスカヤは、この問題に関してブロンシュテインの父親という思わぬ障害にぶちあたった。リョーヴァは未成年であったため、結婚許可書を手にいれるためには父親の同意が必要であった。だが父親は断固としてこの結婚に反対した(ソコロフスカヤは少なくともブロンシュテインよりも10歳は年上だった)。リョーヴァは怒り狂い、最大限のエネルギーと粘り強さを発揮して闘い、彼になしうるあらゆる手段を用いた。しかし、父親も負けず劣らず頑固であり、しかも塀の外にいるという優位性を持っていたため、常に彼が勝者であった。

 モスクワに移送されるやいなや、ブロンシュテインはただちに結婚の許可を求めて努力を再開し、ついに成功を収めた。この闘争はしばらくの間、はけ口を求めていた彼のエネルギーに糧を与えた。生活は、さまざまな興味深い事柄で(監獄内で可能なかぎりでのことだが)彩られながらたちまち過ぎ去った。それはオデッサと比べて非常に多様であった。男の囚人は、1週間に2度、夫ないし兄弟ないし従兄弟などとして女性と面会することができた。面会は全員いっせいに同じ場所で行なわれた。時間には厳格な制限がなく、監視も非常にゆるかったため、この面会は、固い友情と思想の共通性によって結ばれた近しい者たちによるちょっとした親密な交流の場となった。

 女性の方は知らないが、男たちはこの面会に向けて非常に細心の準備をした。中でも最も細心の注意を払ったのはブロンシュテインだった。彼は面会において、婚約者で後の妻であるA・ソコロフスカヤに対してだけでなく、夫や兄弟などとの面会にやってきたご婦人がたに対しても、感動的なまでの優しさを発揮し、彼女たちはみなその騎士的態度に魅了された。ご婦人たちがわれわれに、繕いのために下着を出すよう言ってきたとき、ブロンシュテインは、それは不快な仕事を女たちに押しつける古臭い偏見だとして憤然と拒否し、自分で下着を繕った。」(G・A・ジフ『トロツキー』第4章「中継監獄と流刑地」より)

 

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