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レーニンとマルトフ

レーニンと「労働者階級解放闘争同盟」のメンバー(1897年)

(前列左から、スタリコフ、クルジジャノフスキー、レーニン、マルトフ)

 「『イスクラ』の政治的指導者はレーニンであり、新聞の主要な論説家はマルトフであった。彼は、まるで話すようにすらすらと際限なく書きまくった。当時レーニンはマルトフの最も近しい盟友だったが、レーニンのそばにいるときマルトフはすでに居心地の悪さを感じていた。彼らはまだ『俺、お前』と呼びあう仲だったが、明らかに、両者の間にはすでに冷ややかなものが流れていた。マルトフはレーニンよりもはるかに、今日という日の中で生きていた。時事問題や日々の著述活動、政論、ニュース、会談の中で生きていた。レーニンは、今日の問題に取り組みながらも、明日という日に思いを馳せていた。マルトフの頭には無数の――そしてしばしば機知に富んだ――洞察、仮説、提案がつまっていたが、しばらくすると彼自身そのことを忘れてしまうことも珍しくなかった。それに対してレーニンは、自分に必要なことを、必要なときに捉えた。マルトフの思想は繊細であったが、どこか脆いところがあり、そのためレーニンは一度ならず不安げに頭を振ることになる。政治路線の相違は当時まだ決定的なものになっていなかっただけでなく、表面化すらしていなかった。後に、第2回党大会での分裂の際、『イスクラ』派は『硬派』と『軟派』に分かれた。この呼び名は最初の頃、周知のように大いに流布した。それは、両派を分かつ明確な路線上の分岐線はまだなかったが、問題へのアプローチの仕方、断固たる姿勢、最後までやり通す覚悟といった点で両者に違いがあることを示していた。

 レーニンとマルトフに関しては、分裂前でも、また大会前でも、レーニンは『硬派』であり、マルトフは『軟派』であった、と言うことができる。2人ともこのことを承知していた。レーニンはマルトフのことを高く評価していたが、批判的で少し疑わしげな目でマルトフの方をちらっと見ることがあった。マルトフはこうしたレーニンの視線を感じると、気にして神経質そうに痩せた肩をひきつらせるのであった。2人は直接会って話をするときも、もはや友達のような口調で話したり冗談を言ったりするようなことはなかった。少なくとも私の前ではそうだった。レーニンは話しながらマルトフの顔を正面から見ようとしなかったし、マルトフは、きれいに磨かれたためしのない少しずり落ちた鼻眼鏡の奥で生気のない無表情な目をしていた。レーニンがマルトフのことについて私に話すときも、そのイントネーションには独特のニュアンスがあった。

 『なんだって、そうユーリー[マルトフ]が言ったのか』。そんな時、ユーリーという名前は独特な響きで、すなわち、少し強調気味に、まるで警戒するような調子で発音された。『非常に立派な人間だよ。まったく。非凡な人物だと言ってもいい。だけど、何とも温厚すぎるね』。

 さらに、マルトフは明らかにヴェーラ・イワノヴナ・ザスーリチの影響も受けていて、このことは、政治的というよりもむしろ心理的にマルトフをレーニンから遠ざける要因になっていた。」(『わが生涯』第12章「党大会と分裂」より)

ユーリー・マルトフ

晩年のマルトフ

 「メンシェヴィキの指導者マルトフは、革命運動における最も悲劇的な人物の1人である。才能豊かな著述家であり、機知に富んだ政治家であり、慧眼な知性の持ち主であったマルトフは、彼が指揮していた思想潮流よりもはるかに優れていた。しかし、彼の思想は勇気を欠き、彼の洞察力には意志が不足していた。回転の早い頭脳はその代わりとはならなかった。事件に対する彼の最初の反応はいつでも革命的志向を示すものだった。しかし、意志のバネで支えられていない彼の思想はすぐに下に沈んでしまう。私と彼との親しい関係は、迫りくる革命の最初の大事件という試練には堪えられなかった。」(『わが生涯』第12章「党大会と分裂」より)

 

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