第6章 10月革命をめぐって
臨時党大会の必要性は結局なかった。レーニンの行使した圧力は、中央委員会の内部でも予備議会の会派の内部でも、左への必要な転換を保障した。10月10日、ボリシェヴィキは予備議会から脱退した。ペトログラードでは、ボリシェヴィキに感化された守備隊を前線へ移動させるという問題をめぐって、ソヴィエトと政府とのあいだで衝突が起こっていた。10月16日、ソヴィエトの合法的な蜂起機関である軍事革命委員会が創設された。党の右派は事態の発展を妨害しようとした。党内の諸潮流間の闘争も、国内の階級闘争も、決定的局面に突入した。右派の立場を最も完全かつ原則的な形で表現したのは、ジノヴィエフ
[左の写真]とカーメネフによって署名された「現情勢によせて」と題する書簡である。この手紙は10月11日、すなわち反乱の2週間前に書かれ、一連の重要党組織に送られた。この手紙は、中央委員会によって採択された武装蜂起の決議に断固として反対するために出されたものである。敵を過小評価することに警告を発しながら、実際には革命の力を途方もなく過小評価し、大衆の戦闘的気分さえ否定しながら(10月25日の2週間前にだ!)、この手紙はこう述べている。「われわれは深く確信するが、いま武装蜂起を宣言することは、わが党の運命のみならず、ロシア革命および国際革命の運命をも一枚のカードに賭けることである」(1)。だが、蜂起と権力奪取でないとしたら、何をやるべきだというのか? 手紙はきわめて明確にこう答えている。「軍隊を通じて、労働者を通じて、われわれはブルジョアジーのこめかみにピストルを突きつけている」(2)。そしてこのピストルのゆえにブルジョアジーは憲法制定議会を阻止することができない。「憲法制定議会選挙でのわが党の勝算はきわめて高い。……ボリシェヴィキの影響力は増大しつつある。……正しい戦術をもってすれば憲法制定議会において3分の1、いやそれ以上の議席を獲得することができるだろう」(3)。
こうして、この手紙はブルジョア的憲法制定議会における「有力」野党の役割を果たす方向へと進路をとっている。この純粋に社会民主主義的な路線は次のような考慮でカムフラージュされている。
「実生活に深く根を下ろしたソヴィエトを根絶することは不可能である。……憲法制定議会でさえ、その革命的活動においてはソヴィエトに依拠することしかできない。憲法制定議会とソヴィエト――これこそ、われわれのめざす複合型の国家制度である」(4)。
ソヴィエトと憲法制定議会とを結合した「複合的」国家形態という理論が、その1年半〜2年後にドイツで、同じくプロレタリアートによる権力獲得に反対闘争を行なったルドルフ・ヒルファーディングによって繰り返えされたということは、右派の路線全体を特徴づけるうえで非常に興味深いものがある。オーストリアとドイツの日和見主義者たちは、ヒルファーディングが剽窃していることを知らなかったのである。
「現情勢によせて」という手紙は、ロシア人民の多数派がすでにわれわれを支持しているという主張に反対したが、その際、多数派というものを純議会主義的に解釈していた。手紙はいう。
「ロシアにおいては労働者の多数派はわれわれを支持している。そして兵士のかなりの部分もまたそうである。その他いっさいは疑わしい。たとえば、われわれはみな確信しているが、憲法制定議会選挙が行なわれた場合、農民の大多数はエスエルに投票するだろう。だがそれは偶然だろうか?」(5)。
このような問題の立て方は基本的かつ根本的に誤っている。それは、農民には強力な革命的利害関心があるし、それを実現しようとする強い願望もあるが、独立した政治的立場をとりえないということを理解しないことから生じている。農民はエスエルという代理人を通じてブルジョアジーに投票するか、実践においてプロレタリアートを支持することしかできない。この二つの可能性のいずれが実現するかは、まさにわれわれの政策にかかっていたのである。もしわれわれが憲法制定議会内の有力野党(「3分の1、いやそれ以上」の野党)になるために予備議会におもむくなら、われわれはほとんど自動的に農民を、憲法制定議会を通じて、したがってその野党ではなく与党を通じて自らの利益を満たすような立場に追いやったであろう。反対に、プロレタリアートによる権力獲得はただちに、地主と官僚に対する農民の闘争のための革命的枠組みをつくり出すだろう。この問題に関してわれわれのあいだで最近流行している表現を用いるなら、この手紙には農民に対する過小評価と過大評価が同時に示されていた。それは、農民の革命的可能性(プロレタリアートの指導下における!)を過小評価するとともに、彼らの政治的独立性を過大評価している。農民に対する過大評価と同時に過小評価というこの二重の誤りは、それはそれで労働者階級とその党に対する過小評価から、すなわち、プロレタリアートへの社会民主主義的アプローチから生じているのである。だがこれは少しも驚くにはあたらない。あらゆる色彩の日和見主義は、究極的には、プロレタリアートの革命的力とその可能性に対する誤った評価に帰着するからである。
この手紙は権力獲得に反対するとともに、革命戦争の展望によって党を脅かしている。
「兵士大衆がわれわれを支持しているのは、われわれが戦争のスローガンではなく、平和のスローガンを掲げているからだ。……もし今われわれが単独で権力をとれば、現在の世界情勢全体からして、革命戦争を遂行せざるをえなくなるだろう。そうなれば、兵士大衆はわれわれから離れていくだろう。もちろん、若い兵士の最良の部分はわれわれの側にとどまるだろう。だが兵士の大多数は去ってゆくだろう」(6)。
こうした議論はこの上なく示唆的である。これは、ブレスト・リトフスク講和の署名に賛成する基本的な論拠であるが、ここでは権力獲得に反対するために持ち出されている。「現情勢によせて」の中で表明されているこのような立場からして、この手紙の見解の支持者たちが容易にブレスト・リトフスク講和を受け入れることができたことは、まったく明らかである。ここでも、われわれは他の所で言ったことを繰り返すだけである。すなわち、ブレスト・リトフスクの一時的降服を孤立的に取り上げるだけでは、レーニンの政治的天才を特徴づけることはできないのであって、10月革命とブレストとを結びつけることによってのみそうすることができる、ということである。このことを忘れてはならない。
労働者階級は、敵の方が優位にあることを絶えず意識しつつ闘い成長する。このような優位性は日常生活において一歩ごとに現われる。敵には富と権力が、思想的圧力のあらゆる手段が、あらゆる弾圧の手段がある。敵はわれわれより力で優っていると考える習性は、準備期における革命党の全生活と全活動を構成する不可欠の一部となっている。あれこれの不用意ないし時期尚早な行動から生じる結果は、常に最も無慈悲な形で敵の力を想い起こさせる。だが、敵を自分たちより強力だとみなすこうした習性が勝利への途上における主たる障害となる時がやってくる。ブルジョアジーの現在の弱さがその過去の強さの影で覆い隠される。「君は敵の力を過小評価している!」――この叫び声が武装蜂起に反対するあらゆる分子を結集する基軸となる。わが党の蜂起反対者は、われわれの勝利の2週間前にこう書いていた。
「蜂起について語るだけですませようと思わない者は、その勝算を冷静に測らなければならない。そして、この点でわれわれは、現時点で何よりも有害なのは敵の力を過小評価し、自らの力を過大評価することである、と告げることを自らの義務とみなす。敵の力は見かけよりも強大である。事態を決するのはペトログラードであろうが、ペトログラードにはプロレタリア党の敵がかなりの勢力を結集している。すばらしくよく武装され組織され、その階級的地位からして戦う意欲を持ちその能力を持っている5000の士官学校生(ユンカー)、つぎに軍司令部、突撃隊、コサック、それに守備隊のかなりの部分、さらにペトログラードの周囲に扇状に配置されている砲兵隊の圧倒的部分。しかも、敵がソヴィエト中央執行委員会の助けを借りて前線から部隊を移動させてくることはほとんど間違いない」(7)。
言うまでもなく、内戦において重要なのは部隊の数を単純に足し算することではなく、それらの部隊の意識性を前もって推し量ることであるが、しかし、こうした推量が完全に確かで正確なものになることはけっしてない。レーニンでさえペトログラードの敵を強大なものとみなし、蜂起をモスクワから開始するよう提案した。モスクワならほとんど流血なしに蜂起が成功するだろうと予想したのである。このような部分的に誤った予測は、最も有利な状況においてさえまったく避けられない。それゆえ、より不利な情勢を想定して方針を立てる方が常に正しいのである。しかしこの場合、われわれにとって興味があるのは、敵が基本的にほとんど武力を失っているにもかかわらず、敵の力が途方もなく過大評価され、すべての力関係が完全に歪曲されている事実である。
この問題は、ドイツの経験が示したように、巨大な重要性を持っている。蜂起のスローガンが、ドイツ共産党の指導者たちにとって、もっぱらとは言わないまでも主として煽動的意義を持っていたかぎりは、彼らは、敵の武力(ドイツ国防軍、ファシスト突撃隊、警察)の問題をあっさり無視した。絶えず成長する革命的上げ潮が軍事問題を自動的に解決するかのように考えていたのである。ところが、その任務に直面するやいなや、それまでは敵の武力をあたかも存在しないかのごとく扱っていた同じ同志たちは、反対の極端に走った。彼らはブルジョアジーの武装力に関するあらゆる統計数字を信じ込み、それに国防軍と警察力を入念に加算し、次にそれを四捨五入して概算を出し(50万以上)、こうして、ドイツ共産党の努力を無力化させるに十分な、歯まで武装し固くまとまった大武力を引き出したのである。ドイツ反革命の力が、わが国のコルニーロフ派と半コルニーロフ派よりも数的に強力で、少なくともよく組織され準備を整えていることは疑いない。だがドイツ革命が動員しうる力の方もわが国よりも大きなものだった。ドイツではプロレタリアートは人口の圧倒的多数を構成している。わが国では問題は、少なくともその最初の段階では、ペトログラードとモスクワで決せられた。だがドイツでは、蜂起は数十の強力なプロレタリア地域で同時に起こっただろう。こうした状況においては、敵の武装力は四捨五入の統計数値ほどは恐ろしいものではなかった。いずれにしても、ドイツの10月の崩壊後に、その崩壊をもたらした政策を正当化するためになされた傾向的な計算をきっぱりと拒否しなければならない。
われわれロシアの実例は、この点に関してかけがえのない意義を有している。ペトログラードにおける無血勝利の2週間前――ちなみに、われわれはこのときでも勝利することができたろう――、わが党の熟達した政治家たちは、われわれに対抗する武力として、戦う熱意と能力をもった士官学校生、突撃隊、コサック、そして守備隊のかなりの部分、扇形に配置された砲兵隊、そして前線から到着しつつあった部隊があるのを理解していた。だが、これらの部隊は実際には何の役にも立たなかった。その総計はゼロだったのだ。さて、蜂起反対派がわが党と中央委員会で勝利したとしばらく仮定しよう。内戦における司令部の役割はあまりにも明白である。その場合、革命はあらかじめ崩壊を運命づけられていただろう。もっともレーニンが、中央委員会に反対して党に訴えなかったとすればの話だが。レーニンならそうする決意をしたであろうし、疑いもなく成功を収めたであろう。しかしながら、どの党にも、そのような状況下で常にレーニンのような人物がいるとはかぎらない…。もし戦闘回避の路線が中央委員会で勝利していたなら、歴史がどのように書かれたかを想像することは困難ではない。公式の歴史家たちは、もちろん、1917年10月の蜂起はまったく狂気の沙汰であったと説明し、士官学校生とコサックと突撃部隊と扇型に配置された砲兵隊と前線から到着しつつあった部隊に関する恐るべき統計上の計算を読者に提供したことだろう。蜂起の火中で検証されないかぎり、これらの兵力は実際よりもはるかに恐るべきものに見える。これこそ、すべての革命家の意識に刻みつけなければならない教訓である。
レーニンは9月から10月にかけて飽くことなく執拗かつ絶え間なく中央委員会に圧力をかけつづけたが、それは、時機を逸する危険性をずっと懸念していたからであった。ナンセンスだ――と右派は答えた。われわれの影響力は絶えず増大しつつある、と。正しかったのは誰か? 時機を逸するとはどういう意味か? ここでわれわれが直面しているのは、革命の手段と方法に関するボリシェヴィキ的評価――能動的で、戦略的で、徹底して実践的なそれ――と社会民主主義的、メンシェヴィキ的な評価――骨の髄まで運命論に蝕まれたそれ――とが最もはっきりと衝突しあっている問題群である。時機を逸するとはどういう意味か? 蜂起にとって最も有利な状況とは、力関係がわれわれにとって最も有利な方向に転換したときである。これは自明であろう。言うまでもなく、ここで問題になっているのは意識の分野における力関係、すなわち政治的上部構造であって、経済的土台ではない。経済的土台の方は、革命の全期間を通じておおむね不変であるとみなすことができる。経済的土台や社会の階級分化の程度が同一である場合でも、力関係というものは、プロレタリア大衆の気分、彼らのもっていた幻想の解体、彼らによる政治的経験の蓄積、国家権力に対する中間的諸階級・グループの信頼の崩壊、最後に、国家権力の自信喪失、こういったものに依存して変化する。革命においてはこの過程は一気に進む。いっさいの戦術的技術は、諸条件の組み合せがわれわれに最も有利な瞬間をいかにしてつかむか、にある。コルニーロフの反乱はこのような諸条件を最終的に整えた。ソヴィエトの多数派を構成する諸政党に対する信頼を失った大衆は、自分自身の目で反革命の危険を見てとった。彼らは、今やボリシェヴィキこそが事態からの活路であると判断した。国家権力の自然発生的な解体も、ボリシェヴィキに対する大衆の、せっかちで厳しい信頼の自然発生的な高まりも、長期にわたって続きうるものではなかった。危機の解決はあれかこれかであった。すなわち、今すぐか、さもなくば永遠に不可能!――レーニンはそう繰り返した。
これに対し右派はこう反論した。
「プロレタリア党の手に権力を移行させる問題を、今すぐか、さもなくば永遠に不可能、というように提起するのは深刻な歴史的誤まりである。いな! プロレタリアートの党は成長し、その綱領はますます広範な大衆によって理解されるだろう。……そして党がその成功を台無しにすることができるのは、ただ一つの方法によってでしかない。すなわち、党が現在の情勢のもとで蜂起のイニシアチブをとる場合だ。……このような破滅的な政策に対してわれわれは警告の声をあげるものである」(8)。
この運命論的楽観主義は最も慎重な検討を必要とする。それはけっして一国だけの問題ではないし、ましてや個人的な問題ではない。これと同じ傾向がドイツに見られたのはつい昨年のことである。基本的に、こうした待機的な運命論の背後には、行動への不決断と無能力が隠されているのだが、それは次のような気休めの予測によってカムフラージュされている。すなわち、われわれはますます強力になりつつあり、したがって、時が経つにつれてますますわれわれの力は増大するだろう、と。最も深刻な欺瞞だ! 革命党の力はただある一定の瞬間まで増大するにすぎず、その後は正反対の過程に転化する。大衆の希望は、党の受動的態度の結果、幻滅へと変わり、その間に敵はパニックから回復し、大衆の幻滅を利用する。このような決定的な転換は1923年10月のドイツで見られた。われわれはロシアにおいても1917年秋にこのような転換からさほど遠くない位置にいた。おそらく、あと数週間も事態が長引いていればそうなっていただろう。レーニンは正しかった。今すぐか、さもなくば永遠に不可能なのだ!
ここで蜂起反対派は、自らの最後のそして最も強力な論拠を提起する。
「だが、決定的な問題は、両首都の労働者と兵士の中に、街頭での闘争以外に救いがないと見て街頭に繰り出すような気分が本当にあるのかどうかである。いや、そんな気分は存在しない。……もし両首都の貧民大衆の深部に、街頭へ繰り出すような戦闘的気分が存在しているなら、彼らのイニシアチブが、党の影響力の弱い最大かつ最重要の諸組織(鉄道労働組合、郵便電信労働組合、等々)をも引きつける保証となりえたであろう。ところがこのような気分が工場や兵営にすら存在しないのだから、この点で何らかの期待をかけるのは自己欺瞞であろう」(「現情勢によせて」)(9)。
10月11日に書かれたこの一文は、昨年ドイツ党の指導的同志たちが、戦闘も交えることなしに退却したことの説明として、まさに大衆の戦闘意欲のなさを持ち出したことを思い起こす時に、きわめて切実かつ特別の意義を帯びる。重要なことは、一般的にいって、大衆が向こう見ずに闘争に飛び込むのではなく、事態をしっかり見定め、決然として有能な闘争指導部を要求するだけの十分な経験を積んでいる時に、蜂起の勝利が最も保証されているという事実である。1917年10月の時点ですでに、労働者大衆の中には、少なくともその指導的層の中には、4月行動、7月事件、コルニーロフ反乱の経験にもとづいて、いま問題になっているのは個々の自然発生的な抗議や偵察行動ではなく、権力獲得のための決定的蜂起である、という確固たる信念がすでに形成されていた。大衆の気分もそれに照応して、より集中的で、より批判的で、より深みのあるものになっていた。楽天的で幻想に満ちた自然発生性からより批判的な意識性へ移行することで、必然的に革命の一時的沈静が生じる。大衆の気分におけるこうした過渡的危機を克服することができるのは、党の適切な政策によってであり、何よりもプロレタリアートの蜂起を指導する党の本格的な姿勢とその指導能力によってである。反対に、協調主義者の影響力から大衆を引き離すための革命的煽動を長期にわたって遂行しながら、その後、これらの大衆の信頼が最高潮に達した時になってから動揺し、事態を混乱させ、ごまかしをやり、狐疑逡巡する――このような党は、大衆の能動性を麻痺させ、大衆のあいだに幻滅と分解を引き起こし、革命を破滅させるであろう。そしてこのような党にかぎって、――崩壊の後に――大衆の不十分な能動性を持ち出すのである。「現情勢によせて」という手紙はまさにこのような道に導くものであった。幸いにもレーニンの指導のもとにあったわが党は、党上層のこうした気分を決定的に清算することができた。もっぱらこのおかげで、党は革命を勝利に導くことができたのである。
※ ※ ※
われわれは、10月革命の準備と関連した政治的諸問題の本質を特徴づけ、そこから生じた意見の相違の基本的意義を明らかにしようとつとめた。そこで今われわれに残されているのは、最後の決定的数週間のあいだに起こった党内闘争の最も重要な諸要素を簡潔に明らかにすることである。
武装蜂起の決議が中央委員会によって採択されたのは10月10日であった。10月11日に、前述した「現情勢によせて」という手紙が党の重要諸組織に送られた。10月18日、すなわち革命の1週間前、『ノーヴァヤ・ジーズニ』紙にカーメネフの手紙が発表された。手紙はこう述べていた。
「私と同志ジノヴィエフだけでなく、実践に従事している多くの同志たちも、現瞬間において、現在の力関係のもとで、ソヴィエト大会から独立にその数日前に武装蜂起のイニシアチブをとることは、プロレタリアートと革命にとって破滅的で許されざる措置である、と考えている」(『ノーヴァヤ・ジーズニ』第156号、1917年10月18日)。
10月25日、ペテルブルクで権力が奪取され、ソヴィエト政府が樹立された。11月4日、一連の幹部党員が党中央委員会と人民委員会議から離脱し、ソヴィエト諸党からなる連立政府の結成を要求する最後通謀を発した。彼らはこう書いている。
「……そうしないと残された唯一の道は、政治的テロによって純粋なボリシェヴィキ政府を維持することになるだろう」(10)。
同時期の別の文書はこう述べている。
「われわれは、中央委員会のこの破滅的政策に責任を負うことはできない。それは、民主主義内の各部分間の流血沙汰をできるだけ早急にやめさせることを熱望しているプロレタリアートと兵士の大多数の意志に反して採択されたものである。それゆえ、われわれは、労働者・兵士に対してわれわれの率直な意見を表明し、『全ソヴィエト諸党の政府万歳! この条件にもとづいて即時の協定を!』というわれわれの訴えへの支持を求める権利を行使するために、中央委員の資格を返上するものである」(『革命アルヒーフ――10月革命』、1917年、407〜410頁)(11)。
かくして、武装蜂起と権力奪取を冒険だとして反対した人々は、蜂起が勝利のうちに遂行されると、今度はよりにもよって、プロレタリアートが権力を獲得するために闘争した相手であるその当の諸党に権力を返すことを要求したのである。だが、いったい何のために、勝利したボリシェヴィキ党がメンシェヴィキとエスエルに権力を返還しなければ――まさに問題になっていたのは返還だった!――ならないというのか? これに対する反対派の回答はこうだった。
「これ以上の流血と迫り来る飢饉と、カレーディン派による革命の粉砕を防ぐために、そして憲法制定議会を期日通りに召集し、兵士・労働者代表ソヴィエト全ロシア大会で採択された講和綱領を実際に実現するのを保証するために、このような政府を創設することが必要だとわれわれは考える」(『革命アルヒーフ――10月革命』、1917年、407〜410頁)(12)。
言いかえれば、問題になっていたのは、ソヴィエトという門を通ってブルジョア議会制度への道を見つけ出すことだったのである。革命は予備議会を通ることを拒否して、自らの軌道を通って10月に至った。それゆえ、課題は、反対派によって定式化されたところによると、メンシェヴィキとエスエルの協力のもとに、革命をブルジョア体制の軌道へ引き込むことによって、革命を独裁から救出することにあった。つまり問題になっていたのは、10月革命を清算すること以外の何ものでもなかった。このような状況のもとではどんな協定も問題になりえないのは言うまでもない。
その翌日の11月5日に、同じ方向に沿ったもう一つの手紙が発表された。
「破滅の脅威のもと客観的条件が全社会主義諸党の政治的協定を厳しく命じているというのに、マルクス主義者たちが理性に反し自然な流れに逆らって、この客観的条件を考慮することを拒否している現在、党規律の名において沈黙を守ることなど、できはしない。……私は、党規律の名において個人崇拝に屈するつもりなどないし、われわれの基本的要求に同意するすべての社会主義政党との政治的協定を、あれこれの人物を内閣に入れるかどうかという問題に依存させることもできないし、そんなことのために流血の事態を一分たりとも引き延ばそうとは思わない」(『ラヴォーチャヤ・ガゼータ(労働者新聞)』第204号、1917年11月5日)(13)。
この手紙の筆者(ロゾフスキー(14))は最後に、「ロシア社会民主労働党のボリシェヴィキが労働者階級のマルクス主義党としてとどまるか、それとも革命的マルクス主義とは何の共通点ももたない道を完全にとるか」という問題を決定する臨時党大会を召集するために闘うことが必要だとさえ述べている(『ラヴォーチャヤ・ガゼータ』第204号、1917年11月5日)。
情勢は実際、絶望的に見えた。ブルジョアジーと地主だけでなく、また、いまだ非常に多くの重要諸組織の指導部(ヴィクジェリ(15)、軍隊委員会、公務員、等々)を支配していたいわゆる「革命的民主主義者」だけでなく、われわれ自身の党の最も有力な活動家、中央委員、人民委員までもが、権力にとどまって自らの綱領を実現しようとする党の試みを公然と非難したのである。事態の表面だけを見たならば、繰り返すが、情勢は絶望的に見えたかもしれない。いったい何が残されていたか? 反対派の要求を受け入れることは10月革命を清算することを意味した。だがそんなことは問題になりえなかった。残されていたのは一つの手段だけであった。大衆の革命的意志にもとづいて前へ進むこと、これである。11月7日、『プラウダ』に、わが党中央委員会の決定的な声明が発表された。それはレーニンによって執筆され党員大衆に宛てられたもので、それは真の革命的熱情によって貫かれ、明確で簡潔で議論の余地のない定式に凝縮されていた。この訴えは、党と中央委員会の今後の政策に関するいっさいの疑問に終止符を打った。
「すべての信念なき者、動揺している者、疑問を持っている者、ブルジョアジーのおどしに乗った者、ブルジョアジーの直接・間接の共犯者の叫びに屈服している者、これらすべての者は赤面するがよい。ペトログラード、モスクワ、その他の地域の労働者と兵士の大衆のあいだには、動揺のかけらもない。わが党は、ソヴィエト権力を防衛し、すべての勤労者の、何よりもすべての労働者と貧農の利益を擁護するために、1人の人間のように、友好的かつ確固として立っている!」(『プラウダ』第182号、1917年11月20(7)日)(16)。
党の最も先鋭な危機は克服された。しかしながら党内闘争はまだ終結してはいなかった。闘争のラインは依然として同じだった。だがその政治的重要性はますます減じていった。きわめて興味深い証言を、憲法制定議会召集に関する12月12日のペトログラード委員会の会議でウリツキー(17)が行なった報告の中に見ることができる。
「わが党における意見の相違は新しいことではない。これは、かつて蜂起の問題に関して見られたのと同じ傾向である。現在、一部の同志たちは憲法制定議会は革命の頂点を飾るべきものとみなしている。彼らの立脚している立場はまったく陳腐なものである。彼らは言う、如才なく振舞わなければならない、云々と。彼らは、憲法制定議会のメンバーであるボリシェヴィキが、その召集、勢力関係、等々について統制力を発揮していることに反対している。彼らは事態をまったく形式的に見ていて、こうした統制のうちに、憲法制定議会をめぐって起こっている事態の縮図が示されていることを理解しようとしない。だが、こうしたことを考慮に入れてはじめて、われわれは憲法制定議会に対する立場を決定することができるのだ。……われわれは現在、プロレタリアートと貧農の利益のために闘っているのだという観点に立っているが、少数の同志たちは、憲法制定議会の創設を頂点とするブルジョア革命を遂行しているのだという立場に立っている」。
憲法制定議会の解散は、ロシア史における大きな1章を閉じるものであるだけでなく、わが党の歴史における同じぐらい大きな1章を閉じるものであるとみなすことができる。内的抵抗を克服することによって、プロレタリアートの党は権力を獲得しただけでなく、それを自己の手中に保持したのである。
訳注
(1)ジノヴィエフ、カーメネフ「現情勢によせて」、トロツキー『ロシア革命――「10月」からブレスと講和まで』、つげ書房新社、195頁。
(2)同前、195〜196頁。
(3)同前、196頁。
(4)同前、197頁。
(5)同前、198頁。
(6)同前。
(7)同前、202頁。
(8)同前、204〜205頁。
(9)同前、203頁。
(10)ノギーン、ルイコフ、ミリューチン、テォドロヴィチ、シリャープニコフ他「労兵ソヴィエト中央執行委員会および人民委員会議へ」、前掲『ロシア革命――「10月」からブレスと講和まで』、237〜238頁。
(11)カーメネフ、ルイコフ、ミリューチン、ジノヴィエフ、ノギーン「ボリシェヴィキ中央委員会への声明」、同前、240頁。
(12)同前、239頁。
(13)ここで言われている「個人崇拝」云々や「あれこれの人物を内閣に入れるか入れないかという問題」という下りは、エスエルやメンシェヴィキが、ボリシェヴィキとの連立の条件として、トロツキーとレーニンを政府から除くことを要求したことを念頭においている。つまり、この手紙の筆者は、レーニンとトロツキーを政府から除いても他の社会主義諸党との連立を追求するべきであると主張しているのである。
(14)ロゾフスキー、ソロモン(1878-1952)……ロシアの革命家。1901年からロシア社会民主党員。1909年にパリに亡命し、第1次大戦中は『ナーシェ・スローヴォ』の編集者の一人。1917年に、全ロシア労組中央会議書記。1921〜38年、赤色労働組合インターナショナル(プロフィンテルン)の議長。
(15)ヴィクジェリ……全ロシア鉄道労働組合中央執行委員会の略称。1917年8月、モスクワでの第1回全ロシア鉄道従業員大会で選出された。ヴィクジェリのメンバーの41名のうち、エスエルは14名、メンシェヴィキは6名、人民社会党は3名、無党派11名であった。1917年10月29日、ヴィクジェリは全社会主義諸党による連立政府を求める決議を採択した。この組織との交渉に当たったカーメネフとソコーリニコフは、ヴィクジェリの要求を受け入れる立場をとったが、ボリシェヴィキ中央委員会は11月2日、この妥協を厳しく非難する決議を採択した。
(16)レーニン「ロシア社会民主労働党(ボ)中央委員会より」、邦訳『レーニン全集』第26巻、313〜314頁。
(17)ウリツキー、モイセイ(1873-1918)……ロシアの革命家。1890年代からのロシア社会民主主義運動に従事。1905年革命で活躍。第1次大戦中は国際主義派で、トロツキー派。『ナーシェ・スローヴォ』の寄稿者の一人。1917年にはメジライオンツィ派の一人としてボリシェヴィキに合流。中央委員に選出。10月革命中は軍事革命委員。革命後はペトログラードのチェカとして活躍。1918年に左翼エスエルのテロリストによって暗殺。
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