第2章 永続革命はプロレタリアートによる「飛躍」ではなく、プロレタリアートの指導下での国民の再建である

 ラデックは書いている――「『永続革命』の理論と戦術(注意、「戦術」もだ!――L・T)と呼ばれる思想体系をレーニンの理論から区別する本質的特徴は、ブルジョア革命の段階を社会主義革命の段階と混同している点にある」。

 この根本的非難と関連して、あるいはその結果として、これに劣らず重大な非難がいくつか生じる。トロツキーは「ロシアの状況にあっては、社会主義革命は民主主義革命から成長転化しないでは不可能だ」ということを理解せず、ここから「民主主義独裁の段階の飛び越え」が生じる。トロツキーは農民の役割を「否定する」が、この点で「トロツキーとメンシェヴィキの見解は共通」している。以上のことから、すでに述べたように、状況証拠の積み重ねによって、中国革命の根本問題における私の立場の誤りが証明されることになる。

 たしかに、形式的・文献的な面では、ラデックはここかしこでレーニンを引き合いに出すことができる。彼は実際にそうしている。誰でもこの種の引用部分を「手元に」もっている。しかし、私が以下に示すように、私に関するこれらのレーニンの主張は、純粋にエピソード的な性格のもので、しかも正しくない。すなわち、それはいかなる意味でも、1905年における私の真の立楊を特徴づけてはいない。レーニン自身、革命の根本問題に関する私の立場に関して、まったく異なった、正反対の、そしてはるかに根拠のある評価を行なっている。ラデックは、レーニンのまったく異なった、時には正反対でさえある諸評価を集めて相互に照らし合わせようとさえしなかったし、私の実際の見解と比較することによってそれらの評価の論争上の矛盾を解明しようともしなかった

※原注 コミンテルン執行委員会第7回総会で、現在ラデックが持ち出しているのと同じ引用文をブハーリンが持ち出したとき、私は「しかし、レーニンにはまったく正反対の引用文もある」と席から叫んだことを覚えている。ブハーリンはしばらく困惑したのち、「わかってる、わかってる。だが、私は自分に必要な引用を行なったのであって、君に必要な引用を行なったのではない」と答えた。これが、この理論家の精一杯の機知であった!

 1906年、レーニンは、ロシア革命の推進力に関するカウツキーの論文(1)を自らの序文つきで出版した。私はこのことをまったく知らずに、自分も獄中で同じカウツキーの論文を翻訳して、それに序文をつけ、『党の擁護』という自分の著書に収録した。レーニンも私もカウツキーの分析とまったく同意見であると表明した。わが国の革命はブルジョア革命か社会主義革命かというプレハーノフの質問に対して、カウツキーは、それはもはやブルジョア革命ではない、しかしまだ社会主義革命でもない、すなわち、それはブルジョア革命から社会主義革命への過渡的形態を現わしていると答えた。この点についてレーニンは序文の中で次のように書いている。

 「わが国の革命は、その一般的性格からみて、ブルジョア革命なのか、それとも社会主義革命なのか? これは古い紋切型である、とカウツキーは言う。問題をこういうふうに出してはならない、それはマルクス主義的ではない。ロシアにおける革命はブルジョア革命ではない。なぜならブルジョアジーは、現在におけるロシア革命運動の推進力を構成してはいないからである。だがロシア革命は社会主義革命でもない」(第8巻、82頁)(2)

 しかし、当時レーニンが書いたものの中には――そしてこの序文の後でさえ――ロシア革命を無条件でブルジョア革命と呼んでいる文章が少なからず見られる。これは矛盾であろうか? もし現在の「トロツキズム」批判者の手法にのっとってレーニンにアプローチするならば、このような矛盾は難なく何十、何百と見つかるだろう。しかし、真面目で良心的な読者にとっては、それは異なった時期における異なったアプローチの仕方として説明されうるのであって、けっしてレーニンの概念の基本的な統一性を犯すものではない。

 他方、私は革命の当面する歴史的課題という意味において革命のブルジョア的性格を否定したのではけっしてなく、ただその推進力とその展望という意味において否定しただけであった。当時(1905〜06年)における永続革命に関する私の基本的論述は次のような文章で始まっている。

 「ロシアの革命は社会民主党を除くすべての人々にとって予期せざるものであった。マルクス主義は、以前からロシア革命の不可避性を予言していた。ロシア革命は、発展しつつある資本主義の力と沈滞した絶対主義の力との衝突の結果として、勃発せざるをえなかった。マルクス主義は、来るべき革命の社会的内容をあらかじめ見定めていた。それをブルジョア革命と呼ぶことによって、マルクス主義は、革命の直接的な客観的課題が全体としてのブルジョア社会の発展のための『正常な』条件を創出することにあることを指摘していた。
 マルクス主義の正しさは明らかになった――そして、もはやこのことを言い争ったり証明したりする必要はない。マルクス主義者の前にあるのは、まったく別の種類の課題、すなわち、発展しつつある革命の内的メカニズムを分析することによって、その革命の『可能性』を明らかにすることである。……
 ロシア革命はまったく独特な性格を持っている。この独特な性格は、わが国における社会的・歴史的発展全体の特珠性の結果であるが、それはまた、まったく新しい歴史的展望を切り開くものでもある」(『われわれの革命』、1906年、「総括と展望」、224頁)(3)
 「ブルジョア革命という一般的な社会学的規定は、個々のブルジョア革命が提起する政治的・戦術的諸課題、諸矛盾、諸困難を解決するものではけっしてない」(同前、249頁)(4)

 このように、私は、当時日程にのぼっていた革命のブルジョア的性格を否定したり、民主主義と社会主義とを混同したりはしていなかった。しかし、わが国ではブルジョア革命の階級的弁証法がプロレタリアートを権力の座につけるであろうこと、また、プロレタリアートの独裁なくしては民主主義的課題さえ解決されえないであろうことを証明しようとした。同じ論文(1905〜06年)で次のように述べられている。

 「プロレタリアートは資本主義の成長とともに成長し、強固になる。この意味で資本主義の発展は、プロレタリアートの独裁に向けての発展である。しかし、権力が労働者階級の手に移行する日時は、生産力の水準に直接依存しているのではなく、階級闘争の諸関係や国際情勢に、さらには、伝統やイニシアチブ、闘争準備といった一連の主体的契機にも依存している…。
 経済的により後進的な国で、先進資本主義諸国よりも早くプロレタリアートが権力に就くことは可能である。……プロレタリア独裁を国の技術的な力と手段に何か自動的な形で依存させる考え方は、極端なまでに単純化された『経済主義的』唯物論の偏見である。このような見解はマルクス主義といかなる共通点もない。
 ロシア革命は、われわれの意見によれば、ブルジョア自由主義の政治家たちがその政治的能力を全面的に発展させる可能性を得る以前に、権力がプロレタリアートの手に移りうる(革命が勝利すれば移るにちがいない)ような条件をつくり出している」(同前、245頁)(5)

 これらの文章は、俗流「マルクス主義」――それは1905〜06年に支配的であっただけでなく、レーニン到着前の1917年のボリシェヴィキ3月協議会をも席巻し、1917年の4月協議会ではルイコフによって最も明瞭な形で表明された――に対する論争を含んでいる。コミンテルン第6回大会において、この似非マルクス主義――すなわち、スコラ哲学によって堕落させられた俗物の「常識」――は、クーシネンその他大勢の者たちの演説の「科学的」基盤をなした。しかもこれは10月革命から10年も後のことなのだ!

 「総括と展望」における思想の過程の全体をここで記述することはできないので、私が『ナチャーロ』紙(1905年)に書いた論文からより要約的な文章を引用しておこう。

 「わが国の自由主義ブルジョアジーは、革命が最高潮に達するずっと以前に、反革命的に行動している。わが国のインテリゲンツィア的民主主義派は、危機的瞬間に際会するたびにその無力をさらけ出すだけである。農民は全体として自然発生的な反乱勢力であり、彼らを革命に奉仕させることができるのは、自己の手中に国家権力を掌握する勢力のみである。……革命闘争における労働者階級の前衛的地位、彼らと革命的農村とのあいだの直接的な結びつき、軍隊を感化して自己に服従させる力――これらすべてが労働者階級を不可避的に権力へと押しやる。革命の完全な勝利は、プロレタリアートの勝利を意味する。このことはまた、革命のさらなる連続性を意味する」(『われわれの革命』、172頁)(6)

 このように、プロレタリアート独裁の展望は――ラデックが書いていることとは反対に――まさにこのブルジョア民主主義革命から成長してくる。だからこそ、革命は「永続的(連続的)」と呼ばれるのである。しかし、プロレタリアートの独裁は――ラデックの考えるところとは違って――民主主義革命が完遂された後に現われるのではない。ロシアではそういうことはまったくありえないだろう。というのも、後進国では、もし農民解放の課題がプロレタリア独裁に先立つ段階で解決されたならば、住民の中の少数部分でしかないプロレタリアートは権力を獲得することができないからである。いや、プロレタリアートの独裁がブルジョア革命にもとづいて可能であるだけでなく不可避でさえあると考えられるのはまさに、土地革命の課題を解決すべき他のいかなる勢力も方法も存在しないからこそなのである。だが、まさにこのことによって、民主主義革命の社会主義革命への成長転化の展望も切り開かれるのだ。

 「無力な人質としてではなく、指導的な勢力として政府に参加する以上、プロレタリアートの代表はまさにそのことによって、最小限綱領と最大限綱領との境界を突破しているのであり、すなわち、集産主義を日程にのぼせているのである。この方向においてプロレタリアートがどの地点で押しとどめられるかは、力関係によるのであって、プロレタリア政党の所期の意図によるのではない。
 まさにそれゆえ、ブルジョア革命におけるプロレタリア独裁の何らかの特殊形態、すなわちプロレタリアートの(あるいはプロレタリアートと農民の)民主主義独裁のようなものは、問題になりえないのである。労働者階級は、自らの民主主義綱領の枠を乗り越えずには、自らの独裁の民主主義的性格を保証することはできないであろう。この点に関しては、いかなる幻想も完全に致命的であろう。それは、はじめから社会民主党の権威を失墜させるであろう。
 プロレタリアートの党は、ひとたび権力を掌握したなら、最後までこの権力のために闘うであろう。権力を維持し強化するためのこの闘争の一つの手段が煽動と組織化、とくに農村におけるそれであるとすれば、他の手段は集産主義の政策である。集産主義は、権力に就いた党の地位から不可避的に出てくる帰結であるだけでなく、この地位をプロレタリアートに依拠しつつ維持する手段でもある」(「総括と展望」、258頁)(7)

 さらに、私が1908年にメンシェヴィキのチェレヴァーニンを批判した論文の中ではこう述べられている。

 「資本主義ブルジョアジーの支配のための諸条件が、勝利せるサンキュロットの恐怖政治的独裁によって準備された革命の古典的実例をわれわれは知っている。それは、都市住民の大部分が職人と商人の小ブルジョア層で構成されていた時代のことであった。この層を率いたのがジャコバン派だった。今日、ロシアにおける都市住民の大部分を構成しているのは、工業プロレタリアートである。このアナロジー一つとってみても、『ブルジョア』革命の勝利がプロレタリアートによる革命権力の獲得によってはじめて可能になるような歴史的状況の可能性が示唆されている。そのことによって革命はブルジョア的であることをやめるだろうか? しかりでもあり、否でもある。これは形式的な定義に依存しているのではなく、諸事件の今後の発展に依存している。もしプロレタリアートが、自らが解放した農民を含むブルジョア諸階級の連合によって打倒されるならば、その時、革命はその制限されたブルジョア的性格を保持するだろう。だが、もしプロレタリアートが、ロシア革命の国民的枠を突破するために、その政治的支配の全手段を行使することが可能であり、あえてそうするならば、その時には、ロシア革命は世界的な社会主義大変革の序曲となることができるだろう。ロシア革命がいかなる段階にまで到達しうるかという問題に対しては、もちろん、条件付きの回答しかできない。だが、一つのことだけは絶対に疑いない。ロシア革命をブルジョア革命とする抽象的な定義は、その内的な発展形態について何も語らないに等しいのであり、またそれはけっして、プロレタリアートが、国家権力の唯一の合法的請求者を自称するブルジョア民主主義派の行動に自己の戦術を順応させなければならないということを意味するものではない」(L・トロツキー『1905年』、ロシア語版、263頁)(8)

 さらに同じ論文から。

 「わが国の革命は、それを生み出した直接的な課題からすればブルジョア革命であるが、都市の産業人口における極端な階級分化のせいで、自己の社会的重みと政治的経験を人民の革命的エネルギーに結びつけることによって人民大衆の先頭に立つことができるようなブルジョア階級が存在しない。自らの力以外に頼るべき手段をもたない抑圧された労働者・農民大衆は、容赦のない闘争と過酷な敗北という厳しい学校の中で、自分たちの勝利のために必要な政治的・組織的前提条件をつくり出していかなければならない。彼らに他の道は存在しない」(L・トロツキー『1905年』、267〜268頁)(9)

 最も激しく砲火にさらされている点である農民問題に関して、「総括と展望」からもう一つ引用しておかねばならない。「権力に就いたプロレタリアートと、農民」という特別の1章には、次のようにある。

 「プロレタリアートは、革命の基盤を拡大することなしには自らの権力を打ち固めることはできない。
 勤労大衆の多くの諸階層、とりわけ農村における諸階層は、革命の前衛たる都市プロレタリアートが国家権力を獲得した後ではじめて革命に引き込まれ、政治的に組織されるであろう。革命的煽動や組織化は、国家的手段を用いて遂行されるであろう。さらには、立法権力そのものが人民大衆の革命化を促進するための強力な手段となろう。……
 農民――階層としてのすべての農民とさえ言ってよい――の最も基本的で革命的な利益の運命は、革命全体の運命に、すなわちプロレタリアートの運命に結びついている。
 権力に就いたプロレタリアートは、農民の前に、彼らを解放する階級として登場するであろう
 プロレタリアートの支配は、民主主義的平等、自由な自治、すべての租税負担を有産階級に転嫁すること、常備軍を武装人民に溶解させること、義務的な教会募金を廃止することなどを意味するだけでなく、農民が実行する土地関係のすべての革命的再編(地主の土地収奪)を承認することをも意味するであろう。プロレタリアートは、この再編を農業分野における今後の国家的措置の出発点にするであろう。
 かかる状況のもとでは、ロシアの農民は、いずれにしても、最初の最も困難な時期にプロレタリア体制(「労働者民主主義」)を支持することに利益を有するであろう。それは、フランスの農民が、新しい所有者たる自分たちに土地の不可侵性を銃剣の力で保障してくれたナポレオン・ボナパルトの軍事体制を支持することに利益を有していたことに優るとも劣らないであろう。……
 しかし、もしかすると、農民自身がプロレタリアートを押しのけて、自らその地位を占めるのではあるまいか? 
 これは不可能である。すべての歴史的経験がそうした予想に反駁している。歴史的経験は、農民が独立した政治的役割を担う能力を完全に欠いていることを示している」(「総括と展望」、251頁)(10)

 すべてこれらは1929年や1924年に書かれたものでなく、1905年に書かれたものである。これがどうして「農民の無視」に見えるのかぜひとも知りたいものだ。ここのどこに農業問題の「飛び越え」があるのか? 友人諸君、そろそろ良心に目覚めてもいい頃ではないのか。

 では、スターリンの場合、まさにこの「良心」がどうなっているかを見てみよう。1917年の2月革命に関して私がニューヨークで執筆した諸論文(11)はそのあらゆる基本点で、レーニンのジュネーヴでの諸論文と一致しているが、これについてこの党内反動の理論家は次のように述べている。

 「同志トロツキーの手紙は、その精神においてもその結論においてもレーニンの手紙とは『似ても似つかない』。なぜなら、それらの手紙は、彼の反ボリシェヴィキ的スローガン――『ツァーリではなく労働者政府を』、すなわち農民ぬきの革命を意味しているスローガンに完全かつ全面的に立脚していたからである」(1924年11月19日における全ソ労働組合中央評議会党フラクション会議における演説)(12)

 「ツァーリではなく労働者政府を」が「反ボリシェヴィキ的スローガン」(トロツキーのものだという)だとする以上の言葉は、実に奇妙に聞こえる。スターリンによれば、どうやらボリシェヴィキのスローガンは、「労働者政府ではなくツァーリを」というものでなければならないらしい。それはさておき、トロツキーの「スローガン」なるものについてもう少し話を進めよう。ここで、現代思想を統べるもう1人の権力者であり、もう少し学はあるが、理論的な良心を完全になくしてしまった人物の言うことに耳を傾むけよう。それはルナチャルスキーである。

 「1905年、レフ・ダヴィドヴィチ・トロツキーは次のような考えに傾いていた。すなわち、プロレタリアートは孤立していなければならない(!)、ブルジョアジーを支持してはならない。なぜなら、それは日和見主義となるからだ。しかし、プロレタリアートだけで革命を遂行することはきわめて困難である。なぜなら、当時プロレタリアートは全人口のわずか7〜8%にすぎず、そのような少数のカードルでは闘争を最後まで遂行することはできないからである。かくして、レフ・ダヴィドヴィチは、プロレタリアートはロシアにおいては永続革命を支持しなければならない、すなわち、できるかぎり大きな結果を追い求めて、この大火の火の粉が全世界の火薬庫を爆発させるまで闘争を継続しなければならないとしたのである」(『ソヴィエト権力』第7号、1927年、A・ルナチャルスキー「10月革命の性格規定によせて」、10頁)。

 火の粉が火薬庫を爆発させるまでプロレタリアートは「孤立していなければならない」…。自分たち自身の「火の粉」によって脅かされているにもかかわらずいまだ「孤立」していない他の人民委員たちが何と結構なことを書いていることか。しかし、われわれはルナチャルスキーをあまりきびしく責めようとは思わない。各人にはその能力に応じてである。結局のところ、彼のだらしのない愚かさは他の多くの人々よりもひどいわけではないからである。

 それにしても、どうしてトロツキーによればプロレタリアートは「孤立していなければならない」のだろうか? この点に関してストルーヴェを論じた私のパンフレット(1906年)から1つ引用しておこう。当時、ルナチャルスキーはこのパンフレットに大袈裟な賛辞を送ったものである。ソヴィエト代表に関する章の中で次のように言われている。ブルジョア諸党が目覚めつつある大衆から「まったく離れていた」のに対して「……政治生活は労働者代表ソヴィエトを中心に展開されるようになった。ソヴィエトに対する都市の小市民大衆の態度は、より自覚の薄いものだったとはいえ、明らかに同情的であった。抑圧され虐げられた人々はことごとくソヴィエトに保護を求めた。ソヴィエトの人気は遠く都市の外にまで広がっていった。ソヴィエトは虐げられた農民から『嘆願』を受け、農民の決議がソヴィエトに殺到し、農村共同体の代表がソヴィエトに参加した。まさにここに、国民の――偽りではなく真に民主主義的な国民の――注意と同情が集中された」(『われわれの革命』、199頁)(13)

 このように、これらすべての引用文において――その数は容易に2倍にも3倍にも、あるいは10倍にも増やすことができる――永続革命は、ソヴィエトに組織されたプロレタリアートの周囲に都市と農村の被抑圧大衆を団結させる革命として描き出されており、またプロレタリアートを権力にまで高め、それによって民主主義革命を社会主義革命に成長転化させる可能性を切り開く国民革命として描き出されている。永続革命はプロレタリアートの孤立した飛躍なのではなく、プロレタリアートの指導のもとでの国民全体の再建(ペレストロイカ)なのである。1905年以来、私は永続革命の展望をこのように描き出し、このように解釈してきたのである。

※   ※   ※

 ラデックは、ツァーリの政府から社会民主主義政府へのパルヴスの「飛躍」について紋切調のフレーズを繰り返しているが、このパルヴス――1905年のロシア革命に関する私の見解は彼の見解に非常に近かったが、同じではなかった――に関しても彼は誤っている。ラデックは、自分の論文の別の部分では、革命に対する私の見解がパルヴスの見解とどの点で異なっているのかを、事のついでにではあるがきわめて正しく示しているのであるから、彼は事実上自分の言っていることに反駁しているわけである。

 ※原注 指摘しておかなければならないが、当時パルヴスは国際マルクス主義の最左翼であった。

 パルヴスは、ロシアにおける労働者政府が社会主義革命の方向に活路を見出すことができるとは、すなわち、民主主義の諸課題を達成してゆく過程で社会主義的独裁へと成長転化することができるとは考えていなかった。ラデック自身が引用している1905年の文章に示されているように、パルヴスは労働者政府の課題を民主主義の課題に限定した。だとすれば社会主義への飛躍なるものはいったいどこにあるのか? パルヴスが当時から念頭に置いていたのは、革命的転覆の結果として「オーストラリア」型の労働者政府を樹立することであった。パルヴスは10月革命後にも、彼自身がすでに社会改良主義の最右翼に立っていた時に、ロシアとオーストラリアとを比較している。この点に関してブハーリンは、パルヴスが永続革命に関する自らの過去の罪を隠蔽するために後になってオーストラリアの例を「思いついた」のだと主張している。だがそうではない。1905年の時にもパルヴスは、プロレタリアートによる権力の獲得のうちに社会主義への道ではなく、民主主義への道を見出していたのだ。すなわち、パルヴスはプロレタリアートに、彼らが10月革命の最初の8ヵ月から10ヵ月のあいだに実際に果たしてきた役割しか付与しなかった。さらにその後の展望としては、パルヴスは当時から、この時期に存在していたオーストラリア民主主義の体制を志向していた。すなわち、労働党が統治すれど支配せず、ただブルジョアジーの政策の補完物として改良主義的諸要求を遂行していた体制である。

 運命の皮肉だが、1923〜1928年における右翼=中間主義ブロックの基本的傾向はまさに、プロレタリアートの独裁をオーストラリア型の労働者民主主義に、すなわちパルヴスの予測に近づけることであった。2、30年前のロシアの小ブルジョア「社会主義者」たちがたえずロシアの新聞で、オーストラリアは高い関税障壁で外界から隔絶され、「社会主義的」法律をつくり出し、こうして一国社会主義を建設しつつある労働者と農民の国であると書き立てていたことを想起するならば、このことはいっそう明瞭になるだろう。もしラデックが、トロツキーによる「民主主義の空想的飛び越し」なるお伽話を繰り返すのではなく、問題のこの側面を前景に押し出していたなら、正しく行動したことになったであろう。

 

  訳注

(1)カウツキー「ロシア革命の推進力と展望」、『第2インターの革命論争』、紀伊國屋書店。

(2)レーニン「小冊子『K・カウツキー著、ロシア革命の推進力と展望』のロシア語訳序文」、邦訳『レーニン全集』第11巻、425頁。

(3)トロツキー「総括と展望」、前掲『わが第一革命』、288頁。

(4)同前、323頁。

(5)同前、318頁。

(6)トロツキー「社会民主党と革命」、同前、259〜260頁。

(7)トロツキー「総括と展望」、同前、336〜337頁。

(8)トロツキー「プロレタリアートとロシア革命」、同前、413〜414頁。

(9)同前、418頁。

(10)トロツキー「総括と展望」、同前、327〜328頁。

(11)これらの諸論文の最も重要なものは『トロツキー研究』第5号に訳出されている。

(12)スターリン「トロツキズムかレーニン主義か」、邦訳『スターリン全集』第6巻、348頁。

(13)トロツキー「政治におけるピョートル・ストルーヴェ氏」、前掲『第2インターの革命論争』、291頁。

  

 目次)(チェコ版序文)(独英版序文)(仏版序文)(序論

1章)(2章)(3章)(4章)(5章)(6章)(7章)(8章)(9章)(10章                           

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