第7章 10月蜂起とソヴィエト「合法性」

 民主主義会議が開催されている最中の9月、レーニンはただちに蜂起に移ることを要求した。

 「ところで蜂起をマルクス主義的に、すなわち技術として扱うためには、われわれは、それと同時に、一瞬もむだにしないで、蜂起部隊の司令部を組織し、兵力を配置し、最も重要な地点に忠実な連隊を派遣し、アレクサンドル劇場を包囲し、ペトロパブロフスカヤ要塞を占領し、参謀本部と政府の要人を逮捕し、士官学校生と野蛮師団に対しては、敵を市の中心部へ進入させるぐらいなら死を選ぶ覚悟のある部隊を派遣しなければならない。われわれは、武装した労働者を動員し、彼らに死に物狂いの最後の戦闘を呼びかけ、ただちに電信局と電話局を占領し、中央電話局にわれわれの蜂起司令部をおき、電話を通じて司令部とすべての工場、すべての連隊、すべての武装闘争地点、等々を結びつけなければならない。以上のことは、もちろん、現時点において蜂起を技術として取りあつかわないならば、マルクス主義に忠実でありえず、革命に忠実ではありえないことを例証するための事例にすぎない」(全集、第14巻第2分冊、140頁)(1)

 こうした問題設定は、蜂起の準備と遂行は党の手によって、党の名においてなされるべきであり、しかる後にソヴィエト大会を通じてその勝利が公的に承認されるべきである、という前提に立っている。中央委員会はこの提案を採用しなかった。蜂起はソヴィエトの軌道に引き入れられ、煽動の上でも第2回ソヴィエト大会に結びつけられた。こうした意見の相違は詳細な解明を必要とするだろうが、しかしこれは、その実践的意義がいかに大きかろうと、原則的問題ではなく純粋に技術的な問題の枠組みの中に自然と収まるものである。

 レーニンがいかに強い不安をもって蜂起の遅延を見ていたかは、すでに指摘したとおりである。党の上層部で起きていた動揺のせいで、革命を、目前に迫ったソヴィエト大会に形式的に結びつけようとした党の煽動は、レーニンにとっては許すべからざる先延ばし、不決断への譲歩、不決断による時間の喪失、直接的な犯罪に見えたのである。9月の末以降、レーニンはこの考えを何度も繰り返した。

 9月29日、レーニンはこう書いている。「わが党の中央委員会と党上層部には、ソヴィエト大会を待つことに賛成し、ただちに権力をとることに反対し、蜂起をただちに起こすことに反対する傾向ないし意見が存在する……。この傾向ないし意見は克服されなければならない」(2)

 10月の初めにはこう書いている。「これ以上遅延することは犯罪である。ソヴィエト大会を待つのは、子供じみた手続き遊び、恥ずべき手続き遊びであり、革命を裏切ることである」(3)

 10月8日のペトログラード協議会のためのテーゼのなかでレーニンはこう述べている。「立憲的幻想やソヴィエト大会への期待に反対して闘わなければならない。何としてでもソヴィエト大会を『待つ』べきだという先入観を拒否しなければならない…」(4)

 最後に、10月24日にこう書いている。「いま蜂起を遅らせることは真に死に等しいということは、この上なく明らかである」(5)。さらに、「今日なら勝利できる(そして今日なら必ず勝利する)が、明日になれば多くのものを失う、否、すべてを失う恐れがあるときに、革命家が事を遅らせるなら、歴史は彼らを許さないだろう」(6)

 その一語一語が革命の鉄敷の上で打ち鍛えられたこれらの手紙は、レーニン自身を性格づけるうえでも、また当時の情勢を評価するうえでも、特別に興味深いものである。そこに貫かれている根本的な思想は、革命をあたかも切れ目のないフィルムであるかのように見ている運命論的、待機的、社会民主主義的、メンシェヴィキ的態度に対する怒り、抗議、憤激である。一般に時間は政治の重要な要因であるが、戦争と革命においてはその重要性は100倍も増す。今日できることがすべて明日もできるとはけっしてかぎらない。蜂起すること、敵を打倒すること、権力をとることは今日ならできるかもしれないが、明日には不可能かもしれない。しかし、権力をとることは歴史の軌道を切り替えることを意味する。だが、このような出来事が、24時間の間隔にかかっているというのは本当だろうか? しかり、そういう場合はありうる。事態が武装蜂起にまで至った時には、事件は政治の長い物さしで測られるのではなく、戦争の短かい物さしで測られる。数週間、数日、そして時としてはただの1日を失うことさえ、一定の条件のもとでは革命の売り渡しと屈服に等しい。もしこのレーニンの警鐘、この批判がなかったならば、この緊迫した情熱的な革命的不信がなかったらば、党はおそらく決定的瞬間に自らの戦線を整えることができなかっただろう。なぜなら党上層部における抵抗は非常に強力で、そして司令部というのは、内戦[内乱]をも含む戦争において大きな役割を果たすからである。

 しかしながら、それと同時に、第2回ソヴィエト大会の準備という隠れ蓑のおかげで、またそれを擁護するというスローガンのもとで蜂起を準備しそれを実行したことは、われわれの手中における巨大な利点となったことは、まったく明らかである。われわれペトログラード・ソヴィエトが、守備隊の3分の2を前線に移動させるというケレンスキーの命令を拒否した瞬間に、われわれは事実上武装蜂起の状態に突入したのである。当時ペトログラードにいなかったレーニンは、この事実の意義を全面的な形で評価することができなかった。私の記憶しているかぎりでは、当時の彼の手紙のどれにも、このことに一言でも触れたものはない。けれども、われわれがペトログラード守備隊の移動を拒否し、軍事革命委員会を創設し(10月16日)、すべての部隊と機関に軍事革命委員会のコミッサールを任命し、それによってペトログラード軍管区の司令部のみならず政府をも完全に孤立させた瞬間に、10月25日の蜂起の結果は、少なくともその4分の3はすでに達成されていたのである。事実上、ここですでに武装蜂起が、すなわち臨時政府に対するペトログラード連隊の武装蜂起――ただし無血の――が起きていたのである。それは、軍事革命委員会の指導のもとに、また権力の運命を決定することになっていた第2回ソヴィエト大会の準備というスローガンのもとに遂行された。レーニンは、無血勝利が可能であるとの予想にもとづいてモスクワで蜂起を開始するよう助言したが、これは、当時彼が隠れ家にいて、10月中旬における首都の守備隊の「静かな」蜂起の後に、軍隊の気分のみならずその組織的紐帯においても、すなわちそのすべての指揮命令系統とヒエラルキーにも起きた根本的な転換を評価することができなかったという事実から生じたものであった。各連隊が軍事革命委員会の指令にもとづき、市中から離れることを拒否したその時に、首都における蜂起は勝利していたのであり、ただ、かろうじて頂上がブルジョア民主主義国家の残滓によって覆い隠されていただけであった。10月25日の蜂起は補完的な性格をもっていたにすぎない。まさにそれゆえ、蜂起はあれほどまでに順調に行なわれたのである。反対にモスクワでは、人民委員会の権力がすでにピーテルで樹立されていたにもかかわらず、闘争ははるかに長引き、はるかに多くの流血をともなった。まったく明らかなことだが、ペトログラードにおける革命の前にモスクワで蜂起が始まっていたとすれば、それは不可避的にはるかに長引くものとなり、その結果もはなはだ疑わしいものになったろう。モスクワでの失敗はペトログラードに重苦しい影響を及ぼしたであろう。もちろん、その場合でも勝利が不可能であったということではけっしてない。しかし、事態が実際に進んだ道は、はるかに経済的で、はるかに有利で、はるかに勝利を容易にするものであることがわかった。

 われわれは、多かれ少なかれ、権力奪取の時機を第2回ソヴィエト大会の開会に一致させることができたが、それはもっぱら、静かな、ほとんど「合法的」な武装蜂起――少なくともペトログラードにおいては――によって、権力奪取の10分の9とまで行かなくても4分の3がすでに成し遂げられていたからである。われわれがこの蜂起を「合法的」だというのは、それが二重権力の「正常な」条件から生じたものだという意味でである。協調主義者がペトログラード・ソヴィエトを支配していた時でさえ、ソヴィエトが政府の決定を修正したり改変したりしたことが度々あった。それは、「ケレンスキー主義」という名称で歴史に入ることになった政体の骨格を構成するものであった。われわれボリシェヴィキは、ペトログラード・ソヴィエトにおいて権力を握ったあとも、二重権力の方法を継続し深めたにすぎない。われわれは、守備隊の移動という命令を自らの手で修正した。このことによって、ペトログラード守備隊の事実上の蜂起を合法的な二重権力の伝統と手法によって覆い隠した。それだけでなく、煽動の中で権力の問題を第2回ソヴィエト大会に形式上一致させることによって、われわれは、すでに形成されていた二重権力の伝統を発展深化させ、全ロシア的規模におけるボリシェヴィキの蜂起のためにソヴィエト合法性の枠組みを利用したのである。

 われわれはソヴィエト型の立憲的幻想で大衆を眠らせはしなかった。なぜなら、第2回大会のための闘争というスローガンによって革命的軍隊の銃剣をわれわれの側に獲得し、組織的に強化したからである。それに加えて、敵である協調主義者をソヴィエト合法性の罠に誘い込むことに大いに――予想以上に――成功した。政治で計略を用いることは常に危険であり、革命の場合はとくにそうである。敵はおそらくだまされないだろうが、大衆は、われわれの言葉を鵜呑みにして欺かれるかもしれない。だが、われわれの「計略」は100パーセント成功した。それは、内乱を回避することを望む利口ぶった戦略家の編み出した人為的な思いつきであったからではなく、協調主義体制の解体の中から、その途方もない矛盾から自然に導き出されたものだったからである。臨時政府は守備隊を追い払いたがっていた。兵士たちは前線へ行きたくなかった。われわれは兵士たちのこうした当然の感情に政治的表現を与え、革命的目標と「合法的」な隠れ蓑を与えた。これによって、守備隊内での比類なき一致団結した支持を確保するとともに、守備隊をペトログラード労働者と密接に結びつけた。反対に、われわれの相手は、その絶望的立場と思考の混乱ゆえに、ソヴィエトの隠れ蓑を額面通り受け取る方へ傾いた。彼らは欺かれたがっており、われわれはこの可能性を十分彼らに提供したのである。

 われわれと協調主義者とのあいだでソヴィエトの合法性をめぐる闘争が繰り広げられていた。大衆の意識の中ではソヴィエトは権力の源泉であった。ケレンスキー[左の写真]もツェレテリもスコベレフもソヴィエトを出自としていた。だがわれわれも、「すべての権力をソヴィエトへ!」という基本的スローガンを通じてソヴィエトに密接に結びつけられていた。ブルジョアジーは国会からその権力を継承していた。協調主義者はソヴィエトを自らの権力の源泉としていたが、それはただソヴィエトを無に帰せしめるためであった。われわれもまたソヴィエトを権力の源泉としていたが、それはソヴィエトに国家権力を引き渡すためであった。協調主義者はいまだに権力の源泉としてのソヴィエトから決別することができず、ソヴィエトからブルジョア議会制度へと移行するための橋をかけようと焦っていた。そのために彼らは民主主義会議を召集し予備議会を創設したのである。ソヴィエトが予備議会に参加したことは、あたかもソヴィエト自身がこうした道を是認したかのようであった。協調主義者は革命をソヴィエトの合法性の罠にかけ、その上でソヴィエトをブルジョア議会制の軌道に引きこもうとしたのである。

 だが、われわれもまたソヴィエトの合法性を利用することに利益を有していた。民主主義会議の最後に、われわれは第2回ソヴィエト大会の召集をめぐって協調主義者から同意を取りつけた。この大会は彼らにとってはなはだしく困難な状況をつくり出した。一方では、彼らは、ソヴィエトの合法性と手を切ることなくしてその召集に反対することはできなかった。他方では、第2回大会がその構成からして彼らに何ら有益なものをもたらさないであろうことを理解せざるをえなかった。われわれはそれだけにいっそう頑強に国の真実の主人としての第2回ソヴィエト大会を押し出し、われわれの全準備活動を、反革命による不可避的な破壊策動からソヴィエト大会を防衛し支持する任務に結びつけたのである。協調主義者が、予備会議を通じてわれわれをソヴィエト合法性の罠にかけようとしていたとすれば、われわれもまた、ソヴィエト第2回大会を通じて、彼らを同じソヴィエト合法性の罠にかけようとした。党による権力奪取というむき出しのスローガンのもとで武装蜂起を実行することと、ソヴィエト大会の権利を擁護するというスローガンのもとで蜂起を準備し、次いでこれを実行することとは、まったく別ものであった。したがって、権力奪取の問題を第2回ソヴィエト大会に結びつけたことのうちには、大会それ自体が権力の問題を解決しうるなどという素朴な希望など何ら含まれてはいなかった。ソヴィエト形態に対するこのような物神崇拝はわれわれにとってはまったく無縁であった。権力奪取にとって必要なあらゆる活動、すなわち政治的活動のみならず組織的・軍事技術的活動も全速力で進行しつつあった。しかしこうした活動に対する合法的隠れ蓑として、われわれは常に、来たるべき大会が権力の問題を解決することになっているという議論を持ち出した。全戦線にわたる攻勢を遂行しながら、われわれは守勢の外観を堅持した。反対に、臨時政府は――たとえ真剣に自らを防衛する決心をするだけであっても――、ソヴィエト大会を破壊しようと企て、その召集を禁止し、それによって相手側に武装蜂起へのはなはだ有利な根拠を与えるしかなかった。

 さらにわれわれは、臨時政府を政治的に不利な立場に置いただけでなく、それでなくともとっくに鈍磨し沈滞していた彼らの思考をも完全に眠らせることに成功した。これらの人々は、われわれの関心事がソヴィエト議会主義であり、新しい大会で権力問題に関する新しい決議をペトログラードとモスクワのソヴィエトにならって採択することであると本気で信じていて、その後で政府は、予備議会と来たる憲法制定議会を持ち出して、われわれと決別しわれわれを滑稽な立場に置こうと考えていた。最も賢明な小市民的賢人たちの思考がまさにこうした方向に傾いていたこと、この点に関しては、ケレンスキー自身の争う余地のない証言がある。ケレンスキーはその回想録の中で、10月25日の夜半、彼の執務室で、そのときすでに全速力で進行していた武装蜂起をめぐる激しい論争がダンやその他の人々とのあいだに交わされた様子を語っている。

 「まず最初にダンは私にこう言った――とケレンスキーは語る――、自分たちの方が君[ケレンスキー]よりもはるかによく事情に通じている、君は『反動的幕僚』からの情報に影響されて事態を誇張している、と。続けてこう述べた。共和国ソヴィエトの多数派による決議は『政府の自尊心』にとって不愉快なものであるが、『大衆の気分を転換させる』うえでは非常に有益で重要である、そしてその効果は『すでに現われている』、これからボリシェヴィキのプロパガンダの影響力は『急速に衰えるであろう』と。他方、ダンの言うところでは、ボリシェヴィキ自ら、ソヴィエト多数派の指導者たちとの交渉の中で、『ソヴィエト多数派の意志に従う』用意のあることを公言し、さらに彼らボリシェヴィキの意志とは無関係に彼らの承認なしに燃え上った蜂起を沈静化させるためのあらゆる措置を『明日にでも』とる用意のあることを公言したとのことであった。ダンは最後に、ボリシェヴィキがその軍事本部を『明日にでも』(また明日だ!)解散するだろうと述べた後で、こう言った。君が蜂起を鎮圧しようとして取ったあらゆる措置は『大衆をいらだたせた』だけであり、総じて君の『介入』は『蜂起の清算をめぐってソヴィエト多数派の代表者がボリシェヴィキとうまく交渉を進めるのを妨たげた』だけだ、と…。全体像を完成させるために次のことをつけ加えておかなければならない。ダンがこのすばらしい情報を私に伝えていたちょうどその時に、『赤衛軍』は政府の建物を次々と占領しつつあった。そしてダンとその同志たちが冬宮から出ていったそのほとんど直後に、臨時政府の会合からの帰途にあったカルタショーフ(7)宗務大臣[左上の写真]がミリオン通りで逮捕されそのままスモーリヌイに連行された。しかもそのスモーリヌィへはダンがボリシェヴィキとの平和的交渉を再開するために戻る途中だった。このときボリシェヴィキがきわめて精力的かつかなり巧妙なやり方で事を運んでいたと認めざるをえない。蜂起が全面的に展開され『赤色部隊』が全市で行動していた時に、特別の任務を帯びた数名のボリシェヴィキ指導者は、『革命的民主主義』の代表者たちが見ても見えず聞いても聞こえないようにしておくことにかなり成功した。これらの巧妙な連中は、夜を徹して、蜂起の清算と和解の基礎となるはずのさまざまな定式をめぐって延々と議論を続けていた。こうした『交渉』方法のおかげでボリシェヴィキは、きわめて大きな時を稼いだのであった。一方、エスエルとメンシェヴィキの戦闘部隊は間に合うようには動員されなかった。もっとも、これこそ証明を要することである!」(ケレンスキー『遠方から』、197〜198頁)。

 まさしく、証明を要することだ! 協調主義者たちは、この記述から見るところ、ソヴィエトの合法性の罠に完全に引っかかっていたのである。特別の任務を帯びたボリシェヴィキが蜂起の近々の清算をめぐってメンシェヴィキとエスエルを欺むく仕事に従事していた、というケレンスキーの想像は、事実の面からすれば正しくない。実際には、最も積極的に交渉に参加していたボリシェヴィキは、本当に蜂起の清算を望んでいた人々であり、各党の協定によって創設される社会主義政府という定式を信じていた。だが、客観的には、これらの議会主義者たちが、自分たち自身の幻想によって敵の幻想を養うことで、蜂起にある種の貢献をしたことは疑いない。しかしながら、この貢献が可能になったのは、とりもなおさず、わが党が、彼らのあらゆる助言や警告を無視して、いささかも力を緩めることなく蜂起を推進し、それを最後までやり遂げたからに他ならない。

 この大規模で包括的なマヌーバーが勝利を収めるためには、まったく例外的な大小の諸事情が結びつくことが必要であった。何よりも、もはや戦かうことを欲しない軍隊が必要であった。2月から10月までを包括する革命の全行程、とりわけその初期における歩みは、すでに述べたように、もしわが国に2月革命の時点で数百万にのぼる打ち砕かれ不満に満ちた農民軍が存在しなかったら、まったく異ったものになったろう。この条件があってはじめて、10月の勝利を事前に決定づけたペトログラード守備隊に関する実験を勝利のうちに遂行することができたのである。「ドライ」でほとんど目に見えない蜂起と、コルニーロフ派からのソヴィエト合法性の防衛という、この両者の独特な組み合わせを何らかの法則に高めることは、まったく問題になりえない。それどころか、この経験がこのような形でいつかどこかで繰り返されることはないだろうと、確信をもって言い切ることさえできる。しかし、それを注意深く研究することは必要である。それはあらゆる革命家の視野を広げ、用いることのできる方法と手段がいかに多様でありうるかを示すだろう。ただしそれは、目標が明確に立てられ、情勢が正しく評価され、かつ闘争を最後までやり抜く決意がある場合のことである。

 モスクワでの蜂起ははるかに長引き、ずっと多くの犠牲を伴なった。このことは、ある程度まで、モスクワ守備隊が、部隊の前線移動の問題と結びついてペトログラード守備隊が遂行したような革命的準備作業を経ていなかったことによって説明される。すでに述べたことだが、もう一度繰り返すと、ペトログラードの武装蜂起は2回に分けて遂行された。すなわち、まずペトログラード連隊がソヴィエトの決議――それは彼ら自身の気分に完全に合致していた――に従って参謀本部の命令を拒否し、しかも処罰を受けなかった10月上旬と、2月に形成された国家権力のへその緒を断ち切るのに小規模な補完的蜂起しか必要としなかった10月25日、である。ところがモスクワでは蜂起は一度に起こった。これがおそらくは蜂起が長引いた主要な原因であった。だが、それと並んでもう一つの理由があった。それは指導部に断固とした姿勢が不十分であったことである。モスクワでは、軍事行動から交渉へと移行し、その後再び交渉から武装闘争へと移行するという揺れが見られた。指導部の動揺が指導される側に感じとられるならば、それは一般に政治にとって有害なことだが、武装蜂起の状況のもとでは致命的な危険となる。支配階級はすでに自己の力に対する自信を失っているが(そのことなしにはそもそも勝利の希望はありえない)、国家機構はまだに彼らの手中にある。革命的階級の任務はこの国家機構を奪取することである。そのためには自らの力に対する自信を持たなければならない。いったん勤労者を蜂起に導いたならば、党はそこからいっさいの必要な結論を引き出さなければならない。「戦争においては戦争の流儀で」。戦争においては、動揺したり時を失うことは他のいかなる場合にもまして許しがたい。戦争では短い物さしで測られる。一箇所で足踏みすることは、たとえそれが数時間でも、支配階級に自信の一部を取り戻させ、蜂起側からは自信を奪う。だが、これこそ直接に、蜂起の結果を左右する力関係を決定するのである。この観点からしてモスクワにおける軍事作戦の歩みを一歩一歩、その政治的指導と結びつけて研究する必要がある。

 内乱[内戦]が特殊な条件下で起こる場合、たとえば民族的要素によって複雑化する場合など、さらにいくつかの論点を明らかにすることは、きわめて重要である。事実資料の綿密な分析にもとづいたこのような研究は、内乱のメカニズムに関するわれわれの知識をいちじるしく豊富にし、それによって、一般的な性質をもった一定の方法・規則性・手法を確立するのを容易にしてくれるだろう。そして、それらから一種の内乱用の「操典」をつくり上げることができるかもしれない(参照、トロツキー「内乱の諸問題」、『プラウダ』第202号、1924年9月6日)(8)。だが、この種のさまざまな研究の部分的結論にもとづいても言うことができるのは、地方における内乱がたどった歩みは、モスクワでの遅延にもかかわらず、かなりの程度ペトログラードでの結果によってあらかじめ決定されていた、ということである。2月革命は旧国家機構を粉砕した。臨時政府がそれを引き継いだが、それを刷新することも強化することもできなかった。その結果、国家機構は、2月から10月まで、官僚的惰性の遺物としてしか機能しなかった。地方の官僚機構はペトログラードに足並みをそろえることに慣れていた。2月にもそうしたし、10月にもまたそれを繰り返した。われわれにとって巨大な利点となったのは、われわれが転覆の準備をしていた体制がいまだきちんと確立されていない状態にあったことである。「2月の」国家機構の極度の不安定さと自信の欠如とは、革命大衆と党そのものの自信を養い、われわれの活動をはなはだ有利にした。

 ドイツとオーストリアでは1918年11月9日以降に類似の情勢が見られた。しかし、このとき社会民主党が国家機構の穴を埋め、ブルジョア共和政体の樹立を助けた。この体制は、安定の見本とはとうてい呼びえないものであったにもかかわらず、すでに生誕から6年間も存続している。他の資本主義諸国に関して言うと、こうした利点、すなわちブルジョア革命とプロレタリア革命との近接という利点が存在しない。これらの国の「2月」はもうとっくに過ぎ去ってしまっている。もちろん、イギリスには今なお多くの封建的がらくたが存在している。しかし、イギリスにおける何らかの独立したブルジョア革命について語ることはできない。君主制や貴族などを国から一掃することは、イギリス・プロレタリアートが権力をとった後に、その箒の最初の一掃きによって成し遂げられるだろう。西方におけるプロレタリア革命は、完全に確立されたブルジョア国家と対峙しなければならないだろう。しかしそれは、これらの国家が安定した国家機構であるというということを必ずしも意味しない。なぜならプロレタリアートによる蜂起の可能性そのものが、資本主義国家の解体が著しく進行していることを前提しているからである。わが国の10月革命が、2月以降いまだ十分確立されていなかった国家機構との闘争の中で展開されたとすれば、他の諸国での蜂起は、ますます解体の度合いを深めていく国家機構と対決することになるであろう。

 すでにコミンテルン第4回世界大会で指摘されたことだが、次のことを一般的な通則とみなしてよいだろう。すなわち、古い資本主義諸国におけるブルジョアジーの10月以前の抵抗力は一般的にわが国におけるよりも相当強いだろうし、プロレタリアートが勝利を得ることはより困難だろう。だがその代わり、いったん権力が獲得されれば、われわれが10月革命の直後に手に入れたよりもはるかに安定した確固たる基盤がただちに保障されるだろう。わが国で内戦が本格的に展開されるようになったのはようやく、プロレタリアートが主要都市と工業中心地で権力を獲得した後のことであり、ソヴィエト権力の最初の3年間がそれに費やされた。多くのことが物語っているように、中欧および西欧諸国においては、プロレタリアートが権力を獲得するのははるかに困難だろうが、その代わり権力獲得後は、プロレタリアートの手ははるかに自由であろう。言うまでもなく、こうした展望は条件的な性格しか持ちえない。非常に多くのことが、ヨーロッパのさまざまな国で革命がどのような順序で起こるのか、軍事干渉の可能性がどれぐらいあるか、その時点でソヴィエト連邦の経済的・軍事的力がどの程度まで強化されているか、等々に依存している。しかし、いずれにせよ、われわれの展望において基本的でおそらくは議論の余地がないのは、権力獲得の過程そのものが、ヨーロッパとアメリカでは、わが国におけるよりはるかに本格的で強固で十分に考え抜かれた、支配階級からの抵抗に出くわすだろう、ということである。それだけになおさら、武装蜂起を、総じて内乱を一つの技術として実践的に扱うことがわれわれの義務となろう。

 

  訳注

(1)レーニン「マルクス主義と蜂起」、同前、13頁。

(2)レーニン「危機は熟している」、同前、72頁。

(3)レーニン「中央委員会、モスクワ委員会、ペトログラード委員会、ピーテルとモスクワのボリシェヴィキ派への手紙」、同前、135頁。

(4)レーニン「10月8日のペテルブルク組織協議会における報告、ならびに決議と党大会代議員に対する要望書のためのテーゼ」、同前、139頁。

(5)レーニン「中央委員への手紙」、同前、240頁。

(6)同前、241頁。

(7)カルタショーフ、アントン(1875-1960)……ロシアのブルジョア政治家。カデット幹部。1917年7月から臨時政府の宗務院総裁、その後、宗務省大臣。1920年に亡命。

(8)邦訳としては、英語からの重訳が革命軍事論研究会編『マルクス主義軍事論・現代編』(鹿砦社)に収録されている。

 

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