トロツキー写真館

  

シベリア流刑時代の革命家たち

フェリックス・ジェルジンスキー(1877-1926)

(ポーランドの革命家、10月革命後にチェカ長官として恐れられる。写真は、トロツキーと出会ったころのジェルジンスキー)

モイセイ・ウリツキー(1873-1918)

(戦争と革命の日々にトロツキー派として活躍。1918年に左翼エスエルの凶弾に斃れる)

 「レナ河の大流域において私がこのころに知り合いになった人々の中には、将来巨大な役割を果たすことになる、ジェルジンスキーやウリツキーなどの若い革命家がいた。われわれはいつも、新しい流刑囚の一団が来るのを今か今かと待ち焦がれた。春の闇夜に浮かぶ焚火の明かり、とうとうと流れる広大なレナ河のほとりで、ジェルジンスキーは自作の詩をポーランド語で読んだ。その表情も声もすばらしかったが、詩は貧弱だった。だが、この人物の人生そのものが、どんな詩よりも苛烈なものとなるのである。」(『わが生涯』第9章「最初の流刑」より)

若き日のヤン・マハイスキ(1866-1926)

(マハイスキ主義の創始者として著名なポーランド出身のアナキスト)

(マハイスキの葬式の際の遺体写真)

 「同じ時期に、われわれは左からの批判にも直面した。もっと北方の居留地の一つ――たぶんヴィリュイスク――に、マハイスキという流刑囚が住んでいたが、その名前はやがてかなり広く知られるようになった。マハイスキは、社会民主党の日和見主義に対する批判から始めた。こんにゃく版で印刷された彼の最初の論文は、ドイツ社会民主党の日和見主義を暴露することに向けられ、流刑囚の居留地で大いに好評を博した。第2論文は、マルクスの経済学体系の批判を主題としており、社会主義は職業的インテリゲンツィアによる労働者の搾取にもとづいた社会体制であるという思いがけない結論を引き出していた。第3論文は、アナルコ・サンディカリズムの精神にのっとって政治闘争の否定を唱えていた。何ヵ月もの間、マハイスキの論文は、レナ河流域の流刑囚の間で注目の的であった。それは私にとって、アナーキズムに対する強力な予防接種としての役割を果たした。それは、口先で否定するときにはひどく大胆だが、実践的な結論を下す段になると生気がなく、臆病でさえあった。」(『わが生涯』第9章「最初の流刑」より)

 

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