第8章 マルクス主義から平和主義へ

 ラデックの論文の中でおそらく徴候的な意味で最も不安に感じさせる部分は、たしかにわれわれが取り組んでいる中心的テーマからは逸れるように見えるが、ラデックが今や中間主義の理論家に成り果てたという共通点でそのテーマと緊密に結びついている部分である。ここで問題にしているのは、一国社会主義の理論に対する軽く仮装された前金とでも言うべき論点である。この点についていささか詳しく論じなければならない。というのは、ラデックのこの「2次的な」誤りは、もっと発展すると他のすべての意見の相違を凌駕し、その量がついに質に転化してしまうことになるやもしれないからである。

 その問題とは、革命を外部から脅やかす危険についてである。ラデックは、レーニンが、「1905年におけるロシアの経済的発展水準では、この(プロレタリア)独裁は、もし、西欧プロレタリアートが助けにやってこないならば持ちこたえることができないであろう、ということを理解していた」(強調はトロツキー)と書いている。

 間違いだらけであり、何よりも歴史的展望がまったく破壊されている。実際にレーニンが一再ならず語ったのは、ロシアの民主主義独裁(けっしてプロレタリア独裁ではない)は、ヨーロッパの社会主義革命なくしては持ちこたえられないだろう、ということであった。この思想は、1906年のストックホルム党大会期におけるレーニンのすべての論文、演説(プレハーノフとの論争、土地国有化問題、等々)を1本の赤い糸で貫いている。当時、レーニンはそもそも、西ヨーロッパの社会主義革命に先立ってロシアでプロレタリア独裁が成立するかどうかという問題の立て方をしていなかった。しかし、現在、主要な問題はそこにあるのではない。「1905年におけるロシアの経済的発展水準では」とはどういう意味か? 1917年における経済水準では、事態はどうなのか? この発展水準の相違にもとづいて一国社会主義の理論が打ち立てられている。コミンテルンの綱領は、世界地図に格子状の線を引いて、自足的な社会主義建設に「適合した」地域と「適合しない」地域とに分け、それによって、一連の絶望的な袋小路となった革命戦略をつくり出した。経済発展水準の相違は、労働者階級の政治的力量にとって疑いもなく決定的な重要性を持ちうる。1905年には、われわれはプロレタリアート独裁に高まることができなかった。もっとも、民主主義独裁にさえも高まることはできなかったのだが。1917年には、われわれは民主主義独裁をも飲み込んだプロレタリアート独裁を樹立した。しかし、1905年の経済発展水準と同様、1917年の経済発展水準においても、西方プロレタリアートが時機を失せず援助に駆けつける場合のみわが国の独裁は持ちこたえることができ、社会主義へと発展することができるのである。もちろんのこと、この「時機」を前もって計算することはできない。それは、発展と諸闘争の進行の中で決定される。最終的かつ決定的な意義をもつ世界的力関係によって解決されるこの基本問題に比べれば、1905年と1917年のロシアの発展水準の相違など、それ自体いかに重要であっても、第2義的な要因でしかない。

 しかし、ラデックは、この発展水準へのあいまいな言及ではとどまらない。レーニンが革命の国内的諸問題と世界的な諸問題との結びつきを知っていた(あたりまえだ!)ことを指摘したのち、ラデックはこうつけ加える。

 「レーニンは、ロシアにおける社会主義独裁の維持と西欧プロレタリアートの援助との結びつきというこの概念を、トロツキーの度外れに誇張された定式、すなわち、それは国家的援助、すなわちすでに勝利した西欧プロレタリアートの援助でなければならないという定式によって極端化したりはしなかった」(強調はトロツキー)。

 告白するが、この文章を読んだ時、私は自分の目を信じることができなかった。いったい何でまたラデックは、エピゴーネンの武器庫からこの役立たずの武器を持ち出してきたのか? これは、われわれがまったく正当にも常に軽蔑してきたスターリン的俗悪さの臆病な焼き直し以外の何ものでもないではないか。レーニンはけっして、ブルジョア権力に対するヨーロッパ・プロレタリアートの圧力とプロレタリアートによる権力の獲得とをスターリン式に対立させなかっただけでなく、反対に、むしろ私よりも先鋭な形で、外部からの革命的援助の問題を定式化していた。第一革命の時期に、レーニンは、ヨーロッパにおける社会主義革命なくしては民主主義を(民主主義でさえ!)維持することができない、と倦むことなく繰り返していた。1917年〜1918年に、またその後の時期においても、レーニンはそもそも、ヨーロッパですでに開始されていた社会主義革命との結びつきを離れてわが国の革命の運命を考えたり評価したりすることはなかった。彼は、たとえば、「ドイツにおける革命の勝利なくしては、われわれの滅亡は不可避だろう」と直截に語った。彼がこう語ったのは、1905年の「経済水準」とは無関係な1918年のことであり、その際念頭に置かれていたのは、何十年もの先のことではなく、何ヵ月ではないにせよ数年単位で教えられるようなごく短い期間のことであった。

 レーニンは何十回とこう説明した。われわれが持ちこたえてこれたのは、「もっぱら、短期間(短期間だ!――L・T)われわれを国際帝国主義から守ってくれた特別の諸条件が形成されたからにすぎない」。さらに、「国際帝国主義は……どんな場合にも、またどんな条件のもとでも、けっしてソヴィエト共和国と共存することはできなかった。……ここでは衝突は不可避的である」。では結論は? それは、プロレタリアートの「圧力」やブルジョアジ―の「中立化」への平和主義的な希望であったのか? 否、結論は次のように述べられている。「ここに、ロシア革命の最大の困難があり……国際革命を呼びおこす必要性がある」(〔『レーニン全集』〕第15巻、126頁)(1)

 これが言われ書かれたのはいつか? ニコライ2世が革命の弾圧についてヴィルヘルム2世と交渉を行ない、私が「誇張された」定式なるものを提起していた1905年ではなく、1918年であり、1919年であり、それ以後の時期であったのだ。

 次に紹介するのは、レーニンがコミンテルンの第3回大会において過去を振り返りつつ述べた言葉である。

 「国際的な世界革命の支持がなければ、プロレタリア革命(わが国のだ――トロツキー)が勝利できないということは、われわれには明らかであった。革命前にも、また革命後にも、われわれは次のように考えていた。資本主義的にいっそう発展した他の国々に、今すぐにか、そうでないまでも、少なくとも早急に、革命が起こるか、さもなくばその反対の場合には、われわれは滅びるにちがいない、と。このように意識していたにもかかわらず、われわれはあらゆる状況のもとで、何が何でもソヴィエト制度を維持するためにすべてのことをした。というのは、われわれは、自分自身のために活動しているだけではなく、国際革命のためにも活動しているのだということを知っていたからである。われわれはこのことを知っていた。われわれは、10月革命以前にも、また革命の直後にも、さらにブレスト=リトフスク講和のときにも、何度もこの確信を表明した。そして、一般的に言えば、これは正しかった。だが、実際には、運動はわれわれが予期したほど一直線には進まなかった」(コミンテルン第3回大会議事録、354頁、ロシア語版)(2)

 1921年以降、運動は、われわれがレーニンとともに1917〜1919年に(1905年においてだけでなく)予期したようには一直線には進まなくなった。だがそれでもやはりそれは、労働者国家とブルジョア世界との非和解的な矛盾という線に沿って進んだのである。どちらかが滅びなければならなかった。労働者国家を、軍事的のみならず経済的にも滅亡の危険から守ることは、ただ西方におけるプロレタリア革命の勝利的発展によってのみ可能となる。この問題において、レーニンの立場と私の立場という2つの異なった立場を発見しようと試みることは、理論的堕落のきわみであろう。せめてレーニンを読み直し、レーニンを誹謗せず、すっかり冷めたスターリン的ごった煮をわれわれの口に押し込むのはやめてくれたまえ。

 しかし、堕落はここで終わらない。あたかもレーニンが世界プロレタリアートの「単純な」(本質的には、改良主義的・パーセル的)援助で十分だとみなしていたのに、トロツキーは、国家的、すなわち革命的援助を「誇張して」要求していたかのような物語を発明したのち、ラデックはこう続ける。

 「経験は、この点に関してもレーニンが正しかったことを示した。ヨーロッパ・プロレタリアートは、権力を奪取することはまだできなかったが、世界ブルジョアジーが干渉期にわれわれに対して強力な軍事力を投入するのを妨げるには十分強力であった。労働運動に対する恐怖は、資本主義世界の諸矛盾と並んで、干渉終結以後の8年間も平和の維持をわれわれに保障してきた主要な力なのである」。

 この部分は、現代の文筆官僚の中で独創性の点で異彩を放つとはいかないが、それでも、歴史的アナクロニズムと政治的混乱と最も深刻な原則上の誤りとを結びつけている点で注目に値する。

 ラデックのこの文言からすると、レーニンは1905年にその小冊子『民主主義革命における社会民主党の2つの戦術』(これは、ラデックが言及している唯一の著作である)の中ですでに、1917年以降の諸国家と諸階級の力関係が長期にわたってわれわれに対する大きな軍事干渉の可能性を排除するものになるだろうとの予言をしていたことになる。それに反して、トロツキーは1905年に、帝国主義戦争後に必然的に起こる事態を予見せず、強大なホーエンツォレルンの軍隊、非常に強力なハプスブルクの軍事力、全能のフランス金融資本、等々の当時の現実のみを考慮に入れていた、というわけである。これは実に奇怪なアナクロニズムであり、しかも滑稽な内的矛盾によっていっそう複雑なものとなっている。というのも、ラデックによれば、私の主要な誤りは、「1905年の発展水準で」すでにプロレタリアート独裁の展望を提起したという点にあるからである。さて今では、第2の「誤り」が明らかになっている。私は、1905年革命の前夜に提起したプロレタリアート独裁の展望を、1917年以降になってはじめて生起した国際情勢の中に位置づけなかった、というのである。これがスターリンのおなじみの議論であればわれわれは驚かない。なぜなら、われわれは、彼の「発展水準」が1917年でも1928年でも同じだということを知りすぎるほど知っているからである。しかし、どうしてラデックがその仲間に加わったのか?

 けれども、これでもまだ最悪のものではない。最悪なのは、ラデックが、マルクス主義を日和見主義から、革命的立場を平和主義的立場から分かつ境界を飛びこえてしまったことである。その境界とは、戦争に反対する闘争の問題、すなわち、いかなる手段と方法で戦争を阻止ないし停止しうるのか、ブルジョアジーに対するプロレタリアートの圧力によってか、それともブルジョアジーを打倒する内乱によってか、という問題に他ならない。ラデックは意図することなく、まさにこのプロレタリア政治の根本問題を、われわれとの論争の場に引き入れたわけである。

 ラデックは、私がそもそも農民を「無視」しただけでなく、ブルジョアジーに対するプロレタリアートの圧力をも「無視」し、もっぱらプロレタリア革命だけを考慮に入れている、とでも言いたいのだろうか? まさか彼が、テールマン、セマール、モンムーソーとかいった連中にふさわしいたわごとを支持するようになったとでもいうのか! コミンテルンの第3回大会において、当時の極左主義者(ジノヴィエフ、タールハイマー、テールマン、ベラ・クン、等々)は、ソ連邦を救う道だと称して、西方における一揆主義の戦術を擁護した。レーニンとともに私は、できるだけ平易に次のことを彼らに説明した。われわれのために革命的冒険を即興的に演じるのではなく、系統的かつ計画的に自らの陣地を強化し権力の獲得を準備することこそが諸君の側からなしうる最良の助けとなるだろう、と。当時ラデックは、遺憾ながら、レーニンとトロツキーの側にはなく、ジノヴィエフとブハーリンの側にあった。しかしラデックは、もちろんのこと、レーニンと私による議論の核心がまさに、極左主義者の不合理なまでに「誇張された定式」に対する闘争にあったことを覚えているはずである――いずれにしろ、第3回大会の議事録がこのことを思い起させてくれるだろう。しかしながら、当時われわれマルクス主義者は、党の強化とプロレタリアートの増大する圧力は、国内外においてきわめて重要な要因であると説明した上で、次のようにつけ加えた。「圧力」は権力のための革命的闘争の一機能にすぎず、全面的に後者の発展に依存している、と。まさにそれゆえレーニンは、同じ第3回大会の最後に、代議員の大規模な特別会議の場で、受動的・待機的傾向を批判した演説を行なったが、それはほぼ次のような教訓にまとめることができるものであった。冒険は必要ではない、しかし、親愛なる友人たちよ、それでもやはりちょっと急いでくれたまえ、「圧力」だけではわれわれは長く持ちこたえることができないのだから。

 ラデックは、ヨーロッパ・プロレタリアートが世界大戦後に権力を握ることはできなかったがブルジョアジーがわれわれを打倒するのを防いだ、と指摘している。このことについては、われわれも何度となく語る機会を持った。しかしながら、ヨーロッパ・プロレタリアートがわれわれの破滅を防ぐことに成功したのはただ、彼らの圧力と並んで帝国主義戦争の最も過酷な客観的結果が存在し、それによって世界的な対立と矛盾が先鋭化していたからこそである。これらの諸要素――帝国主義陣営の内部闘争、経済的崩壊、プロレタリアートの圧力――のうちのどれが最も決定的な意義を持っていたかについて答えることはできないし、そもそも問題をそのように立てるのはナンセンスであろう。しかし、平和的な圧力だけでは不十分であることは、あらゆる「圧力」にもかかわらず帝国主義戦争が勃発したという事実によって十分すぎるほどはっきりと証明されている。最後に、そしてこれが最も重要なポイントなのだが、ソヴィエト共和国の最初の最も危機的な年月にヨーロッパ・プロレタリアートの圧力が実際に効果的であったするならば、それはもっぱら、ヨーロッパの労働者にとって当時問題となっていたのが単なる「圧力」ではなく、権力獲得のための闘争であり、しかもその闘争が何度となく内乱の形態を取ったからに他ならないのである。

 1905年のヨーロッパには戦争も経済的崩壊もなく、資本主義と軍国主義は狂暴なまでに血気盛んであった。当時の社会民主主義の「圧力」は、ヴィルヘルム2世とフランツ・ヨーゼフがその軍隊をポーランド王国に派遣してツァーリの援助にかけつけるのを防ぐには、あまりにも無力であった。しかし、1918年においても、ドイツ・プロレタリアートの圧力は、ホーエンツォレルン家の軍隊がバルト海沿岸地方とウクライナを占領するのを妨げることはできなかった。ドイツ軍がモスクワまで侵攻しなかったのは、彼らの軍事力が不十分なものであったからにすぎない。そうでなければ、どうしてわれわれがブレスト講和を結んだりするだろうか? ほんの昨日のことが何と容易に忘却されてしまうことだろう! レーニンは、プロレタリアートの「圧力」に期待することで満足するのでなく、何度となく、ドイツ革命なしにはわれわれは間違いなく滅びるだろうと語った。期間は延びたとはいえ、これは本質的には正しかった。幻想は不要である。われわれは日付のない支払猶予の証書を受け取ったにすぎない。われわれは、以前と同じように、「息つぎ」の状況のもとで生きているのである。

 プロレタリアートがいまだ権力を奪取してはいないが、ブルジョアジーがその権力を戦争に用いるのを妨げているという状態は、不安定な階級的均衡を示す最高度の表現である。不安定な均衡と呼ぶのは、そのような状態は長く続くものではないからである。事態は次のいずれかの側に発展するにちがいない。すなわち、プロレタリアートが権力に到達するか、ブルジョアジーが一連の徹底した弾圧によって革命的圧力を弱め、自己の行動の自由を、何よりも戦争と平和の問題に関する行動の自由を取り戻すようになるか、である。

 ただ改良主義者のみが、ブルジョアジーに対するプロレタリアートの圧力を、永続的に増大していく要因として、また干渉に対する保証として考えることができる。まさにこのような観念から生まれたのが、世界ブルジョアジーを中立化することによって一国で社会主義を完全に建設することができるという理論なのである(スターリン)。日が暮れてから飛ぶミネルバの梟(ふくろう)のように、プロレタリアートの圧力によるブルジョアジーの中立化というスターリンの理論は、この理論をもたらした諸条件が消滅しようとするまさにその時に提起された。

 戦後期の経験に対する誤った解釈が、ヨーロッパ・プロレタリアートによる革命がなくても「支持」一般で代用すればやっていけるという偽りの希望をもたらした一方で、世界情勢はその間に大きな転換を遂げつつあった。プロレタリアートの敗北は資本主義の安定化への道を切り開いた。戦後における資本主義の経済的崩壊は克服された。帝国主義戦争を経験していない新しい世代が成長してきた。その結果、今やブルジョアジーは、5〜8年前より自由に自らの戦争マシーンを扱うことできるようになった。

 労働者大衆の左傾化がいっそう発展すると、再びブルジョア国家に対する労働者の圧力は疑いもなく増大するだろう。だがこの要因は両刃的である。まさに労働者大衆の側からのますます増進する危険性こそが、ある一定の段階で、ブルジョアジーをして、自分が国の主人がであることを示し、悪疫の主要な発生地たるソヴィエト共和国を破壊することに向けた決定的な一歩へと駆り立てるのである。戦争に反対する闘争は、政府に対する圧力によってではなく、権力のための革命闘争によって決定される。プロレタリアートの階級闘争の「平和主義的」効果は、その改良主義的効果と同じく、権力のための革命闘争の副産物にすぎない。それは相対的な効果しか有しておらず、容易に反対物に転化しうる。すなわち、ブルジョアジーを戦争の道へ駆り立てる可能性もある。ラデックは労働者運動に対するブルジョアジーの恐怖なるものをまったく一面的に持ち出しているが、それは、すべての社会平和主義者の基本的願望に他ならない。しかし、革命に対する「恐怖」だけでは事態は何ら決しない。事態を決するのは革命である。レーニンが、1905年に君主主義的復古を免れる唯一の保障はヨーロッパにおけるプロレタリアートの圧力ではなく、その革命的勝利であると述べ、1918年には資本主義的復古についても同じことを述べたのは、まさにこの理由によるのである。これが、唯一正しい問題設定である。「息つぎ」が長期的な性格を持つようになったにもかかわらず、レーニン的な問題設定は依然として完全に有効である。私もまさにこのような問題設定を行なった。1906年に『総括と展望』の中で私は次のように書いている。

 「まさにプロレタリアートの反乱に対するこの恐怖こそが、巨額の軍事支出に賛成票を投じるブルジョア政党をして、平和支持のもったいぶった宣言をさせ、国際仲裁裁判所や、挙げ句のはてはヨーロッパ合衆国の組織化さえ夢想させているのだ。だが、そうした惨めな宣言によっては、国家間の対立も武力衝突も遠ざけることなどできないことは言うまでもない」(『われわれの革命』、「総括と展望」、283頁)(3)

 〔コミンテルン〕第6回大会の基本的誤りは、スターリン=ブハーリンの平和主義的・民族改良主義的展望を救うために、戦争に反対する闘争と権力のための闘争とを分離したうえで、戦争の危険性に対抗する革命技術的な処方箋を振りかざしはじめた点にある。

 第6回大会の理論的指導者たちは、本質的には、驚愕した平和主義者で不安に駆られた一国社会主義建設論者にすぎないのだが、「圧力」をかけるという手法を強化することでブルジョアジーの「中立化」を恒久的なものにしようと悪戦苦闘している。だが、これまでの自分たちの指導が一連の国で革命の敗北をもたらし、プロレタリアートの国際的前衛をはるか後方に投げ戻したことに気づかないわけにはいかなかったので、彼らは真っ先に、戦争の問題を革命の問題と不可分に結びつけているマルクス主義の「誇張された定式」を片づけようとした。彼らは、戦争に反対する闘争を自足的な課題に転化した。各国の共産党が決定的な瞬間を寝過ごすことのないよう、戦争の危険性が、永続的で差し迫っており猶予のないものだと宣言した。世界で起こっているいっさいのことは、戦争目的のために起こっている。今や戦争は、もはやブルジョア体制の道具ではなく、ブルジョア体制の方が戦争の道具なのである。その結果、戦争に反対するコミンテルンの闘争は、あらゆる場面で機械的に繰り返される新鮮味のない儀式的な紋切り調のシステムと化し、活力も実際の効力も失ってしまっている。スターリンの民族社会主義は、コミンテルンを、ブルジョアジーに対する「圧力」の補助的道具に転化する傾向を有している。マルクス主義ではなくまさにこのような傾向こそ、ラデックが拙速でいいかげんで考え抜かれていない批判をするのを助長しているのである。羅針盤を失なってしまったラデックは、彼をまったく違った岸へと運びかねない見知らぬ流れに巻き込まれている。

1928年10月

アルマ・アタにて

 

  訳注

(1)レーニン「戦争と講和についての報告」、邦訳『レーニン全集』第27巻、86頁。

(2)レーニン「ロシア共産党の戦術についての報告」、邦訳『レーニン全集』第32巻、512頁。

(3)トロツキー「総括と展望」、前掲『わが第一革命』、370頁。

 

 目次)(チェコ版序文)(独英版序文)(仏版序文)(序論

1章)(2章)(3章)(4章)(5章)(6章)(7章)(8章)(9章)(10章                           

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