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ウィーン協議会と8月ブロック

ウィーン協議会の「通報」

(ボリシェヴィキのプラハ協議会に対抗してボリシェヴィキ派などを除く諸派が合同して1912年8月にウィーンで合同協議会が開催された。トロツキーがこの協議会の中心人物であり、このとき形成された解党派とトロツキー派とボリシェヴィキ異論派とのブロックは「8月ブロック」と呼ばれた)

 「他方、メンシェヴィキのその後の運命と党の組織的課題の評価に関しては、ウィーン『プラウダ』はレーニンの明晰さからはほど遠かった。私はなお、新しい革命が、1905年と同様、メンシェヴィキを革命の道へと押しやるだろうと期待していた。私は、準備的なイデオロギー的淘汰作業と政治的訓練の意義を十分評価していなかった。党の内部発展の問題に関しては、私は一種の社会革命的運命論に陥っていた。これは誤った立場であった。しかし、それは、現在コミンテルンの陣営で私を批判している大多数の連中の顕著な特徴となっている無定見な官僚主義的運命論に比べればはるかにましである。

 新しい政治的高揚が疑いの余地なくはっきりしていた1912年、私は、社会民主労働党のすべての分派の代表者からなる統一協議会を召集しようとした。……

 この時期、ボリシェヴィキ自身の間でも調停主義的傾向は非常に強力であり、私は、この事情がレーニンをも合同協議会への参加を受け入れる方向に押しやるのではないかという希望を捨ててはいなかった。しかしながら、レーニンは統一の試みに全力を挙げて反対した。その後における事態の歩みのすべてが示しているように、レーニンは正しかった。ウィーン協議会は、1912年8月にボリシェヴィキ抜きで開催された。私は公式的には、メンシェヴィキとボリシェヴィキ異論派の種々のグループとの「ブロック」の中にいた。このブロックに政治的基盤はなく、あらゆる基本問題で私はメンシェヴィキと意見を異にした。彼らとの闘争が早くも協議会の翌日には再燃した。社会革命的傾向と民主主義的改良主義という2つの傾向間の深刻な対立から、毎日のように先鋭な衝突が生起した。……

 8月ブロックのエピソードは、エピゴーネンの時代において、ありとあらゆる『反トロツキズム』の教科書に収められている。そこでは、新参者と無知な者向けに、あたかもボリシェヴィズムが準備万端整えた姿で歴史の実験室から飛び出してきたかのように、過去が描かれている。しかしながら、ボリシェヴィキとメンシェヴィキとの闘争の歴史は同時に、統一の絶え間ない試みの歴史でもあった。1917年にロシアに帰還したレーニンは、メンシェヴィキ国際主義派と交渉する最後の試みを行なっている。私が5月にアメリカから戻ってきたとき、社会民主労働党の地方組織の大多数は統一したボリシェヴィキとメンシェヴィキによって構成されていた。レーニンが帰還する数日前に開かれた1917年3月の党会議において、スターリンはツェレテリの党との統一を主張した。10月革命の後になってもまだジノヴィエフ、カーメネフ、ルイコフ、ルナチャルスキーをはじめとする十数名のボリシェヴィキは、エスエルおよびメンシェヴィキとの連立のために激しい闘いを繰り広げた。これらの人々もまた、今では、1912年のウィーン統一協議会に関するおどろおどろしいお伽話によって己れの思想的実存を支えているのだ!」(『わが生涯』第17章「新しい革命の準備」より)

 

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