第7章 民主主義独裁のスローガンは東方にとって今日なにを意味するか

 スターリン流の歴史的「段階」論――漸進主義的・俗物的なそれであって、革命的ではない段階論――に迷い込んだ結果、ラデックも今や、プロレタリアートと農民の民主主義独裁のスローガンを、東方全体にとっての聖典にしようとしている。レーニンは、ボリシェヴィズムの「作業仮説」を特定の国の発展経路に適用し、それを修正し、具体化し、そしてある一定の段階で放棄するに至ったのだが、ラデックは、この「作業仮説」から超歴史的な図式をこしらえる。まさにこの点に関してラデックは論文の中で次のように執拗に繰り返している。

 「この理論とそこから生じる戦術は、資本主義的発展がまだ未熟なすべての国々――ブルジョアジーが以前の政治的社会構成体から遺産として残された諸問題をいまだ清算していない国々――にあてはまる」。

 この定式をちょっと考えてみよう。それは、1917年におけるカーメネフの立場を仰々しく正当化するものではないのか? ロシア・ブルジョアジーは2月革命を通じて民主主義革命の諸問題を「清算」したのか? 否、それらは、最も重要な問題たる農業問題を含めて、未解決のままに残された。なぜレーニンは、古い定式がそのまま「あてはまる」ことを理解できなかったのか? なぜ彼はそれを放棄したのか?

 ラデックは以前にこの点に関してわれわれにこう答えていた――なぜならそれはすでに「実現された」からである、と。われわれはすでにこの答を検討した。それはまったく根拠がなく、ましてや、古いレーニン主義的定式の本質が権力形態にあるのではけっしてなく、プロレタリアートと農民の協力による農奴制の現実的清算にあるという立場に立っているラデックの口から述べられる場合には2重に根拠がない。何といっても、これ〔農奴制の清算〕こそまさに、ケレンスキー体制がなしえなかったものだからだ。このことから明らかなのは、まさに今日における最も先鋭な問題たる中国問題を解決するために、ラデックがわが国の過去へと旅したことがまったくの無駄足だったということである。研究しなければならなかったのは、トロツキーが1905年に理解していた、あるいは理解していなかったことではなくて、むしろスターリンとモロトフ、とくにルイコフとカーメネフが、1917年2〜3月に理解しなかったことである(この時期に当のラデックがどのような立場をとっていたか、私は寡聞にして知らない)。なぜなら、もし二重権力を通じて民主主義独裁が、〔ボリシェヴィズムの〕中心的スローガンの差し迫った変更を要するほどに「実現された」とみなすことができるならば、中国において「民主主義独裁」が、国民党の体制を通じて、すなわち、譚平山というしっぽを伴った蒋介石と汪精衛の支配を通じて※、はるかに完全かつ全面的に実現されたと認めなければならないからである。とすれば、中国においてスローガンはそれだけいっそう変更されなければならなかったはずである。

※原注 蒋介石は、国民党右派の指導者であり、汪精衛は国民党左派の指導者である。譚平山は中国でスターリン=ブハーリンの政策を実行していた共産党員大臣。

 では、「以前の政治的社会構成体の遺産」は中国ですでに清算されているのか? いや、清算されてはいない。ではそれは、レーニンが「古参ボリシェヴィキ」の全上層に宣戦布告した1917年4月4日にはわが国で清算されていたのか? ラデックは、絶望的な自己矛盾に陥り、すっかり混乱し、四方八方走り回る。彼が、「諸構成体の遺産」に関して複雑な記述的表現を用い、それをさまざまな箇所でいろいろと言い換えているのに、封建制ないし農奴制の遺物というより簡潔な表現を明らかに避けているのは偶然ではないことに注目しよう。なぜか? その理由は、ラデックがほんの昨日までこの遺物をきっぱり否認していて、それによって民主主義独裁のスローガンのための基盤そのものをすっかり掘り崩していたからである。共産主義アカデミーにおける報告の中で、ラデックは次のように述べていた。

 「中国革命の水源は、1905年のわれわれの革命の水源に劣らず深いものである。中国における労働者階級と農民との同盟は、1905年におけるわが国の場合よりも強力であろう、と確信をもって主張することができる。中国では労働者が打ち破るべきは2つの階級でなく、1つの階級、すなわちブルジョアジーだけになるだろうという単純な理由からである」。

 たしかに「単純な理由」だ。しかし、プロレタリアートが農民とともに、一つの階級たるブルジョアジーを、つまり封建制の遺物ではなくブルジョアジーを打ち破るとすれば、そうした革命は――お尋ねするが――いったい何と呼ばれるのか? まさか民主主義革命か? 注目すべきは、ラデックが上述の言葉を語ったのが1905年ではなく、1909年でさえなく、〔ラデックが左翼反対派の一員であった〕1927年3月であることだ。いったいどのように辻褄を合わせたらいいのか? 非常に簡単である。1927年3月に、ラデックはまたしても正しい道から逸脱して、逆の極端に走ったのである。反対派は、中国問題に関する自派のテーゼの中で、当時のラデックの一面性に対する根本的な修正を挿入しておいた。とはいえ、先に引用したラデックの言葉の中にはそれでもなお一片の真理が含まれていた。すなわち、中国には地主貴族の階層がほとんど存在しておらず、大土地所有者は帝政ロシアにおけるよりもはるかに密接に資本家と結びついており、それゆえ中国における農業問題の比重は帝政ロシアの場合よりもはるかに小さいということ、その代わり民族解放の課題が巨大な場所を占めているということである。このことから、国の民主主義的再生のための独立した革命的政治闘争を行なう能力に関して、中国の農民がロシアの農民の場合よりも大きいはずがないということになる。このことは、何よりも、1925年以前にも中国革命の3年間にも、その旗に土地革命と記したナロードニキ政党が中国の地にまったく登場しなかったことに現われている。以上のいっさいを総合するなら、民主主義独裁の定式が、すでに1925〜1927年の経験を後にしている中国にとって、2月革命後のロシアにおけるよりもずっと危険な反動的わなであることは明らかであろう。

 ラデックによるいっそう遠い過去へのもう一つの旅もまた無慈悲に彼自身にはね返ってくる。今回問題にされているのは、1850年にマルクスによって提起された永続革命のスローガンである。ラデックはこう書いている。

 「マルクスには民主主義独裁のスローガンは存在しなかったが、レーニンにあっては、1905年から1917年にかけてこのスローガンは政治的基軸をなしていて、資本主義的発展を開始したばかりの(?)すべての(?)国々における彼の革命概念の構成部分となった」。

 ラデックは、レーニンの2、3の章句にもとづいて、この立場の相違を、ドイツ革命の中心的任務が民族統一であったのに対して、わが国の場合には土地革命であったということで説明する。だが、それでは中国の場合はどうなるのか? 半植民地たる中国における民族問題の比重は、農業問題と比較して、1848〜50年のドイツよりもはるかに大きい。なぜなら、中国において問題になっているのは民族統一と同時に、民族解放もだからだ。マルクスが永続革命の展望を定式化したのは、ドイツにおいて、すべての王座がまだ健在で、ユンカーの階級が土地を所有し、ブルジョアジーの上層が権力の控えの間に入ることしか許されていなかったときであった。中国には、1911年以来、君主は存在しておらず、地主貴族の独立した階級が存在しておらず、民族ブルジョア的国民党が権力の座にあって、農奴制的〔封建的〕諸関係は、ブルジョア的搾取といわば化学的に融合している。このように、ラデックが試みたマルクスの立場とレーニンの立場との対比は、中国における民主主義独裁のスローガンと完全に矛盾するのだ。

 ところがラデックは、マルクスの立場をも不真面目に偶然的かつエピソード的にしか取り上げておらず、マルクスがまだ農民を小ブルジョア的都市民主主義派の自然な同盟者とみなしていた1850年の回状(1)に議論を限定している。マルクスは当時、ドイツにおける民主主義革命の独立した段階――すなわち都市の小ブルジョア的急進派への権力の一時的な移行――が農民に依拠してなされると期待していた。まさにここに問題の核心があった! しかし、それは起こらなかった。そしてこれは偶然ではない。すでに前世紀中葉、小ブルジョア民主主義派には独立した革命を遂行する能力がないことが明らかとなっていた。そしてマルクスはこの教訓を学んだ。1856年4月16日――すなわち前述の回状から6年後に――マルクスはエンゲルスに宛てて次のように書いている。

 「ドイツにおいて万事は、農民戦争の再版のようなものがプロレタリア革命を支持できるかどうかに依存するだろう。そうなれば事態はすばらしいものとなろう」(2)

 ラデックによって忘れ去られているこの見事な言葉は、10月革命にとってのみならずここでわれわれが論じている問題全体にとって真に貴重な鍵となっている。マルクスは土地革命を飛び越えたのか? 否、すでに見たように、飛び越えなかった。彼は、プロレタリアートと農民の協力が来たる革命にとって必要であるとみなしたか? しかり、そうみなした。彼は革命における農民の指導的な、あるいはせめて独立した役割の可能性を認めたか? 否、認めなかった。マルクスが出発点にしたのは次のことである。農民は独立した民主主義革命においてブルジョア民主主義派を支持することはできなかったが(それはブルジョア民主主義派のせいであって、農民のせいではない)、プロレタリア革命においてプロレタリアートを支持することができるだろう、と。「そうなれば事態はすばらしいものとなろう」。ラデックは、このことが10月革命で実際に起こったこと、それもなかなか立派に起こったことにあえて目をつぶろうとしているかのようである。

 中国に関してこのことから導かれる結論は、まったくもって明瞭である。論点は、同盟者としての農民の決定的役割にあるのでも、土地革命の巨大な意義にあるのでもなく、独立した民主主義的土地革命が中国において可能であるか否か、あるいは「農民戦争の新版」がプロレタリア独裁を支持するか否かである。問題はこのようにしか立てられない。別様に問題を立てる者は、何ごとも学ばず、何ごとも理解しなかった者であって、ただ中国共産党を混乱させ打撃を与えるだけである。

 東方諸国のプロレタリアートが勝利への道を切り開くためには、まず何よりもスターリン=マルトゥイノフの衒学的で反動的な「段階」と「階段」の理論を排除し、放逐し、踏みつけ、箒で一掃してしまわなければならない。ボリシェヴィズムは、この俗流的な漸進主義との闘争の中で成長した。アプリオリに設定された進路にではなく、階級闘争の現実の歩みに足並みをそろえなければならない。さまざまな発展レベルにある国々に順序を定め、配給券によってそれらの国々に革命的給食を事前に割り当てるというスターリン=クーシネン流観念を放逐せよ。階級闘争の現実的歩みに足並みをそろえよ。この点で無限に貴重な導き手となるのはレーニンその人である。ただレーニンの全体を取り上げなければならない。

 1919年にレーニンは、とくにコミンテルンの組織化との関連で、過ぎ去った時期の諸結論を総括してそれにいっそう完全な理論的定式化を与えた際、ケレンスキー体制と10月の経験を次のように解釈している。階級的矛盾がすでに発達しているブルジョア社会においては、公然ないし仮装されたブルジョアジーの独裁かプロレタリアートの独裁のどちらかのみが存在しうる。いかなる中間的な体制もありえない。あらゆる民主主義、あらゆる「民主主義独裁」(皮肉な引用符はレーニン)は――ヨーロッパの最後進国たるロシアの経験がブルジョア革命の時期に、すなわち「民主主義独裁」に最も好都合な時期に示したように――ブルジョアジーの支配の隠れみのにすぎないだろう、と。こうした結論は、レーニンによって、〔ブルジョア〕民主主義に関する彼のテーゼの基礎に据えられたが、それは2月革命と10月革命の諸経験の総和としてはじめて現われたのである。

 ラデックは他の多くの者と同様、民主主義の問題をそもそも民主主義独裁の問題から機械的に切り離す。ここに最大級の誤りの源泉がある。「民主主義独裁」は、革命期におけるブルジョアジーの仮装された支配でしかありえない。このことは、わが国の「二重権力」の経験(1917年)だけではなく、中国国民党の経験にも示されているところである。

 エピゴーネンの度しがたさを何よりもはっきりと示しているのは、彼らが今日になってもまだ、民主主義独裁をブルジョアジーの独裁のみならずプロレタリアートの独裁にも対置しようとしている事実である。だが、そのような対置が可能であるということはつまり、民主主義独裁が中間的内容を、すなわち小ブルジョア的内容を持っていなければならない。それへのプロレタリアートの参加は事態を変えるものではない。なぜなら、さまざまな階級的路線には算術的平均など本質的に存在しないからである。もしそれがブルジョアジーの独裁でもプロレタリアートの独裁でもないとしたら、小ブルジョアジーがまさに明確で決定的な役割を演じなければならないことになろう。だが、これは、3つのロシア革命と2つの中国革命がすでに実践の中で答えを与えている問題にわれわれを引き戻す。すなわち、帝国主義の世界的支配という条件のもとにある今日において、小ブルジョアジーは、資本主義諸国で――たとえそれらの国々が後進的で、その民主主義的課題の解決に当面しているとしても――指導的な革命的役割を演じることができるのか、という問題である。

 小ブルジョアジーの下層がその革命的独裁を樹立した時代はたしかに存在したし、われわれもそのことは承知している。しかし、これは、当時のプロレタリアートないしその先駆者がまだ小ブルジョアジーから分離しておらず、反対にその未発達な形態で闘争の基本的中核を構成していた時代であった。今日ではまったく事情が異なる。後進国においてさえ、現代のブルジョア社会の生活を指導する能力を小ブルジョアジーに認めることなど問題になりえない。なぜなら、資本主義の発展によってプロレタリアートはすでに小ブルジョアジーから分離し、大ブルジョアジーと敵対的に対峙し、小ブルジョアジーを取るに足りない存在へと運命づけ、農民をしてブルジョアジーとプロレタリアートのどちらかを政治的に選択する必要性の前に立たせているからである。農民が小ブルジョアジーの党を選択しているように見える場合にはいつでも、実際には彼らは金融資本のしっぽを支持しているのである。民主主義革命における農民と小ブルジョアジーの独立の程度をめぐって(問題になったのは程度だけだ!)、ロシアの第一革命の時期には、あるいは第一革命と第2革命とのあいだの時期には、まだ意見の相違が存在しえたが、この12年間の諸事件の過程全体によって決着が、しかも取り消し不可能な形でつけられたのである。

 この問題は、10月革命以降、多くの国で、可能なあらゆる形態および組み合わせで、何度も実践的に提起されたが、いつでも同一の結果となった。ケレンスキー体制以降における最も重要な経験は、すでに述べたように、国民党の経験である。しかし、これに劣らぬ意義を有しているのは、イタリアにおけるファシズムの経験である。そこでは、武器を手にした小ブルジョアジーが、古いブルジョア政党から権力を奪取したが、その指導者を通じてただちにこの権力を金融寡頭制に引き渡した。同じ問題はポーランドでも提起されたが、そこではピウスツキの運動が反動的なブルジョア・地主政府に直接対抗して展開され、小ブルジョア大衆のみならずプロレタリアートの広範な層もそこに期待を寄せた。古参のポーランド社会民主主義者ヴァルスキが、「農民に対する過小評価」に陥るのを恐れて、ピウスツキのクーデターを「労働者と農民の民主主義独裁」と同一視したのは、偶然ではない。私がここで、ブルガリアの経験、すなわちスタンボリスキの党に対するコラロフとカバクチェフの一派の混乱した恥ずべき政策、あるいはアメリカ合衆国における農民労働者党の不面目な実験、あるいはジノヴィエフによるラディッチとのロマンス、あるいはルーマニア共産党の経験、等々、際限もなく分析していったならば、紙幅を取りすぎるだろう。これらの事実の本質的な諸要素については、私の『コミンテルン綱領草案批判』〔『レーニン死後の第3インターナショナル』〕の中で詳しく分析されている。その基本的結論は、10月の教訓を完全に裏づけ強化している。すなわち、農民を含む小ブルジョアジーは革命期であれ反動期であれ、現代のブルジョア社会を、たとえそれが後進国であっても指導することができない、ということである。農民にできるのは、ブルジョアジーの独裁を支持するかプロレタリアートの独裁を支持するかのどちらかである。中間的諸形態は、すでにぐらつきはじめているか動乱の後でまだ足元がおぼつかないブルジョア独裁を覆い隠すつい立てでしかない(ケレンスキー体制、ファシズム、ピウスツキ体制)。

 農民は、ブルジョアジーの後に従うこともプロレタリアートの後に従うこともある。しかし、農民がまだプロレタリアートの後に従っていない段階でプロレタリアートが無理やりにでも農民といっしょに進もうとすると、プロレタリアートは事実上、金融資本の後尾につき従う羽目に陥る。たとえば、1917年のロシアにおける祖国防衛派の労働者、中国における国民党労働者(その中には共産党員もいた)、1926年のポーランドにおけるペ・ペ・エス※労働者および一部の共産党員、等々。このことを徹底的に考えぬこうとせず、諸事件の生きた経験からこのことを理解しなかった者は、そもそも革命政治に口を出さない方がよい。

 ※原注 ペ・ペ・エスとは愛国的なポーランド社会党のこと(ダシンスキ一派)。

 レーニンが2月と10月の教訓から最も全面的かつ総括的な形で導き出した基本的な結論は、「民主主義独裁」の観念をきっぱりと否定するものである。1918年以来、レーニンは何度となく次のように書いた。

 「すべての政治経済学――誰かがそこから何かを学んだとするならば――と、革命の全歴史、19世紀全体の政治的発展の全歴史は、農民が、労働者の後に従うかブルジョアの後に従うかの、どちらかであることをわれわれに教えている。……もし、これがわからない人がいれば、そういう人たちに対してこう言おう。……18世紀と19世紀のどの大革命の発展についてでも、19世紀のどの国の政治史についてでも考えてみたまえ、と。そういう歴史はそれが何ゆえかを教えるだろう。資本か、それともそれを打倒しようとするプロレタリアートのどちらかだけが支配勢力となりうるというのが、資本主義社会の経済のあり方なのである。この社会の経済には、それ以外の勢力は存在しない」(第16巻、217頁)(3)

 ここで問題にされているのは現在のイギリスやドイツではない。18世紀および19世紀のあらゆる大革命、すなわち後進諸国におけるあらゆるブルジョア革命の教訓にもとづいて、レーニンは、ブルジョアジーの独裁かプロレタリアートの独裁のみが可能であるという結論に達する。いかなる「民主主義的な」独裁も、すなわちいかなる中間的な独裁もありえないのだ。

※   ※   ※

 ラデックの理論的・歴史的旅は、すでに見たように、ブルジョア革命は社会主義革命と区別されなければならない、というかなり貧弱な決まり文句に要約される。この「段階」にまで落ち込んだラデックはまっすぐクーシネンに手を差しのべる。クーシネンは、その唯一の知的資源たる「常識」にもとづいてこう判断する、先進国でも後進国でもプロレタリアート独裁のスローガンを提起することができるなどということはありそうもない、と。何も理解しない人間の純朴さをもってクーシネンは、トロツキーが1905年以来「何も学んでいない」と断罪する。ラデックもまた、クーシネンにならって次のように皮肉る――トロツキーにとっては「中国革命やインド革命の独自性はまさに、それらが西ヨーロッパ革命と何ら区別されず、したがってその第1歩(!?)からしてプロレタリアートの独裁に到達するにちがいないという点にある」と。

 ラデックはささやかなことを忘れている。プロレタリアートの独裁が実現されたのは、西ヨーロッパの一国においてではなく、まさに東ヨーロッパの後進国においてであった、ということを。歴史の過程がロシアの「独自性」を黙殺したのはトロツキーの罪なのか? ラデックはさらに、ブルジョアジー(もっと厳密に言えば、金融資本)が、すべての資本主義諸国を、たとえそれらの国がさまざまな発展水準、社会構造、伝統、等々を、すなわちそれぞれあらゆる「独自性」を有していたとしても、それでもやはりそれらの国を支配していることを忘れている。ここでもまた、この独自性に対する敬意の不足は、歴史的発展に由来するのであって、けっしてトロツキーに由来するのではない。

 それでは、先進国と後進国との相違はどの点にあるのか? 相違は大きいが、それでもやはり資本主義的諸関係の支配という限界内にとどまっている。各々の国におけるブルジョア支配の形態と方法は著しく異なる。一方の極では、その支配は露骨で絶対的な性格を帯びる。アメリカ合衆国がそれである。他方の極では、金融資本は、時代遅れになったアジア的中世の諸制度に適応し、それを自らに従属させつつ自己の方法をそこに押しつける。インドがそれである。だがどちらにおいてもブルジョアジーが支配している。このことからして、プロレタリアートの独裁もまた、社会的基盤、政治的形態、当面の課題や事業のテンポに関して、各々の資本主義諸国できわめて多様な性格を帯びるだろう。しかし、人民大衆を帝国主義者と封建階層と民族ブルジョアジーのブロックに対する勝利に導くことができるのは、プロレタリアートの革命的へゲモニーだけであり、それは権力を獲得した後にプロレタリアート独裁に転化するだろう。

 ラデックは、人類を2つのグループに、すなわち社会主義独裁にとって「成熟した」グループと民主主義独裁にとってのみ「成熟した」グループに分類することによって、私とは対照的に、各国の想像上の「独自性」なるものを考慮したつもりになっている。実際にはラデックは生気のない紋切り型を提示しているだけで、それは共産主義者を当該国の真の独自性の、すなわち、それらの国における歴史発展のさまざまな水準と諸段階の生きた組み合わせの研究から逸らせるだけなのである。

 自国の民主主義革命を実行ないし完結させていない国々は、最大級の重要性を持った固有の独自性を有しており、まさにこの独自性こそプロレタリア前衛の綱領の基礎とならなければならない。こうした各国ごとの独自の綱領にもとづいてはじめて、共産党は、ブルジョアジーとその民主主義的代理人に対抗して、労働者階級と勤労者全般の大多数を獲得するための真の闘争を展開し成功させることができる。

 この闘争における成功の可能性は、もちろん、その国の経済におけるプロレタリアートの役割によって、したがってまた資本主義的発展の度合いによってかなりの程度決定される。しかし、これはけっして唯一の基準ではない。それに劣らず重要な意義を有しているのは、国民の大多数がその解決に関心をもち、その解決のためには最も大胆な革命的手段を必要とするようなきわめて広範で差し迫った「人民的」問題がその国に存在するかどうか、である。この種の問題としては農業問題と民族問題があり、両者はさまざまな形で結びついている。植民地諸国において先鋭な農業問題が存在し、耐えがたい民族的抑圧が存在するならば、比較的少数の若いプロレタリアートであっても、民族民主主義革命にもとづいて、先進国のプロレタリアートが純社会主義的な革命にもとづく場合よりも早く権力に到達することができる。10月革命を経た今日では、このことは証明を要しないはずである。しかし、何年にもわたる思想的反動とエピゴーネンの理論的堕落を経て、革命の初歩的諸概念は、毎回最初から学び直さなければならないほどに発酵し、腐臭を発し、クーシネン化されてしまっている。

 以上述べたことは、世界のすべての国が現在すでに何らかの形で社会主義革命にとって成熟しているということを意味するだろうか? 否、これは、誤ったスコラ的でスターリン=ブハーリン的な問題設定である。全体としての世界経済は争う余地なく社会主義にとって成熟している。しかしながら、このことは、各国のそれぞれが成熟していることをけっして意味しない。その場合、各々の後進諸国、すなわち中国やインド等においてはプロレタリアートの独裁はどうなるのか? われわれはこう答える――歴史は注文によって作ることはできない、と。ある国が、プロレタリアートの独裁にとって「成熟」していても、独立した社会主義建設にとって成熟していないだけでなく、広範な社会化の措置にとってさえ成熟していないこともある。社会発展の予定調和から出発してはならない。不均等発展の法則は、スターリンの優しい理論的抱擁にもかかわらず、やはり生きている。この法則の力は、各国相互の関係においてのみならず、あれこれの国の内部における種々の過程の相互関係においても有効である。経済と政治の不均等な諸過程の調和は、世界的規模においてのみ達成されうる。このことはとりわけ、中国におけるプロレタリアートの独裁の問題を中国経済と中国政治の枠内だけで考えることはできない、ということを意味する。

 ここでわれわれは、国際革命的な永続革命論と民族改良主義的な一国社会主義論という、2つの相互に排除しあう観点に直面する。後進的な中国だけでなく、そもそも世界のいかなる国も、それ自身の一国的枠内では社会主義を建設しきることはできない。国境を越えて成長した高度に発展した生産力は、国有化のために十分発達していない生産力の場合と同じぐらいこれ〔一国の枠内での社会主義建設〕に対立する。たとえばイギリスのプロレタリアートの独裁が逢着する矛盾や困難は、中国のプロレタリアートの独裁の前に立ちはだかる矛盾や困難とはたしかに性格が異なるだろうが、けっしてより小さいものではないだろう。これらの矛盾を克服することは、どちらの場合においても、国際革命の道を通じてのみ可能である。このような問題設定は、中国が社会主義的変革に「成熟」しているか「未成熟」であるかという問題そのものを取り除く。それでもなお議論の余地がないのは、中国の後進性がプロレタリア独裁の諸任務を極度に困難なものにするだろう、ということである。しかし、こう繰り返そう。歴史を注文によって作ることはできないし、中国プロレタリアートに選択を委ねた者は誰もいない、と。

 ではこれは少なくとも、最も遅れた植民地国をも含むすべての国が、社会主義にとってではないにせよ、プロレタリアート独裁にとってはすでに成熟していることを意味するのか? 否、意味しない。それでは、民主主義革命は、とりわけは植民地におけるそれはいったいどうなるのか? この問いに対して私は別の問いをもって答えよう、あらゆる植民地国がその民族民主主義的諸問題の即時かつ完全な解決にとって成熟しているなどと、いったいどこに書いてあるのか、と。問題を転換しなければならない。帝国主義時代の諸条件のもとでは、民族民主主義革命は、その国の社会的・政治的諸関係がプロレタリアートを人民大衆の指導者として権力につけるのに成熟している場合のみ勝利に至ることができる、と。ではまだそうなっていないときには? そのときには、民族解放闘争は、きわめて中途半端な結果しかもたらさないだろうし、その結果は勤労大衆に敵対するものであろう。1905年には、ロシアのプロレタリアートは、自己の周囲に農民大衆を結集して権力を獲得するには十分強力ではないことがわかった。まさにそれが原因で、革命は道半ばで頓挫し、その後ますます衰退していった。中国では、きわめて有利な状況があったにもかかわらず、コミンテルンの指導部が中国プロレタリアートの権力獲得闘争を妨害し、民族的課題は、国民党の体制のうちに、惨めで不安定かつちっぽけな解決を見出した。

 あれこれの植民地諸国がいつ、いかなる条件のもとで、農業問題と民族問題の真の革命的解決にとって成熟するようになるかを予言することはできない。しかし、いずれにせよ、われわれは完全な確信をもって、中国のみならずインドも、プロレタリアートの独裁を通じてのみ、真に人民的な、すなわち労働者・農民的な民主主義に到達することができるだろうと言うことができる。その途上にはなお多くの段階やステップや局面があるだろう。人民大衆の圧力のもとで、ブルジョアジーは左に数歩移動するかもしれないが、それはその後でいっそう無慈悲に人民に襲いかかるためである。2重権力の時期はありうるし、蓋然的でさえある。しかし、プロレタリアートの独裁ではない真に民主主義的な独裁など、存在しないだろうし、存在しえない。「独立した」民主主義独裁とは、国民党タイプのもの、つまり労働者と農民に全面的に敵対する独裁でしかありえない。われわれは前もってこのことを理解し、階級的現実を抽象的定式によって覆い隠すことなく、それを大衆に教えなければならない。

 スターリンとブハーリンは、中国では、帝国主義のくびきのおかげで、ブルジョアジーも民族革命を遂行しうると宣伝した。その試みはなされた。結果はどうであったか? プロレタリアートに剣が振り下ろされた。するとこう述べられた――次は民主主義独裁の番だ、と。だが小ブルジョア独裁は資本の仮装された独裁にすぎないことがわかった。偶然か? 否。「農民は、労働者に従うこともブルジョアに従うこともある」。前者の場合にはプロレタリアートの独裁が、後者の場合にはブルジョアジーの独裁が出現する。中国の教訓は、その場にいなくても十分に明らかであろう。だが彼らは次のように反論する――「いや、それはたまたま失敗に終わった実験にすぎない。われわれは、いっさいを最初からやり直し、今度こそ『真の』民主主義独裁を打ち立てるだろう」。どうやってか――「プロレタリアートと農民の協力という社会的基盤にもとづいて」。

 この最新の発見をわれわれに進呈してくれるのはラデックである。しかし、失礼ながら、国民党はまさにこの基盤にもとづいて台頭した。すなわち、労働者と農民は「協力して」ブルジョアジーのために火中の栗を拾ったのだ。ぜひわれわれに答えてもらいたいのだが、この協力の政治的メカニズムはいったいどのようなものになるのか? 諸君はどのようにして国民党に取って代わるつもりなのか? いかなる政党が権力をとるのか? 大まかでもいいから答えてみたまえ!

 これに対してラデックはこう答える(1928年にだ!)――マルクス主義の複雑さを理解することのできないまったく度しがたい連中だけが、どの階級が馬になりどの階級が騎手になるのかという2次的で技術的な問題に関心をもつことができるのだ、と。ボリシェヴィキは、政治的上部構造から注意を「逸らし」て階級的土台に注意を向けなければならない、というわけである。いやいや、冗談も休み休みに言ってもらいたい。諸君はもう十分に「逸れ」ている。逸れすぎたぐらいだ。中国では、諸君は階級間協力の政党的表現の問題から注意を逸らせ、プロレタリアートを国民党に誘い入れ、自ら国民党にすっかり心を奪われ、国民党からの脱退に猛烈に反対し、抽象的定式を繰り返して闘争上の政治的諸問題を放置した。そしてブルジョアジーがプロレタリアートの頭蓋骨をぶち割ったあとで、諸君はわれわれにこう提起する、もう一度やりなおそう、と。こうして最初と同じく、政党と革命的権力の問題からもう一度注意を「逸らせ」ようとする。いや、これはまったくの悪い冗談だ。過去に引き戻すことを許してはならない!

 これらすべての曲芸は、すでにわれわれが聞いたところでは、労働者と農民の同盟のためになされているとのことである。ラデックは、反対派に対し農民を過小評価するなと警告し、メンシェヴィキに対するレーニンの闘争を思い起こさせようとする。レーニンの引用がどのように扱われるかを見ていると、人間の思想の尊厳に加えられる痛ましい侮辱に身震いする。しかり、レーニンは一度ならず、農民の革命的役割の否定はメンシェヴィキの特徴だと述べた。そしてそれは正しかった。しかし、これらの引用の他にもこの世にはなお1917年という年が存在するのだ。そして、2月革命から10月革命に至る8ヵ月間、メンシェヴィキはエスエルと切っても切れない強固なブロックを結んでいた。当時、エスエルは、革命によって目覚めた農民の圧倒的多数を代表していた。メンシェヴィキとエスエルは革命的民主主義派を自称し、自分たちこそ労働者と農民(兵士)の同盟に立脚しているのだという風に見せかけていた。つまりメンシェヴィキは、2月革命ののち、労農同盟というボリシェヴィキの定式をいわば横取りしたのだ。彼らは、ボリシェヴィキがプロレタリア前衛を農民から分裂させ、そのことによって革命を破滅させようとしていると非難した。言いかえれば、メンシェヴィキは、レーニンに対し、農民の無視、あるいは少なくとも農民の過小評価という非難を加えたわけである。カーメネフ、ジノヴィエフその他のレーニン批判は、メンシェヴィキの批判のこだまにすぎなかった。ラデックによる現在の批判は、カーメネフによる批判の遅ればせのこだまにすぎない。

 中国におけるエピゴーネンの政策は、ラデックの政策を含めて、1917年のメンシェヴィキ的仮面舞踏会の継続でありその発展である。共産党が国民党内にとどまったことは、スターリンによってのみならずラデックによっても、労農同盟の必要性という同一の根拠で正当化された。しかし、国民党がブルジョア政党であることが「思いがけなく」明らかになると、この実験は「左翼」国民党に対して繰り返された。結果は同じだった。そこで、プロレタリアートの独裁と対立的に区別された民主主義独裁の抽象的観念は、いまだ崇高な希望を満たしていないこの悲しむべき現実の上に奉られた。すでに経験したことの新たな繰り返し。1917年に、われわれはツェレテリやダンやその他の連中から何百回となくこう聞かされた――「わが国にはすでに革命的民主主義派の独裁が存在する。しかるに諸君はプロレタリアートの独裁に向かって、すなわち破滅に向かって突き進んでいる」。まことに人間の記憶というのは短いものだ。スターリン=ラデックの「革命的民主主義独裁」は、ツェレテリ=ダンの「革命的民主主義派の独裁」とまったく異なるところはない。それにもかかわらず、この定式はコミンテルンのすべての決議に見られるだけでなく、その綱領にも浸透している。これ以上に手の込んだ仮面舞踏会を想像することはできないし、それと同時に、1917年にボリシェヴィズムから受けた侮辱に対するメンシェヴィズムのこれ以上に残酷な復讐を想像することも難しい。

 しかし、それでもやはり東方の革命家たちは、「民主主義独裁」の性格の問題に対して、古いアプリオリな引用にもとづくのでなく事実と政治的経験にもとづく具体的な回答を要求することができる。「民主主義独裁」とは何かという問題に対して、スターリンは一度ならずまことに典型的な回答を与えてきた。たとえば東方にとってそれは「レーニンが1905年の革命に関して構想したところ」のものと同じである、と。これは、ある程度まで公認の定式になった。それは、中国、インド、ポリネシア等に関する著書や決議の中に見出すことができる。革命家たちは将来の事態に関するレーニンの「構想」を参照するよう求められるが、実際にはその将来の事態というのはとっくに過去の事態となってしまっているし、そのうえ、レーニンの仮説的「構想」は、レーニン自身がその事態が生じた後に解釈したように解釈されるのではなく、まったくでたらめに解釈されている。

 「よろしい」といって、東方の共産主義者はうなずく――「われわれは、まさにレーニンが(諸君の言うところでは)革命以前に構想していたとおりにそれを構想することにしよう。だがこのスローガンは、実際にはどのようなものか、教えていただけないだろうか? それは諸君の国ではどんなふうに実現されたのか?」

 「わが国では、二重権力の時期にケレンスキー体制として実現された」。

 「すると、民主主義独裁のスローガンは、わが国では民族的ケレンスキー体制のようなものとして実現されるだろうと、わが国の労働者に言うことができるのか?」

 「いやいや、けっしてそうではない! そんなスローガンを受け入れる労働者は1人もいないだろう。ケレンスキー体制は、ブルジョアジーへの屈服であり、勤労者への裏切りである」。

 「それでは、結局どう言えばいいのか?」と東方の共産主義者は悲しそうにたずねる。

 「諸君はこう言わなければならない」と番頭のクーシネンがせっかちに答える――「民主主義独裁は、レーニンが将来の民主主義革命に関して構想したものと同一のものである、と」。

 もし東方の共産主義者が思慮に欠けているのでなければ、次のように応酬しようとするだろう。

 「しかしレーニンは、民主主義独裁は、プロレタリアートの独裁を樹立した10月革命の中ではじめて本当に実現されたのだと1918年に説明したではないか? 党と労働者階級をこうした展望に沿って指導した方がいいのではないか?」

 「けっしてそうではない。そのように考えてはならない。それはエ・エ・永続・カ・カ・革命だ! トロ・ロ・ツキズムだ!」

 この金切り声の叱責をくらうと、東方の共産主義者は、ヒマラヤの頂上の雪よりも蒼白になって、それ以上知りたいという欲望をすべて投げ捨てる。なるようになるさ!

 だが結果は? われわれはそれをよく知っている。蒋介石の前に這いつくばるか、英雄的冒険かだ。

 

  訳注

(1)マルクス、エンゲルス「1850年3月の中央委員会の同盟員への呼びかけ」、邦訳『マルクス・エンゲルス全集』第7巻。

(2)邦訳『マルクス・エンゲルス全集』第29巻、39頁。

(3)レーニン「校外教育第1回全ロシア大会」、邦訳『レーニン全集』第29巻、367〜368頁。

 

 目次)(チェコ版序文)(独英版序文)(仏版序文)(序論

1章)(2章)(3章)(4章)(5章)(6章)(7章)(8章)(9章)(10章                           

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