序論

 本書は、3つのロシア革命の歴史と密接に結びついた諸問題を論じたものであるが、それにとどまらない。これらの問題はこの数年間、ソ連共産党の内部闘争において巨大な役割を果たし、その後共産主義インターナショナルに持ち込まれ、中国革命の発展に決定的な役割を果たし、東方諸国の革命闘争と結びついた諸問題において多くの最重要の諸決定をもたらした。この問題とはすなわち、レーニン主義のエピゴーネン(ジノヴィエフ、スターリン、ブハーリン等)の説くところによれば「トロツキズム」の原罪であるいわゆる「永続革命」の理論である。

 永続革命の問題は長い断絶ののち1924年になって再び提起されたが、それは、一見したところ、まったく思いがけないことであった。その政治的根拠は何もなかった。なぜなら、それは、とっくに過去のものとなっていた意見の相違の問題だったからである。しかし、心理的根拠は大いにあった。私に対して闘争を開始したいわゆる「古参ボリシェヴィキ」グループは、この自らの名称を何よりも私に対抗する形で利用した。しかし、このグループの行く手に横たわっていた障害は1917年という年であった。革命そのものに先行する思想闘争と政治的準備の歴史が――党全体に関してだけでなく各個人に関しても――いかに重要であろうと、それまでのあらゆる準備が最高かつ最終的な検証にかけられるのはまさに10月革命においてだからである。エビゴーネンの中でこの検証に合格した者はただの1人もいなかった。彼らはみな例外なく1917年の2月革命の際には民主主義左翼という俗悪な立場をとった。彼らのうち誰一人として権力獲得のためのプロレタリアートの闘争というスローガンを掲げた者はいなかった。彼らはみな社会主義的革命への路線を馬鹿げたもの、あるいはもっと悪いことに「トロツキズム」だとみなした。レーニンが国外から帰ってくるまで、また彼の有名な4月4日のテーゼが発表されるまで、彼らはこのような精神で党を指導したのである。すでにレーニンと直接闘争していたカーメネフは、その後公然とボリシェヴィズムの民主主義的翼を形成しようとした。そのすぐ後に彼に合流したのは、レーニンとともに帰ってきたジノヴィエフであった。その社会愛国主義的立場のせいですっかり信用を失っていたスターリンは、わきにそっと退いた。彼は、3月の決定的な重要な数週間における自らの隣れな論文や演説を党に忘れさせ、徐々にレーニンの見地へと近づいていった。以上のことから次のような疑問が生じてくる。すなわち、これら指導的な「古参ボリシェヴィキ」のうち誰一人として、最も重要で最も責任重大な歴史的瞬間に、党の理論的・実践的経験を独立に適用することができなかったとすれば、彼らはいったいレーニン主義から何を学んだのか、と。そこで、何としてでもこの問題から注意をそらして、別の問題にすり替えることが必要であった。このために、永続革命論に砲火を浴びせることが決定されたのである。言うまでもなく私に敵対した連中は、闘争の人為的な軸をつくり出すことによって、知らず知らずのうちに自分自身がその軸の周りを回転し、逆に、自分のために新しい世界観をでっちあげるよう余儀なくされることを予想していなかった。

 永続革命論の基本的骨格は、すでに1905年の決定的諸事件の直前に私によって定式化されていた。ロシアはブルジョア革命に直面していた。当時のロシア社会民主主義者(当時われわれはみな社会民主主義者と自称していた)の誰一人として、われわれがブルジョア革命に、すなわち、資本主義社会の生産力の発展と、時代遅れとなった農奴制的・中世的なカースト的・国家的諸関係とのあいだの矛盾によって生じる革命に直面していることを疑う者はいなかった。当時私は、ナロードニキや無政府主義者との闘争において、当面する革命のブルジョア的性格のマルクス主義的分析に少なからぬ演説と論文を費さなければならなかった。

 しかしながら、革命のブルジョア的性格は、民主主義革命の諸課題をどの階級がいかなる相互関係の中で解決するのかという問題を前もって決定するものではなかった。ところが、基本的な戦略問題はまさにここから始まるのである。

 プレハーノフ、アクセリロート、ザスーリチ、マルトフ、そして彼らに続くすべてのロシア・メンシェヴィキたちは、ブルジョア革命の指導的役割が権力の自然的請求権者としての自由主義ブルジョアジーに属するということを自らの出発点としていた。この図式においてプロレタリアートの党には民主主義戦線の左翼の役割が与えられた。社会民主主義は、反動に反対して自由主義ブルジョアジーを支持し、それと同時に自由主義ブルジョアジーからプロレタリアートの利益を守らなければならなかった。言いかえれば、メンシェヴィキは、ブルジョア革命を主として自由主義的・立憲的改革として理解していたのである。

 レーニンはまったく異なった形で問題を提起した。農奴制の桎梏からのブルジョア社会の生産力の解放は、レーニンにとって何よりも、地主階級の完全な解体と土地所有権の革命的再分配という意味における、農業問題の急進的解決を意味した。これと不可分に結びついているのが君主制の打倒であった。レーニンは、住民の圧倒的多数の死活にかかわる利益にかかわり、かつ、資本主義市場の基本問題ともなっている農業問題に、真に革命的な大胆さをもって取り組んだ。ロシアの自由主義ブルジョアジーは労働者に敵対し大土地所有者と無数の糸で結びついているのだから、農民の真に民主主義的な解放は、労働者と農民との革命的協力によってのみ実現しうる。レーニンによれば、労働者と農民の共同蜂起が勝利するならば、「プロレタリアートと農民の民主主義独裁」をもたらすに違いなかった。

 この定式は現在、最近の4半世紀における生きた歴史的諸経験の分析を試みることもなく、一種の超歴史的な教条としてコミンテルン内で繰り返されている。あたかもわれわれが1905年の革命、1917年の2月革命、そして最後に10月革命の目撃者でも参加者でもなかったかのごとくである。しかしながら、「プロレタリアートと農民の民主主義独裁」の体制は歴史上かつて存在したことがなかったのだから、なおさらこの種の歴史的分析が必要になってくる。1905年には、それはレーニンにとって、これから階級闘争の現実の歩みの中で検証されなければならない戦略的仮説であった。プロレタリアートと農民の民主主義独裁の定式はかなりの程度、代数学的性格を帯びていた。予想されていた民主主義独裁における2人の参加者、すなわち、プロレタリアートと農民との政治的関係がどのようなものになるかという問題を、レーニンはあらかじめ決定してはいなかった。レーニンは、農民が、革命において独立の政党によって代表される可能性を排除しなかった。しかも2つの戦線における「独立」である。すなわちブルジョアジーからのみならずプロレタリアートからも独立し、それと同時に、自由主義ブルジョアジーと闘争しプロレタリアートの党と同盟しつつ民主主義革命を完遂しうる、ということである。レーニンは、後述するように、革命的農民の党が民主主義独裁政府において多数派を形成する可能性すら認めていたのである。

 わが国のブルジョア革命の運命にとって土地革命が決定的意義を持つことに関しては、私は、少なくとも1902年の秋以来、すなわち私が始めて国外に亡命した時以来、レーニンの弟子であった。土地革命、したがってまた全般的な民主主義革命は労働者と農民との団結した力による自由主義ブルジョアジーに対する闘争においてのみ実現可能である、ということ、このことは、ここ数年のすべての馬鹿げたおとぎ話とは反対に、私にとって疑いの余地のないことであった。

 しかし、それでもなお私は「プロレタリアートと農民の民主主義独裁」という定式に反対した。真の独裁がどちらの階級に属するのかという問題を未解決にしている点に欠陥があるとみなしたからである。農民には、その巨大な社会的・革命的重みにもかかわらず、真に独立した党をつくる能力がなく、ましてやその党の手中に革命権力を掌握する能力がないことを私は証明した。16世紀のドイツ宗教改革以降に(あるいはそれ以前にさえ)始まった諸革命において、農民が蜂起を通じて都市ブルジョアの一分派を支持し、しばしばその勝利を確実にしたように、わが国の遅ればせのブルジョア革命において、プロレタリアートの闘争が最も高揚した瞬間に、農民が同じように彼らを支持し、その権力奪取を助けるということはありうる。それゆえわが国のブルジョア革命は――と私は結論づけた――、プロレタリアートが何百万もの農民の支持にもとづいて革命的独裁をその手中に掌握する場合のみ、自己の課題を急進的に解決することができる。

 この独裁の社会的内容はいかなるものであろうか? それはまず何よりも農地改革と国家の民主主義的改造を徹底的に遂行しなければならない。言いかえると、プロレタリアートの独裁は、歴史的に遅れてやってきたブルジョア革命の諸課題を解決する手段となるであろう。しかし、事態はそこにとどまることはできない。権力を獲得したプロレタリアートはますます深く私的所有一般を侵害することを、すなわち、社会主義的措置の道に移行することを余儀なくされるだろう。

 1905〜1917年に、スターリン的輩、ルイコフ的輩、その他すべてのモロトフ的輩は何十回となく言ったものである――「ロシアが社会主義革命にとって成熟していると本当に思っているのか?」。これに対して私はいつもこう答えたものだ――「いや、そんなふうには思っていない。しかし、全体としての世界経済、何よりもヨーロッパ経済は社会主義革命にとって成熟している。ロシアにおけるプロレタリアート独裁が社会主義に到達するかどうか、どのようなテンポで、いかなる段階を経てそうなるのか、このことはヨーロッパ資本主義と世界資本主義の今後の運命にかかっている」と。

 以上が、1905年の最初の数ヵ月にすでに形成されていた永続革命論の基本的骨格であった。それ以来、3つの革命が起こった。農民蜂起の強力な波にのってロシア・プロレタリアートは権力の座についた。プロレタリアートの独裁は、世界のはるかに発達した諸国に先んじて、ロシアにおいて事実となった。1924年、すなわち、永続革命論の歴史的予測がまったく例外的な力強さで確認されてから7年も経って、エピゴーネンは、私自身がその時までほとんど忘れかけていた私の古い著作物から個々の文章や論争文から抜粋して、この理論に対して猛然と攻撃を開始した。

 ここで次のことを想起するのは当を得ているだろう。最初のロシア革命が、ヨーロッパにおけるブルジョア革命の時期から半世紀以上も後に、またパリ・コミューンのエピソード的な蜂起から35年も経った後に勃発したことである。ヨーロッパは長く革命から遠ざかっていた。ロシアはそもそも革命を経験していなかった。革命のすべての問題が改めて提起された。われわれにとって当時はまだ未来のものであった革命が、どれだけ未知で不確実な要素に満ちていたかを理解するのは難しくない。どのグループのスローガンも一種の作業仮説にもとづいていた。今日の時点で当時を振り返ってみて、1905年の分析や評価をあたかも昨日書かれたかのように考えるには、歴史的予測に対する完全な無知とその方法についてのまったくの無理解とを必要とする。自分自身や友人にしばしば言ってきたように、1905年における私の予測のうちに、今から振り返れば、指摘するのに難しくない多くの欠陥が含まれていることは確かである。しかし、私を批判する人々は、より優れた見方をしていただろうか? より先を見通していたであろうか? 私は、長い間自分の旧著を再読していなかったため、そこに含まれている欠陥がかなり深刻で重大なものだろうとあらかじめ覚悟を決めていた。しかし、実際にはそれほどでもなかった。私がこのことを確信したのは、1928年にアルマ・アタへの追放で余儀なくされた政治的余暇のおかげで、鉛筆片手に永続革命の問題に関する自分の旧著を精細に検討することができた時であった。読者諸君もまた、これから述べることから、このことを完全に納得してくれるだろう。

 しかしながら、この序論の範囲内でも、永続革命論の諸要素とそれに対する主な反論をできるだけ正確に規定しておくことは必要である。論争は今や、基本的に世界革命運動の最重要の諸問題すべてを包含するまでに広範になり深刻化している。

 永続革命とは、マルクスがその概念に付与した意味においては、階級支配のいずれかの形態と妥協するのではなく、民主主義的段階にとどまることなく、社会主義的諸措置にまで、そして外部からの反動に対する戦争につき進んでゆくところの革命である。すなわち、次々と段階を経ていって、階級社会の完全な清算にいたるまで中断することのない革命である。

 永続革命論の周囲につくり出されたカオスを解消するためには、この理論の中に統合されている3つの思想を分離しなければならない。

 第1に、それは民主主義革命から社会主義革命への移行の問題を含んでいる。基本的にはこれがこの理論の歴史的起源である。

 永続革命の概念は、19世紀半ばの偉大な共産主義者、マルクスとその同志たちが、〔ブルジョア〕民主主義イデオロギーに対抗して打ち立てたものである。このイデオロギーは、周知のように、「理性的」ないし民主主義的な国家の確立を通じて、すべての問題は平和的・改良主義的・漸進主義的方法で解決されるべきだ、と主張した。マルクスは、1848年のブルジョア革命が直接にプロレタリア革命に至るだろうとみなした。マルクスは「誤っていた」。しかし、彼の誤りは事実に関するものであって方法に関するものではなかった。1848年の革命は社会主義的革命には移行しなかった。しかし、まさにそれゆえ、この革命は民主主義を達成しえなかったのである。1918年のドイツ革命に関しても、それはブルジョア革命の民主主義的完成ではまったくなかった。それは社会民主主義によって絞殺されたプロレタリア革命であった。より正確にいえば、それはプロレタリアートに対する勝利の後にもエセ民主主義的形態を維持することを余儀なくされたブルジョア反革命であった。

 俗流「マルクス主義」は歴史発展のある図式を案出した。それによれば、あらゆるブルジョア社会は遅かれ早かれ民主主義的体制を確立する、そしてその後に、プロレタリアートは、民主主義体制のもとで、徐々に組織されていき、社会主義のために教育されていくというのである。その際、社会主義への移行それ自体についての考え方はさまざまだった。公然たる改良主義者たちは、この移行とは民主主義の中に社会主義的内容を改良主義的に詰め込むことだと考えた(ジョレス)。公式の革命派は、社会主義への移行に際して革命的暴力の不可避性を認めた(ゲード)。しかし、どちらのグループも、すべての国民と国家に関して、民主主義と社会主義とを、社会発展の別個の段階であるばかりでなく、互いに遠くかけ離れた2つの段階であるとみなした。こうした見解は、1905年当時、全体として第2インターナショナルの左翼に属していたロシア・マルクス主義者のあいだでも優勢であった。輝ける「ロシア・マルクス主義の父」プレハーノフは、プロレタリア独裁の思想を当時のロシアでは馬鹿げた夢想であると考えた。メンシェヴィキだけでなく、指導的ボリシェヴィキの圧倒的多数(ここには現在の党指導者が1人残らず含まれている)も同じ見地に立っていた。当時、彼らは断固たる革命的民主主義者であったが、彼らにとって社会主義革命の問題は、1905年のみならず、1917年の前夜においてすら、遠い未来の漠然たる音楽にすぎなかった。

 このような考え方と気分が、1905年に登場した永続革命論に宣戦を布告した。永続革命論が示したのは、後進的ブルジョア諸国の民主主義的課題はわれわれの時代においては直接にプロレタリアート独裁を導き、プロレタリアートの独裁は社会主義的課題を日程にのせるだろうということだった。ここに永続革命論の中心思想がある。プロレタリアート独裁への道は長期にわたる民主主義の時代を経るというのが伝統的意見であったのに対し、永続革命論は、後進国における民主主義への道はプロレタリア独裁を経ていると主張する。まさにそれゆえ、民主主義は何十年にもわたる自足的体制とはなりえないのであって、それはただ社会主義革命への直接の序曲でしかない。両者は切っても切り離せない絆で結ばれている。こうして、民主主義革命と社会の社会主義的改造とのあいだに、革命的発展の永続性が生じる。

 「永続」理論の第2の側面は社会主義革命をも永続的なものとして特徴づける。不確定の長期間にわたって、また不断の内部闘争を通じて、いっさいの社会的諸関係が変革される。社会は絶え間なくその姿を変えていく。社会改造の各段階は先行する段階から直接的に生じてくる。この過程は必然的に政治的性格を帯びるだろう。すなわち、変革過程にある社会のさまざまなグループ間の衝突を通じてそれは発展していく。内戦と対外戦争の勃発が「平和的」改革の時期と交互に入れ替わる。経済、技術、科学、家族関係、日常生活、習慣における革命は複雑な相反作用を通じて進行し、社会が均衡状態に達することを許さない。この点に社会主義革命の永続的性格が現われている。

 永続革命論の第3の側面をなしているのは社会主義革命の国際的性格であり、これは、人間の経済と社会構造の現状から生じている。国際主義は抽象的原理ではなくて、経済の世界的性格、生産力の世界的発展、階級闘争の世界的規模の、理論的・政治的反映である。社会主義革命は一国的基盤で始まる。だが、それはこの基盤の上では完成されえない。プロレタリア革命が一国的枠内にとどまることは、ソ連邦の経験が示すように、たとえ長くつづくにしても一時的な体制でしかありえない。しかしながら、孤立したプロレタリア独裁にあっては、内的および外的な諸矛盾は、成功とともに不可避的に成長していく。もしその後もずっと孤立しつづけたままであれば、プロレタリア国家は結局のところ、この矛盾の犠牲となって倒れるだろう。ここからの活路はただ一つ、先進諸国のプロレタリアートの勝利のみである。この観点からすれば、一国革命は自足的な全体ではない。それはただ国際的鎖の一つの環にすぎない。あらゆる一時的な下降や引き潮にもかかわらず、国際革命は永続的過程なのである。

 エピゴーネンの闘争は、常に同じ明確さをもってではないが、永続革命論のこの3つの側面すべてに矛先を向けている。これら3つの側面はいずれも分かちがたく結びついているのだから、そうでしかありえない。エピゴーネンは民主主義独裁と社会主義独裁とを機械的に切り離す。彼らは一国の社会主義革命を国際的な社会主義革命から切り離す。彼らは一国の境界内における権力の獲得は、彼らにとって事の本質上、革命の最初の行動ではなく最後の行動であり、その後は、改良の時期が開始され、それが一国社会主義社会をもたらすのだと考える。

 1905年には彼らは、ロシアにおいてプロレタリアートがヨーロッパよりも早く権力を獲得しうるという考え方を認めようとさえしなかった。1917年には、ロシアにおける自足的な民主主義革命を説いて、ロシアにおけるプロレタリアート独裁という考えを拒否した。1925〜27年には、彼らは中国において民族ブルジョアジーの指導による民族革命の路線をとった。その後彼らは、中国において労働者と農民の民主主義独裁のスローガンを掲げ、このスローガンをプロレタリア独裁のスローガンに対置した。彼らはソ連邦における孤立した自足的な社会主義社会の完全な建設の可能性を宣言した。彼らにとって国際革命は、勝利の不可欠の条件から、単なる有利な状況に変化した。こうしてエピゴーネンは、永続革命論に対する永続的闘争の過程で、マルクス主義からの深刻な断絶へ行き着いたのである。

 この闘争は、過去の歴史的記憶を人為的に復活させることと、遠い過去を偽造することをもって始まり、ついには革命の支配層の世界観を完全に改変させるにいたった。すでに一度ならず説明してきたように、このような価値観の転換はソヴィエト官僚の社会的要求に影響されたものであるが、このソヴィエト官僚は、ますます保守的になり、一国的秩序に腐心するようになり、彼らに特権的地位を保証したこの既成事実としての革命を、今や社会主義の平和的建設に十分であると認めるよう要求するに至った。ここで、このテーマに立ち返ろうとは思わない。ただ、官僚は自分たちの物質的・思想的立場と一国社会主義の理論との結びつきをきわめて強く意識している、ということだけは指摘しておこう。このことは、スターリニスト機構が、自分たちの予見しなかった諸矛盾に駆り立てられて、全力をあげて左に走り、昨日までの右派指導者たちにきわめて苛酷な打撃を与えているにもかかわらず、いやそれゆえにこそ、まさに今、最も鮮明に現わされている。官僚は反対派のスローガンとその論拠を大急ぎで借用したのだが、マルクス主義的反対派に対する彼らの敵意は、周知のごとく、いささかも衰えていない。工業化をはじめとする現在の路線を支持する目的で復党の問題を提起した反対派メンバーに対しては、何よりもまず永続革命の理論を非難し、たとえ直接的にではなくとも、一国社会主義の理論を容認するよう要求している。このことによってスターリニスト官僚は、一国改良主義的な戦略的基盤を維持したままでのその左転換の純粋に戦術的な性格を暴露したのである。このことの意味は説明するまでもないだろう。軍事と同じく政治においても、戦術は究極的には戦略に従属するのである。

 問題はとっくに「トロツキズム」に対する闘争という特殊な領域を越え出ていた。それは除々に拡大し、今日では革命的世界観の文字通りすべての問題を包含するに至っている。永続革命か一国社会主義か――この二者択一は同時にまた、ソ連邦の国内問題、東方における革命の展望、そして最後にコミンテルン全体の運命をも包含している。

 本書はこの問題をあらゆる側面から検討するものではない。他の著作ですでに述べたことを繰り返す必要はないからである。『コミンテルン綱領批判』〔『レーニン死後の第3インターナショナル』〕において、私は一国社会主義が経済的および政治的に維持しがたいものであることを理論的に明らかにしようとした。そこで展開した議論についてコミンテルンの理論家たちは完全に口をつぐんだ。おそらく、そうするより他に仕方がなかったのだろう。本書では、まず第一に、ロシア革命の内部問題に即して、1905年に定式化された通りの姿で永続革命の理論を復元した。次に、自分の立場が実際にレーニンとどの点で異なり、また決定的状況においては常に、いかにして、またなにゆえレーニンと一致したかを明らかにしている。最後に、私は、後進諸国のプロレタリアートにとって、したがってまたコミンテルン全体にとって、われわれが論じているこの問題の決定的意義を明らかにしようとしている。

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 エピゴーネンは永続革命論に対していかなる非難を浴びせたか? 批判者たちに見られる無数の矛盾を脇に置くならば、彼らの実に膨大な文書のいっさいは次のような諸命題にまとめることができるだろう。

 1、トロツキーはブルジョア革命と社会主義革命との違いを無視している。彼はすでに1905年にロシア・プロレタリアートは直接的に社会主義革命の課題に直面しているとみなした。

 2、トロツキーは農業問題をまったく忘却している。彼にとって農民は存在していなかった。彼は革命をプロレタリアートとツァーリズムとの一騎打ちとして描き出した。

 3、トロツキーは、世界ブルジョアジーがロシア・プロレタリアートの独裁の一定長期にわたる存続を許すとは思わず、西欧プロレタリアートが最短期間で権力を獲得してわれわれに援助を与えてくれないかぎり、ロシア・プロレタリアートの没落は不可避であるとみなした。これによってトロツキーはヨーロッパ・プロレタリアートが自国のブルジョアジーに対してかける圧力を過小評価した。

 4、トロツキーはロシア・プロレタリアートの力量も、また、独力で社会主義を建設しきる能力をもまったく信じていない。それゆえ彼はそのいっさいの希望を国際革命にかけてきたし、今でもかけている。

 これらの主張は、ジノヴィエフ、スターリン、ブハーリンらの無数の著作や演説に見られるだけでなく、ソ連共産党やコミンテルンの最も権威ある諸決議の中で定式化されている。それにもかかわらず、それらが無知と不誠実のアマルガムにもとづいていると言わざるをえない。

 最初の2つの主張は、後で示すように、まったくの嘘である。私はまさに革命のブルジョア民主主義的性格から出発して、農業問題の深刻さゆえに後進国ロシアのプロレタリアートは権力にまで登りつめることができるという結論に達したのである。私はまさにこの思想を1905年革命の直前に擁護した。この思想こそがまさしく、「永続」革命と呼ばれたものを、すなわち連続革命、ブルジョア的段階から直接に社会主義的段階へと移行する革命を、表現するものであった。これと同じ思想を表現するために、レーニンは後に、ブルジョア革命が社会主義革命に「成長転化する」という卓越した表現を用いた。スターリンはこの「成長転化」という概念を、後知恵的に(1924年になってから)、専制の王国から社会主義の王国への直接的飛躍としての永続革命論に対置した。この不幸な「理論家」は、もし問題が単なる飛躍にすぎないのだとしたら、そもそも革命の永続性とか、革命の連続性なる言葉がいったいいかなる意味をもつのか考えてみようとさえしなかったのである。

 第3の非難に関していえば、これは「巧みに」組織されたプロレタリアートの圧力によって帝国主義ブルジョアジーをいつまでも中立化することができるという、短命に終わったエピゴーネンの信念から生まれたものである。1924〜27年には、これがスターリンの中心思想をなしていた。その結実が英露委員会であった。パーセル、ラディッチ、ラフォレット、蒋介石らの助けを借りて世界ブルジョアジーの手足を縛る可能性が裏切られたことで、差し迫った戦争の危険に対する恐怖の激しい発作が起こった。コミンテルンは今なおこの時期を経過している真っ最中である。

 永続革命論に対する第4の反論は、要するにスターリンが1924年にはじめてソヴィエト官僚のためにでっち上げた一国社会主義論の観点を私が1905年に擁護しなかったと言っているにすぎない。この非難は純然たる歴史的珍品であろう。あたかも私の論敵たちが、1905年にロシアが独立した社会主義革命のための準備が整っていると考えていた――そもそも彼らがそのときに政治的に思考することができたらの話だが――かのようではないか。しかしながら、実際には、彼らは1905〜17年には、ロシア・プロレタリアートが西欧プロレタリアートより先に権力を獲得する可能性を私が認めたことで私をユートピア主義という罪で倦むことなく非難したのである。カーメネフとルイコフは1917年の4月にレーニンをもユートピア主義の罪で非難した。その際彼らは、ロシアの番が回ってくる前にまずイギリスおよびその他の先進諸国で社会主義革命が起こらなければならないのだとレーニンに説明した。スターリンも1917年4月4日までこの立場を擁護していた。彼が民主主義独裁とは対立的なプロレタリア独裁のレーニン主義的定式を取り入れたのは、徐々に、しかも多大な困難を経てでしかなかった。1924年の春になってもまだスターリンは、他の人々に追随して、ロシア一国だけを取り上げれば社会主義社会の完全な建設のためには成熟していないと繰り返していた。1924年の秋になって、永続革命論に対する闘争の中でスターリンははじめて、ロシアにおける孤立した社会主義建設の可能性を発見した。その後、赤色教授たちは、トロツキーが1905年に――何と恐ろしいこと!――ロシアが西欧プロレタリアートの援助がある場合のみ社会主義に達することができるとみなしていたことを「暴露する」ための引用文をスターリンのために掻き集めたのである。

 過去4半世紀にわたる思想闘争の歴史を取り上げ、それをはさみで細かく切り刻んで鉢の中でかき混ぜ、しかる後に盲人にその細片を貼り合わさせたとしても、その結果は、エピゴーネンが読者や聴衆に撒き散らしているナンセンスよりも理論的・歴史的にひどいものにはならないだろう。

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 昨日の問題と今日の問題との結びつきをより明確なものするためには、ここでたとえごく要約的にではあっても、コミンテルン指導部、すなわち、スターリンとブハーリンが中国で何をやったかを思い起してみなければならない。

 中国は民族解放革命に直面しているという口実のもとに、1924年以降、中国ブルジョアジーに指導的役割が認められた。民族ブルジョアジーの党である国民党が指導党として公式に認められた。ロシアのメンシェヴィキでさえ1905年にカデット(自由主義ブルジョアジーの党)に対しこれほどの極端には走らなかった。

 しかし、コミンテルン指導部はこれにとどまらなかった。彼らは中国共産党に対して国民党に参加し、その規律に服従する義務を課した。スターリンの特別電報によって、中国共産党は農地解放運動を抑制するように勧告された。蒋介石を反発させないよう、蜂起した労働者・農民に対しソヴィエトの結成を禁じた。1927年4月の始め、すなわち、上海に反革命クーデターが起こる数日前にモスクワで開かれた党会議において、スターリンは反対派から蒋介石を「信頼すべき同盟者」として擁護した。

 中国共産党を国民党のブルジョア指導部に公式に服従させ、ソヴィエトの結成を公式に禁止したことは(スターリンとブハーリンは国民党がソヴィエトを「代替する」と教えたものだ)、1905〜17年におけるメンシェヴィキのあらゆる行動よりも、はるかに深刻ではなはだしいマルクス主義の裏切りであった。

 1927年4月の蒋介石クーデターの後、汪精衛指導下の左派が一時的に国民党とたもとを分かつと、この人物はただちに『プラウダ』で信頼すべき同盟者だと歓迎された。実際には蒋介石に対する汪精衛の関係は、ミリュコーフに対するケレンスキーの関係と同じであって、違うのは、中国ではミリュコーフとコルニーロフが蒋介石という人物の中で一体となっていたことである。

 1927年4月以降は、中国共産党は「左翼」国民党に対する公然たる戦争を準備する代わりに、同党に入党し、中国のケレンスキーの規律に服従するよう命令された。この「忠実な」汪精衛は、かつてスターリンが信頼すべき同盟者と宣言した蒋介石に劣らぬくらい暴力的に中国共産党を、そしてそれとともに労働者・農民の運動を粉砕したのである。

 メンシェヴィキは1905年およびそれ以後にミリュコーフを支持したが、それでも自由主義政党には入らなかった。1917年、メンシェヴィキはケレンスキーと手に手をとって協力したが、それでも自らの独自の組織は保持した。中国でとったスターリンの政策はメンシェヴィズムにも劣る隣れなカリカチュアである。以上が、最初のそして最も重要な時期の状況であった。

 その後、こうした政策の必然的な果実――労働者農民運動の完全な衰退、共産党の士気阻喪と崩壊――が露わになると、コミンテルン指導部は「左向け左!」の命令を下し、ただちに労働者と農民の武装蜂起に移行するよう要求した。このようにして、抑圧され手足を縛られた若い共産党は、ほんの昨日までは蒋介石と汪精衛の「5番目の車輪」であって、したがって独立した政治的経験を少しも持たなかったのであるが、昨日までは国民党の名において抑制してきた労働者と農民を、この同じ国民党に対してただちに武装蜂起に決起させるよう指令されたのである。しかし、その間に、国民党は権力と軍隊をその手中に集中することができた。広東に一昼夜で虚構のソヴィエトが即席につくられた。ソ連共産党第15回大会の開会にあらかじめ時間を合わせて行なわれた武装蜂起は、中国の先進的労働者の英雄主義の現われであると同時にコミンテルの犯罪の現われでもあった。広東蜂起の前にも後にも、より小規模な冒険がなされた。以上が中国におけるコミンテルンの戦略の第2章であり、ボリシェヴィズムの最悪のカリカチュアと呼ぶべきものである。

 自由主義的日和見主義の章も、冒険主義の章も、中国共産党に深刻な打撃を与え、たとえ正しい政策をもってしても、この打撃から立ち直るには長い期間を要する。

 コミンテルンの第6回大会はこれまでの活動を総括し、それを全面的に承認した。それは驚くにはあたらない。同大会はまさにこの目的のために召集されたからである。この大会は将来にわたって「プロレタリアートと農民の民主主義独裁」というスローガンを確立した。この独裁が、一方では左右の国民党の独裁と、他方ではプロレタリアートの独裁と、どの点で異なるのかについては、中国共産党には説明されなかった。しかり、説明することができなかったからである。

 第6回大会は、民主主義独裁のスローガンを提出しながら、他方では、民主主義の諸スローガン(憲法制定議会、普通選挙権、言論出版の自由、等々)を容認しがたいものと宣言し、そのことによってまさに、中国共産党を軍事寡頭政治の前ですっかり武装解除してしまった。長年のあいだ、ロシアのボリシェヴィキは民主主義のスローガンの周りに労働者と農民を動員してきたし、民主主義のスローガンは1917年にも巨大な役割を果たした。すでに現実に存在していたソヴィエト権力が、全人民の目から見て憲法制定議会と非和解的な形で政治的に衝突するようになってはじめて、わが党は形式民主主義、すなわちブルジョア民主主義の諸機関とスローガンを、真のソヴィエト的民主主義、すなわちプロレタリア民主主義のために解体したのである。

 スターリンとブハーリンの指導下にあるコミンテルンの第6回大会はこのいっさいを引っ繰り返してしまった。それは一方では党に「プロレタリア」独裁ではなくして「民主主義」独裁を押しつけながら、他方ではこの独裁を準備するための民主主義的スローガンを利用するのを禁じた。中国共産党は武装解除されただけでなく、丸裸にされてしまった。その代わり、中国共産党は慰めとして、革命の高揚期には禁じられていたソヴィエトのスローガンを、反革命が無制限に支配している時期になってようやく与えられた。ロシアの民話のある有名な主人公は、葬式で結婚の歌を歌い、結婚式で送葬の歌を歌った。そのせいで彼はどちらでも拳骨を食らう。問題がただコミンテルン現指導部の戦略家たちが拳骨を見舞わされることにすぎないのなら、まったく我慢できる。しかし、ここで賭けられているものはもう少し大きい。問題はプロレタリアートの運命に関わっている。コミンテルンの戦術は中国革命に対する組織されたサボタージュに他ならなかった。このサボタージュは無自覚的なものであったがゆえになおさら徹底したものだった。このサボタージュは見事にうまくいった。なぜならば、1924〜27年におけるコミンテルンの右翼メンシェヴィキ的政策はボリシェヴィズムのあらゆる権威で覆われ、左翼反対派の批判に対してはソヴィエト権力の巨大な弾圧機構によって保護されていたからである。

 こうして、最初から最後まで永続革命に対する闘争の旗印のもとに遂行されたスターリニスト的戦略の完成された事例が成立した。それゆえ、民族ブルジョア政党たる国民党に対する中国共産党の従属を正当化した主たるスターリニスト理論家がかのマルトゥイノフであったのも、至極当然なのである。彼はメンシェヴィキの指導的人物であった1905年から、ボリシェヴィズムの陣営に移ってもなおその歴史的使命を遂行し続けた1923年にいたるまで、常に永続革命論に対する主要なメンシェヴィキ的批判者であった。

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 本書を執筆するにいたった経緯についての主要点は第1章で述べてある。アルマ・アタで私はじっくりとエピゴーネンとの理論的論争書を準備していた。同書の主要部分が永続革命の問題に当てられることになっていた。執筆中に私は、永続革命論とレーニンの戦略路線とを相も変わらず対立させようとするラデックの原稿を受け取った。ラデックは、スターリンの中国政策にどっぷりつかっていたので、このような唐突な攻撃を必要としたのである。ジノヴィエフとともにラデックは、蒋介石のクーデター前のみならず、その後でさえも、中国共産党の国民党への従属政策を擁護していた。ブルジョアジーへのプロレタリアートの隷属を正当化するために、ラデックは言うまでもなく、農民との同盟の必要性と私によるこの必要性の「過小評価」なるものを持ち出した。スターリンにならって彼もまた、ボリシェヴィキ的言辞でもってメンシェヴィキ的政策を擁護した。さらにこれまたスターリンにならって、プロレタリアートと農民の民主主義独裁の定式でもって、ラデックは、農民大衆の先頭に立ちつつ権力のための独立した闘争を遂行するという路線から中国プロレタリアートを逸脱させた誤りを覆い隠した。私がこのイデオロギー的仮装を暴露したので、ラデックにとって、日和見主義に対する私の闘争が実は永続革命論とレーニン主義との矛盾から生じたのだということを、レーニンからの引用で飾り立てて証明することが急務となったのである。ラデックは自らの犯した裏切りの罪の弁護人的弁論を、永続革命に対する検事的論告に変えた。このようなアピールは、彼にとって〔スターリンへの〕降服への橋渡しにすぎなかった。ラデックは数年前には永続革命論を弁護するパンフレットを書こうとしていたのだから、なおさら私にはこのように推測する正当な根拠があった。しかし、私は当時はまだラデックを急いで見限ることはしなかった。私はきわめて率直かつ断固として彼の論文に答えたが、それと同時に彼の退路を断たないように配慮した。私はラデックに対する回答を、それが当時書かれたままの形で印刷に付し、若干の注解を補足して文体を修正するにとどめた。

 ラデックの論文は機関紙に発表されなかったし、これから先も発表されることはないだろうと思われる。なぜなら、1928年に書かれたままでは、スターリンの検閲の目をとても通過できなかっただろうからである。ラデック自身にとってすら、今日ではこの論文はまったく破滅的であろう。というのは、それはラデックの思想的進化の様子をまざまざと示すものとなるだろうからである。その姿は、6階から舗装道路に身を投げる人の「進化」を彷彿とさせる。

 なぜ本書の中でラデックが、おそらくはその本来の重要性からすれば不釣合いなまでに大きなスペースを占めているのかは、以上の本書のいきさつによって十分説明されている。永続革命論に対する批判のうちラデック自身が考え出したものはただの一つもなかった。彼はエピゴーネンのエピゴーンとして振舞った。それゆえ、読者は、ラデックの中にただラデックその人を見るだけでなく、ある種の団体の代表者を見るべきである。ラデックは、マルクス主義の放棄という代償を払ってその団体の参加者――ただし権利の制限された参加者――となったわけである。それにもかかわらずラデックが自分の責任分担に比してあまりにも大きすぎる反撃を受けていると個人的に思ったならば、自分の裁量で、よりふさわしい人物にその打撃を回わすべきだろう。それはすでにその団体の内部問題であって、私としては何の異論もない。

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 ドイツ共産党のさまざまなグループは、永続革命に対する批判活動を指導する上での自グループの有用性を証明することによって党内権力に到達してきたし、あるいは権力を得ようと闘争してきた。しかし、これらすべての文献――マスロウやタールハイマー等々のそれ――は、わざわざ批判的回答を与えるまでもないぐらい惨めな水準である。現在の党指導者に任命されているタールハイマーやレンメレらは、問題の水準をさらに何段も下げた。これらすべての批判者たちは、問題の入り口にさえたどり着いていないことを示しただけであった。それゆえ彼らをそのまま入り口の前に放置しておこう。マスロウやタールハイマーの理論的批判に興味を持つ人には、本書を読んでから前述した論者の著作に戻ることをお勧めする。そうすれば、これらの人物の無知と不誠実さを確信することができるだろう。それはいわば、本書の読者として想定された人々にとっての副産物となろう。

   プリンキポ、1929年11月30日

   エリ・トロツキー

 

 目次)(チェコ版序文)(独英版序文)(仏版序文)(序論

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