第4章 永続革命論は実践においてどんな姿で現われたか
永続革命論を批判するにあたって、ラデック
〔左の写真〕は、すでに見たように、「この理論から出てくる戦術」をつけ加えている。これは非常に重要な追加である。公式の「トロツキズム」批判は用心深く理論だけに的を絞っている…。しかし、ラデックにとってはこれでは十分ではない。彼は中国におけるある特定の(ボリシェヴィキ的な)戦術路線に対する闘争を遂行する。この路線の権威を永続革命論によって貶めなければならない。そしてそのためには、過去における誤った戦術路線がこの理論から出てきたのだということを証明しなければならない、あるいは少なくとも、すでに誰かが証明したかのように振るまわなければならない。ここでラデックは読者を直接ペテンにかける。彼自身は革命に直接参加したことがなく、したがって革命の歴史を知らないということはありうることである。しかし彼はどうやら、資料によってこの問題を調べる努力さえまったくしていないようだ。ところが、最も主要な資料は私の『著作集』の第2巻に収められているのであり、字の読める者ならば誰でも調べることができるのである。そうしていれば、ラデックは次のことを知ることができただろう。私は1905年のほぼすべてをロシアで非合法にすごし、1906年は獄中にいたにもかかわらず、第一革命のほとんどすべての段階において、革命の勢力とその当面する課題の評価について、レーニンとのあいだに完全な意見の一致があったことを。ここではそれを証明する最小限の証拠を呈示するにとどめざるをえない。
最初のボリシェヴィキ大会(歴史上、第3回党大会と記されている)の2、3ヵ月前の1905年2月に書いて3月に印刷された論文の中で、私は次のように述べている。
「ただ勝利のみを追求している人民とツァーリとの熾烈な闘争。この闘争の頂点としての全人民的蜂起。宿敵に対する人民の勝利の革命的帰結たる臨時政府の成立。臨時政府によるツァーリズム反動の武装解除と人民の武装。平等・直接・秘密の普通選挙による憲法制定議会の召集――以上が客観的に規定された革命の諸段階である」(第2巻第1分冊、232頁)(1)。
私による基本的な戦術問題の規定がボリシェヴィキと完全に一致していたことを確認するには、以上の文言と1905年5月に開催されたボリシェヴィキ大会の決議とを比較するだけで十分である。
さらに、私はこの論文の主旨にもとづいて、ペテルブルクで臨時革命政府に関するテーゼを起草した。このテーゼにクラーシンも同意し、当時非合法で出版された。クラーシンはこのテーゼをボリシェヴィキ大会で擁護した。レーニンは次のような言葉でこれに賛意を表した。
「大体において私は同志クラーシン(ジーミン)と同意見である。文筆家として私が問題の文筆上の立て方に注意を払ったのは当然である。闘争目標の重要性を同志クラーシンは非常に正しく指摘しており、私は完全に彼に同意する。闘争目標である地点の占領を予定せずに闘争することはできない…」(第6巻、180頁)(2)。
私が紹介したクラーシンの長大な修正案の大部分は大会決議に取り入れられた。この修正案が私の筆によるものであることは、今も私が保存しているクラーシンとの往復書簡が示している。この党内エピソードは、カーメネフを含む他の人々にもよく知られている。
農民問題、農民を労働者ソヴィエトに接近させること、労働者と「農民同盟」との協定といった問題は、日増しにペテルブルク・ソヴィエトの大きな注意を引きつけるようになっていった。さすがにラデックもソヴィエトの指導が私に委ねられていたことを知っているであろう。当時、私が革命の戦術的課題について何百と書いた定式の一つに次のようなものがある。
「プロレタリアートが推進する全市的な『ソヴィエト』は、都市大衆の戦闘的行動を指導し、軍隊および農民との戦闘的統一行動を日程にのぼせる」(『ナチャーロ』第4号、1905年11月17日(30日))。
専制政治から社会主義への「飛躍」なるものが私にとって問題になったこともないということを証明する言葉をいちいち引用するのは退屈であり、少し恥ずかしくさえある。しかしそうせざるをえない。たとえば、私は1906年2月に憲法制定議会の課題について次のように書いている。もちろん私は、ラデックが今やスターリンに追随してやっているような、憲法制定議会にソヴィエトを対置するようなことはけっしてしていない。ラデックは、中国に関して、昨日の日和見主義的痕跡を極左主義の箒で掃き清めるために、そのような対置を行なっているのだが。
「憲法制定議会は解放された人民自身の力によって召集されるであろう。憲法制定議会の課題は巨大である。それは国家を民主主義的原理、すなわち、完全な人民権力〔共和制のこと〕の原理にもとづいて再建しなければならない。それは人民の民兵を組織し、大規模の農地(土地)改革を遂行し、1日8時間労働制と累進所得税制を導入しなければならない」(第2巻第1分冊、349頁)(3)。
次に、とくに社会主義の「即時」導入の問題に関しては、1905年に書いた一般向けパンフレットから引用しよう。
「社会主義をわが国ロシアで今すぐ導入することは考えられるだろうか? いや、わが国の農村はまだあまりにも無知で意識性に乏しい。農民のあいだには真の社会主義者はまだあまりにも少ない。まず何よりも必要なのは、人民大衆をいつまでも暗愚の状態に置いておこうとする専制政治を転覆することである。農村の貧農に対してはあらゆる税を免除しなければならない。累進所得税や普通義務教育制度を導入しなければならない。そして最後に、農村のプロレタリアートおよび半プロレタリアートと都市プロレタリアートを一致団結させて、一個の社会民主主義的軍勢としなければならない。このような軍勢のみが偉大なる社会主義的変革を遂行することができるのである」(第2巻第1分冊、228頁)(4)。
これを読むと、ラデックがスターリンやテールマンにならって私に説教するはるか以前から、私自身が革命の民主主義的段階と社会主義的段階を区別していたことがわかる。
さらに今から22年前に私はこう書いている。
「社会主義派の新聞で連続革命の思想が、すなわち一連のますます激化する社会的衝突、次々に新たに決起する人民階層による蜂起、支配階級の政治的・経済的特権に対するプロレタリアートの間断なき攻撃によって、絶対主義と農奴制の清算を社会主義的変革に結びつける革命という思想が定式化されたとき、わが国の『進歩派』の新聞雑誌は異口同音に轟々たる非難の声を上げた」(『われわれの革命』、1906年、258頁)(5)。
まずもって、この文章で与えられている連続革命の定義に注意を喚起しておきたい。それは、一連のますます激化する社会的衝突によって中世的なものの清算と社会主義的変革とを結びつけている。ここのどこに飛躍があるのか? どこに民主主義的段階の無視があるのか? そして、まさにこの通りのことが1917年に起こったのではないのか?
ついでに言っておかなければならないが、連続革命に対する1905年の「進歩派」の新聞雑誌による轟々たる非難も、実に4分の1世紀も遅れてからこの問題に口を出しはじめた今日の三文文筆家たちの、とうてい進歩的とは言えないわめき声の足元にも及ばない。
当時のボリシェヴィキ派の指導的機関紙で、レーニンの注意深い編集のもとに発行されていた『ノーヴァヤ・ジーズニ』は、私が新聞紙上で提起した永続革命の問題に対していかなる態度をとっただろうか? これが非常に興味深い問題であることには同意してくれるだろう。「急進的」ブルジョア新聞の『ナーシェ・ジーズニ』の一論文は、トロツキーの「永続革命」にレーニンのより「賢明な」見解を対置しようとしたが、この論文に答えてボリシェヴィキの『ノーヴァヤ・ジーズニ』は次のように述べた(1905年11月27日付)。
「この無思慮な報道はもちろんのこと、まったくのナンセンスである。同志トロツキーはプロレタリア革命がその第1段階で停止することなく、その道を引き続き進み、搾取者を追いつめると言っているのに対し、レーニンは政治的革命が単なる第一歩にすぎないと指摘している。『ナーシェ・ジーズニ』の評論家たちはそこに一つの矛盾を見出そうとしている。……誤解のすべては、まず第1に、社会革命という名前そのものに対して『ナーシェ・ジーズニ』が抱いた恐怖から、第2には、社会民主主義者のあいだに何らかの先鋭でセンセーショナルな意見対立を見出したいという同紙の願望から、第3には、『一撃で』という同志トロツキーの比喩的表現から、生じている。だが『ナチャーロ』紙の第10号で同志トロツキーは、まったく曖昧さのない形で自らの思想を次のように説明している。
『革命の完全な勝利はプロレタリアートの勝利を意味する――と同志トロツキーは書いている――。しかし、プロレタリアートの勝利はまた、革命のさらなる連続性を意味している。プロレタリアートは民主主義の基本的諸課題を実現すると、自己の政治的支配を強化せんとするプロレタリアートの直接的闘争の論理は、ある一定の瞬間において純粋に社会主義的な諸問題をプロレタリアートの前に提起する。最大限綱領と最小限綱領とのあいだに革命的連続性が確立される。これは単なる「一撃で」でも、1日やひと月でもない。それは一つの歴史的時期全体である。この時期がどのくらい続くかをあらじめ計算するのは馬鹿げたことである』」。
この引用文だけで、ある程度、この小冊子のテーマが言い尽くされている。レーニンの『ノーヴァヤ・ジーズニ』がこれほどまでに賞賛した私のこの新聞論文(6)は、エピゴーネンが将来行なうことになる批判のいっさいを十分明快かつ正確に議論の余地のない形で事前に反駁しているのではなかろうか? 私の論文は、勝利したプロレタリアートが、民主主義的諸課題を実現していく過程において、その置かれた状況の論理によって、ある一定の段階で純粋に社会主義的な諸問題に不可避的に直面せざるをえなくなると説明している。最小限綱領と最大限綱領のあいだに連続性が生じるのはまさにここにおいてであり、これはプロレタリアートの独裁から不可避的に生じてくるのである。小ブルジョア陣営からの当時の批判に対して説明したように、これはけっして一撃で達成されるものでも、飛躍でもない、それは一つの歴史的時期全体にわたる過程である。そしてレーニンの『ノーヴァヤ・ジーズニ』はこの展望に完全に同意していたのである。しかし、もっと重要なことは、現実の発展過程がこの展望を検証にかけ、1917年にその正しさを完全に立証したという事実である。
『ナーシャ・ジーズニ』の小ブルジョア民主主義者たちとは別に、1905年に、とくに革命の敗北が始まった後の1906年に、民主主義を飛び越えての社会主義への空想的な「飛躍」について非難していたのは主としてメンシェヴィキであった。メンシェヴィキの中でも、この分野でとくに目立っていたのはマルトゥイノフと今は亡きヨルダンスキーだった。ちなみに、両名とも後にごりごりのスターリニストになった。「社会主義への飛躍」を私になすりつけようとしたメンシェヴィキの著述家たちに対して、私は1906年の特別論文の中で、彼らの主張するところが間違っているだけでなく、馬鹿げたものだということを詳細にわかりやすく説明したことがある。エピゴーネンの批判に対して、この論文を今日ほとんどそのままの形で再刊してもよいのだが、ここではこの論文の結論が次の言葉に要約されていることを述べておくだけで十分であろう。
「政治評論の中で政治的障害を飛び越えることが実践においてそれを克服することを意味するものではないことぐらい、私も十分に承知している。あえてこの点を私の書評子(ヨルダンスキー)にきっぱり言っておく」(第2巻第1分冊、454頁)(7)。
これで十分ではないだろうか? それでも十分でないというのなら、私はラデックのような批判者たちがかくも無思慮に判断を下しているものを「手元に」特っていなかったなどと言わさないよう、さらに引用を続けよう。
私が1906年に獄中で書いて、その後すぐレーニンによって出版された『われわれの戦術』という短いパンフレットは、次のような結論をその基調としている。
「プロレタリアートは農村の反乱に依拠することができるだろう。政治生活の中心たる都市においても、プロレタリアートは自らが始めた仕事を完成させることができるだろう。農民の自然発生的力に依拠し、それを指導して、プロレタリアートは反動に対して決定的な勝利の一撃を与えるだけでなく、革命の勝利をも確保することができるだろう」(第2巻第1分冊、448頁)(8)。
これが農民の無視に見えるだろうか?
ちなみに、同じパンフレットで次のような思想が展開されている。
「革命の不可抗力的な展開を計算に入れているわれわれの戦術は、もちろんのこと、革命運動の不可避的ないし可能な、あるいは単に蓋然的な諸局面および諸段階を無視してはならない」(第2巻第1分冊、436頁)(9)。
これが空想的な飛躍に見えるだろうか?
「最初のソヴィエトの教訓」という論文(1906年)の中で、私は革命の今後の発展の展望を、あるいは実際にそうなったように、新しい革命の展望を次のように描き出している。
「歴史は繰り返えさない。新しいソヴィエトはあの50日間(1905年10月〜12月)の出来事をもう一度繰り返えさなくてもよいだけではなく、その行動綱領をそっくりそのままこの時期から借りることができるだろう。この綱領はまったく明白である。すなわち、軍隊、農民および都市小ブルジョアジーの下層との革命的協力、絶対主義の打倒、その物質的機構の破壊、軍隊の一部を再編し一部を解体すること、官僚的警察機構の廃絶、1日8時間労働制、住民の武装、とくにプロレタリアートの武装、ソヴィエトを革命的都市自治機関に転化すること、地方における土地革命の機関としての農民代表ソヴィエト(農民委員会)の創設、憲法制定議会選挙の組織化、人民代表者の明確な行動綱領を基盤とする選挙闘争、である」(第2巻第2分冊、206頁)(10)。
これが土地革命の飛び越えや農民問題全体の過小評価に見えるだろうか? 私が革命の民主主義的課題を理解していなかったように見えるだろうか? いや、そうは見えない。では、その場合、ラデックの政治的絵画はどのように見えるだろうか? まったく何ものにも!
ラデックは寛容にも、だが非常に曖昧な形で、1905年の私の立場(ただしラデックによって歪められたそれ)とメンシェヴィキの立場とを区別している。もっとも、彼自身、メンシェヴィキによる批判の4分の3までもそのまま繰り返していることに気づいていないのだが。ラデックは偽善的に言う、トロツキーの方法はメンシェヴィキと同じだったが、その目的は別であった、と。しかし、このような主観的問題設定によって、ラデックは問題に対する自分自身のアプローチを完全に台無しにしてしまっている。ラサールがすでに述べているように、目的は方法に依存し、究極においては方法によって条件づけられている。ラサールはこのテーマで戯曲まで書いている(『フランツ・フォン・ジッキンゲン』)。
しかし、いったいどの点で私の方法とメンシェヴィキの方法とが一致しているというのか? 農民に対する態度においてである。証拠としてラデックは、すでにわれわれが引用した1916年のレーニンの論文から3つの論争的文章を挙げているが、ラデックはことのついでに、レーニンがトロツキーの名前を挙げつつも、実際にはブハーリンやラデック自身と論争していることを認めているのである。このレーニンの引用文――それは、すでに見たようにレーニンの論文の内容全体によって反駁されているのだが――の他に、ラデックはトロツキー自身の文章をも持ち出している。1916年の論文(11)の中で私は、メンシェヴィキの概念の空虚さを暴露して、次のように質問した。自由主義ブルジョアジーが指導しないとすれば、いったい誰が指導するのか? 何といっても、君たちメンシェヴィキは、いずれにせよ農民の独立した政治的役割を信じてはいないのだから、と。したがって――とラデックは私の罪証をつかんで言う――トロツキーは農民の役割に関してメンシェヴィキと「一致」していたのだ。だが、メンシェヴィキは、農民との疑わしく当てにならない同盟のために自由主義ブルジョアジーを「排撃」することは許されないと考えた。ここにメンシェヴィキの「方法」があった。それに対して私の方法は、自由主義ブルジョアジーを押しのけて、革命的農民に対する指導権のために闘争することであった。この根本問題において私とレーニンのあいだに何ら意見の相違はなかった。私がメンシェヴィキとの闘争の中で彼らに向かって「いずれにせよ諸君には農民に指導的役割を割り当てる気はさらさらない」と言ったとき、これはラデックの中傷しているところとは違って、メンシェヴィキの「方法」との一致を示すものではなく、自由主義的富裕階層の独裁かプロレタリアートの独裁かという明確な二者択一を提起するものにすぎないのである。
1916年にメンシェヴィキに対して私が行なったまったく正当な批判――ラデックは現在それを不誠実にも私を攻撃するために悪用している――と同様の議論は、それより9年前のロンドン党大会(1907年)でもなされている。それは、非プロレタリア諸党に対する態度に関するボリシェヴィキのテーゼを擁護したときの演説である。ここに私のロンドン演説の主要部分を引用しておくが、これは10月革命後の最初の数年間においては、革命における諸階級と諸政党に対するボリシェヴィキ的なアプローチを明らかにしたものとして、さまざまな論文集や選集に何度となく再録された。しかも、この演説の中で、私は永続革命論を圧縮した形で表明しているのである。
「メンシェヴィキの同志諸君にとっては自分たちの見解が途方もなく複雑に見えるようだ。私は彼らから何度となく、ロシア革命の経過を単純化して理解しているという非難を耳にした。だが実際はメンシェヴィキの見解はその極端な無定型さゆえに複雑に見えているにすぎず、この無定型さにもかかわらず、むしろ、まさにそれゆえに、メンシェヴィキの見解はミリュコーフ氏でさえ理解できるほどのまったく単純な図式にすっぽり収まるのである。
このカデット党の思想的指導者は、最近出版された『第2国会の選挙はいかに行なわれたか』という小冊子のあとがきでこう書いている。
『狭義の左翼グループ、すなわち社会主義的・革命的なグループに関しては、折り合いをつけることはいっそう困難になるだろう。とはいえ、ここでもやはり、ある程度お互いの接近を助けるような、明確な積極的理由ではないにしても、きわめて強力な消極的理由がある。彼らの目的はわれわれを批判し、われわれの信用を傷つけることにあり、そのためにこそ、われわれが存在し行動することが必要なのだ。ロシアの社会主義者だけでなく全世界の社会主義者にとっても、現在進行中の革命は社会主義革命ではなくてブルジョア革命であり、ブルジョア民主主義派が遂行すべき革命であるとされていることをわれわれは知っている。世界中のどんな社会主義者もこの民主主義派の席を占める準備をしてこなかったし、彼らがかなり大量に国会に選出されたとしても、それはもちろんのこと、社会主義を今すぐ実現したり、準備的な『ブルジョア的』諸改革を自分の手で実施したりするためではない。…したがって、彼らは議会人の役割をわれわれに委ねるほうが、自分でこの役割を演じて恥をかくよりも、はるかに好都合なのである』。
ごらんのように、ミリュコーフはわれわれをただちに問題の核心に連れていっている。ここに挙げた引用文には、革命に対する、およびブルジョア民主主義と社会主義的民主主義との関係に対するメンシェヴィキの見解の基本要素がすべて揃っている。
『現在進行中の革命は社会主義革命ではなくてブルジョア革命である』――これが第一。ブルジョア革命は『ブルジョア民主主義派が遂行しなければならない』――これが第2。社会民主主義派は自分の手でブルジョア的改革を遂行することができない。その役割は純粋に野党的である。すなわち『批判し』、『信用を傷つける』ことである――これが第3。最後に第4の要素は、社会主義者が野党にとどまることが可能であるためには、『われわれ(つまりブルジョア民主主義派)が存在し行動することが必要である』。
だが、もしその『われわれ』がいなければ? もしブルジョア革命の先頭に立つ能力のあるブルジョア民主主義派が不在だったならどうか? そのときはこれをでっち上げるしかない。メンシェヴィズムもまさにこうした結論に達している。メンシェヴィズムは自分の想像によってブルジョア民主主義派を、その特質と歴史をつくり上げているのだ。
唯物論者として、われわれは何よりもまずブルジョア民主主義派の社会的基盤の問題を、すなわちそれがどのような階層ないし階級の上に立脚することができるのかという問題を提起しなければならない。
まず大ブルジョアジーに関して言えば――この点ではわれわれはみな一致していると思うが――、それを革命勢力として語るわけにはいかない。最も広い意味での国民革命であったフランス大革命のときですら、リヨンあたりの産業家たちは反革命的役割を演じたのである。ところが、中ブルジョアジーととりわけ小ブルジョアジーがブルジョア革命の指導勢力として語られている。だがこの小ブルジョアジーとはいったい何か?
ジャコバン派は手工業のギルドの中から成長してきた都市の民主主義派に立脚していた。小親方と職人、および彼らと密接不可分の関係にあった小市民は革命的サンキュロットの軍勢を構成し、指導党派である山岳党の支柱をなした。ギルド的手工業という長期にわたる歴史の学校を通過したこの密集した都市住民大衆こそ、革命的変革のいっさいの重みを担ったのである。この革命の客観的な帰結は、資本主義的搾取の『正常な』諸条件をつくり出すことであった。しかしながら、歴史的過程の社会的メカニズムの結果としてもたらされたのは、ブルジョア支配の諸条件が下層民、街頭の民主主義、サンキュロットによって形成されたことである。彼らの恐怖政治的独裁がブルジョア社会から古いがらくたを一掃し、その後でブルジョアジーが小ブルジョア的民主主義派の独裁を打倒して支配権を握ったのである。
さて、ここで諸君にお尋ねしたい――残念ながらこれがはじめてではないのだが――、わが国では、いったいいかなる社会階級が革命的ブルジョア民主主義派を台頭させ、彼らを権力につけ、大事業を遂行する可能性を彼らに与えるのか? しかもプロレタリアートを敵にまわしてだ。これが中心問題であり、私は改めてメンシェヴィキ諸君にこの問題を提起したい。
たしかに、わが国には巨大な革命的農民大衆が存在している。しかし、いかに農民が革命的であったとしても、彼らには独立した、ましてや指導的な政治的役割を果たす能力がないことは、私に劣らずメンシェヴィキの同志諸君もご存知のはずだ。農民が革命に貢献する巨大勢力であることは議論の余地のないことであるが、しかしムジークの政党がブルジョア革命の先頭に立ち、自らのイニシアチブで国の生産力を古い束縛から解放する能力があるなどと考える者は、マルクス主義者の名に値しないであろう。都市こそが現代社会のヘゲモン(主導者)であり、それだけがブルジョア革命のヘゲモンの役割を果たすことができるのである※」。
※原注 さすがに永続革命の遅ればせの批判者たちもこのことに同意するのではなかろうか? では彼らはこの命題を東方諸国に、中国やインドなどに拡大するつもりがあるだろうか? イエスかノーか?
「では、わが国において国民を指導することのできるような都市の民主主義派はいったいどこにいるのか? 同志マルトゥイノフは虫めがねを手にしてすでに何度も探した。彼はサラトフの教員、ペテルブルクの弁護士、それにモスクワの統計学者を見つけ出した。彼は、他のすべての同意見者たちと同様、ロシア革命においては工業プロレタリアートこそが、18世紀末にサンキュロットという手工業的な半プロレタリア的民主主義派が立脚していた基盤を占めていることに気づきさえしない。同志諸君、私はこの根本的事実に諸君の注意を喚起したい。
わが国の大工業は手工業の中から自然に成長してきたのではまったくない。わが国の都市の経済史はギルドの時代をまったく欠いている。わが国の資本主義工業はヨーロッパ資本の直接の圧力のもとに生成し、基本的に手工業文化の抵抗を受けることなく原初的な処女地を征服した。外国資本は国債という運河や私的投資というパイプラインを通じてわが国に流れ込んだ。それは手工業を成立・発展させることなく工業プロレタリアートの軍勢を自己の周囲に結集した。この過程の結果、わが国ではブルジョア革命の瞬間が訪れる以前に、きわめて高度な社会的タイプの工業プロレタリアートが都市の主要勢力を構成するに至った。これは反駁できない事実であり、われわれが革命戦術上の結論を引き出す際の基礎としなければならない。
メンシェヴィキの同志諸君が革命の勝利を信じているならば、あるいはその可能性を認めているだけもよいが、その場合、彼らはわが国で革命権力の歴史的請求権を持つ者がプロレタリアートの他にいないのだという事実に反駁することはできないだろう。フランス大革命において小ブルジョア的な都市民主主義派が革命的国民の先頭に立ったように、わが国の都市における唯一の革命的民主主義派たるプロレタリアートは、農民大衆に支持を見出さなければならないし、革命を勝利させるためには自ら権力を握らねばならない。
この政府は、プロレタリアートに直接依拠し、彼らを通じて革命的農民に依拠するが、それはまだ社会主義独裁を意味するものではない。
プロレタリア政府のその後の展望についてはここでは触れないことにする。
プロレタリアートは、もしかしたら、ジャコバン民主主義が没落してブルジョアジーの支配に席を譲ったように、没落を運命づけられているのかもしれない。だが、次のことだけは確認しておきたい。すなわち、プレハーノフの予言どおりわが国の革命運動が労働運動として勝利するのだとすれば、革命の勝利はわが国ではプロレタリアートの革命的勝利としてだけ可能であるか、さもなくばまったく不可能だということだ。
私はこの結論に断固として固執する。プロレタリアートと農民大衆との社会的矛盾ゆえにプロレタリアートが農民を指導することができないことを認めるならば、また、プロレタリアートそのものに勝利する力量がないことを認めるならば、わが国の革命はそもそも勝利しえないという結論にならざるをえない。こうした状況下では、自由主義ブルジョアジーと旧権力との妥協が革命の当然の帰結になるだろう。こうした帰結の可能性を否定することはけっしてできない。しかし、それが、革命の内的弱さによってもたらされたその敗北の過程で生じるものであることは明らかである。
基本的に、メンシェヴィキの分析全体、何よりもそのプロレタリアート評価と農民に対するそのありうる関係についての評価は、容赦なく彼らを革命的悲観論の道へと導く。
だが、彼らは他方では絶えずこの道から逸れて革命的楽観論を展開する…ブルジョア民主主義派に関しては。
ここからカデットに対する彼らの態度が出てくる。彼らにとっては、カデットはブルジョア民主主義派の象徴であり、ブルジョア民主主義派は革命権力に対する当然の請求権者なのだ。……
カデットが再び台頭し背筋を伸ばすだろうとの諸君の確信はいったい何にもとづいているのか? 政治的発展の諸事実にか? いな、諸君の図式にである! 『革命を最後まで遂行する』ためには諸君には都市のブルジョア民主主義派が必要である。諸君は目を皿のようにして探すが、カデットの他には何も見つからない。そこで諸君は彼らについては驚くべき楽観論を展開する。諸君は彼らに扮装をほどこす。諸君は彼らが演じたくもなく、演ずることもできず、演じないであろう創造的役割を演ずるよう強制したがっている。
私はこの根本問題を何度も提出してきたが、いまだ回答を聞いたことがない。諸君には革命の予測というものがない。諸君の政策は大きな展望を欠いているのである。
またこの点に関連して、ブルジョア諸政党に対する諸君の態度は、大会の記録にとどめられるべき一つの言葉によって要約される。それは『場あたり的』ということだ。諸君にあっては、プロレタリアートは人民大衆に影響を及ぼすための系統的闘争を行なわない。また、自己の周囲に勤労者・被抑圧者を結集して彼らの代弁者にして指導者になるという一つの指導理念にもとづいて、自己の戦術的行動を検証するということもしない」(『第5回大会――議事録と決議』、180〜185頁)(12)。
この演説は、1905〜1906年における私のすべての論文・演説・行動を要約するものであり、ローザ・ルクセンブルクやトゥイシコ
〔ヨギヘス〕は言うまでもなく(この演説がきっかけで、私は彼らとより親密な関係を結び、彼らのポーランド語雑誌にも寄稿するようになった)、ボリシェヴィキからも全面的な共感をもって迎えられた。レーニンはメンシェヴィキに対する私の調停主義的姿勢を許容しなかったが――それは正しかった――、この私の演説については、意識的に控え目な姿勢を強調しながらも、次のような意見を述べている。「私はただ、トロツキーがその『党の擁護』という小冊子のなかで、現在のロシア革命におけるプロレタリアートと農民との経済的利害の共通性について書いたカウツキーと意見が一致していることを表明したことだけを指摘しておこう。トロツキーは、自由主義ブルジョアジーに反対する左翼ブロックを、容認しうる合目的的なものと認めた。トロツキーがわれわれの見解に接近したことを確認するためには、これらの事実だけで私には十分である。『連続革命』の問題にはかかわりなく、ここには、ブルジョア諸党に対する態度という問題の基本点での意見の一致がある」(『レーニン全集』第8巻、400頁)(13)。
私も演説の中でプロレタリアートの独裁の展望をそれ以上は展開していないので、レーニンもまたその演説の中で永続革命論の一般的な評価をしていない。レーニンは明らかにこの問題に関する私の基本文献を読んでいなかった。でなかったら、ボリシェヴィキの見解への私の「接近」を何か新しいことのようには言わなかったはずである。というのも、私のロンドン演説は1905〜1906年の私の諸論文を要約して述べたものにすぎないからである。私がボリシェヴィキ分派の外部に位置していたためレーニンはきわめて控え目に自分の意見を表明している。それにもかかわらず、いやもっと正確に言えば、まさにそれゆえにこそ、レーニンの言葉には誤った解釈をする余地がないのだ。レーニンは、農民および自由主義ブルジョアジーに対する態度という「問題の基本点での意見の一致」を確認している。この意見の一致は、ラデックがでたらめに持ち出している私の目的に関するものではなく、まさしく方法に関するものである。民主主義革命の社会主義革命への成長転化という展望に関しては、まさにレーニンは「連続革命の問題にはかかわりなく」という留保を行なっている。この留保は何を意味しているか? 明白である。無知で破廉恥なエピゴーネンがいつもやっているのとは違って、レーニンは、永続革命を農民の無視や土地革命の飛び越しなどとまったく同一視していなかったということである。レーニンの考えはこうであった。すなわち、われわれの革命がどこまで進展するか、わが国でプロレタリアートがヨーロッパよりも早く権力を獲得するかどうか、それが社会主義にとっていかなる展望を切り開くのか――これらの問題には触れないが、農民および自由主義ブルジョアジーに対する態度という基本問題に関しては「意見の一致がある」ということである。
先ほどわれわれは、永続革命論が、その生成期、すなわち1905年に、ボリシェヴィキの『ノーヴァヤ・ジーズニ』でどのような反響に出くわしたかを見てきた。そこで次に1917年の後に『レーニン全集』の編集者たちがこの理論についてどう言っているかを見ておこう。その第14巻第2分冊の481頁の注解は次のように述べている。
「すでに1905年革命の以前に、彼(トロツキー)は現在とくに注目に値する永続革命論をはじめて打ち出し、その中で彼は1905年のブルジョア革命が直接に社会主義革命に移行して〔他国での〕一連の国民革命の嚆矢となるだろうと主張した」。
これはたしかに、永続革命について私が書いたことすべての正しさを認めるものではないが、いずれにせよ、ラデックが永続革命について書いていることの誤りを認めるものではある。「ブルジョア革命は直接に社会主義革命に移行するであろう」――これはまさしく成長転化の理論であって、飛び越えの理論ではない。ここから出てくるのは、冒険主義的な戦術ではなく、現実主義的な戦術である。また「現在とくに注目に値する永続革命論」という言葉は何を意味しているのか? これは、10月革命が、それまでは多くの人々にとって暗闇の中に置かれたままであったか、あるいは単に「とてもありえない」と思われていたこの理論の側面に新しい光を当てることになったということを意味している。『レーニン全集』第14巻第2分冊は著者の生前に発行された。何千・何万という党員がこの注解を読んでいる。そして、1924年までは誰もそれが誤っているなどとは言わなかった。しかるにラデックは1928年になって、それの誤りに気づいたというわけである。
しかし、ラデックが理論だけでなく実践についても語るかぎり、彼の言い分に対する最も重要な反論でありつづけているのはやはり、1905年および1917年の革命への私の実践的参加の性格である。1905年のペテルブルク・ソヴィエトで私が活動していた時期は、エピゴーネンが絶え間なく攻撃している、革命の性質に関する私の見解が形成された時期と同じである。もしこの見解が本当に誤っていたのならば、すべての人々の眼前で行なわれ、毎日の新聞に報道されていた私の政治活動にどうしてそれがまったく反映されなかったのか? またもし、そのような不合理な理論が私の政策に反映していたならば、現在の執政官たちはなぜその当時黙っていたのか? さらに重要なことには、なぜレーニンはペテルブルク・ソヴィエトを、革命の最高潮の時期にも、またその敗北後も、全力で擁護したのか?
同じ問題は――おそらくはもっとずっと先鋭な形で――1917年の革命に関してもあてはまるだろう。私はニューヨークで、永続革命論の観点から一連の論文の中で2月革命に対する評価を行なった。これらの諸論文は今日すべて再刊されている。私の戦術的結論は、同時期にレーニンがジュネーブで引き出した結論と完全に一致しており、したがってカーメネフ、スターリンをはじめとするエピゴーネンの結論とまったく非和解的に対立している。私がペトログラードに着いた時、私に永続革命の「誤り」を放棄したかどうか尋ねる者など1人もいなかった。しかり、そのような者は誰もいなかった。スターリンは恥ずかしそうに隅でちぢこまっていて、レーニンの到着以前に自分が唱えていた政策を党ができるだけすみやかに忘れてくれるのをひたすら願っていた。ヤロスラフスキーはまだ統制委員会の議長ではなく、メンシェヴィキやオルジョニキッゼその他といっしょにヤクーツクで凡庸な半自由主義的新聞を発行していた。カーメネフはレーニンをトロツキズムの罪で非難していた。彼は私と会ったときこう言ったものだ。「今や君の季節だな」。10月革命の前夜、私はボリシェヴィキの中央機関紙に永続革命の展望について書いた(14)。それを非難することなど当時の誰の頭にも浮かばなかった。私とレーニンとの意見の一致は完全で全面的なものとなった。
さて、ラデックを含む私の批判者たちは以上のことをどう解釈するつもりなのか? 私自身が自分の唱えた理論をまったく理解しておらず、最も重大な歴史的時期に、この理論に反して、まったく正しく行動したとでも言うのか? 私の批判者たちが、他の多くの物事と同様に永続革命についても理解していなかったと考える方がもっと簡単なのではないか? なぜなら、もしこれら遅ればせの批判者たちが自分の思想だけでなく他人の思想のこともよく理解していたなら、彼らがみな例外なく1917年革命においてあのような惨めな立場をとり、中国革命において永遠の恥辱を受ける羽目に陥ったことがまったく説明つかないからである。
※ ※ ※
しかし、それでも一部の読者は突如として思い出すかもしれない――「ツァーリではなく労働者政府を」という君の中心スローガンはどうなのかと。
この議論は一部の人々のあいだでは決定的なものとみなされている。トロツキーの恐るべきスローガン「ツァーリではなく…」は、ある場合には、トロツキーの有罪を示す最終的で最も重要で決定的な論拠として、別の場合には、疲れ果てた思想の出来合いの避難所として、あらゆる永続革命批判者の著作物に取り入れられている。
この批判が最高度の深みに達するのは、もちろん、無知と不実さの「達人」がその比類のない著作『レーニン主義の諸問題』の中で次のように言うときである。
「同志トロツキーが『ツァーリではなく労働者政府を』というスローガン、すなわち、農民ぬきの革命のスローガンを掲げて、革命勢力としての農民のことを『あっさり』忘れてしまった1905年の彼の立場については、詳しく論じないでおこう(おやおや!――トロツキー)」(イ・スターリン『レーニン主義の諸問題』、174〜175頁)(15)。
「詳しく論じない」というこの壊滅的な批判の前にしてほぼ絶望的な私の状況にもかかわらず、若干の情状酌量的な事情を指摘する努力をしてみよう。そのような事情はある。どうかよく聞いていただきたい。
たとえ私が1905年の何らかの論文の中で、誤解の余地を与えうるような曖昧な、あるいはまずいスローガンを定式化していたとしても、このスローガンは23年後の今日になって、孤立的に取り上げられるべきではなく、同じテーマに関する私のその他の文献と結びつけて、とりわけ事件への私の政治的参加と結びつけて取り上げられるべきである。読者の知らない(批判者たちも同じく知らない)著述の名称だけを読者に告げて、この名称から、私の言動のいっさいとまったく正反対の意味をつくり出すようなことは、けっしてしてはならない。
さて批判者諸君、「ツァーリではなく労働者政府を」というスローガンを私はいついかなる場合でも書いたことはないし、発表したことも提起したこともない、ということを付言しておくことは余計なことではあるまい。私を裁く人々の主要な論告の基礎には、何はともあれ、事実に関する最も破廉恥な誤りがある。実を言うと、「
ツァーリではなく労働者政府を」という表題の声明を書いて発表したのは、1905年の夏に国外にいたパルヴスであった。当時、私はとっくにペテルブルクで非合法生活をしており、事実の上でも思想の上でも、このリーフレットとはまったく何の関係もなかった。ずっと後になって論争的論文の中ではじめてこのリーフレットのことを知ったが、結局それについて自分の意見を表明するきっかけも機会をまったくなかった。この声明を私は(批判者たちと同じく)見たことも読んだこともない。これがこの注目すべき事件の真相である。テールマンやセマールのごとき輩から、最も便利で手っ取り早く効果的な論拠を取り上げてしまうのは誠に気の毒ではある。しかし、事実は私の人道的感情よりも強力なのだ。それだけでない。物事はうまいめぐり合わせをするものだ。パルヴスが国外で私の知らない『ツァーリではなく労働者政府を』というリーフレットを発表したちょうど同じ頃に、私の書いた『ツァーリでもなく、ゼムストヴォ有力者でもなく、人民を!』という表題のリーフレットがペテルブルクで非合法に出版された(16)。労働者と農民を包含するスローガンとしてしばしばこのリーフレットの本文中に繰り返されているこの表題は、まるで、革命の民主主義的段階の飛び越えという、後に私に向けられた非難を通俗的な形で反論するために考え出されたものであるかのようだ。このアピールも私の『著作集』に再録されている(第2巻第1分冊、256頁)。同じく同書には、スターリンの天才的な表現によれば私が「あっさり忘れていた」というまさにその農民に向けた私の声明文(17)――ボリシェヴィキ中央委員会によって公表されたもの――も再録されている。
しかし、これでもまだすべてではない。つい先頃、中国革命の理論家にして指導者の1人である栄光に輝くラフェスは、ソ連共産党中央委員会の理論誌に、トロツキーがあの恐るべきスローガンを1917年に唱えたと書いている。1905年ではなく、1917年にだ! もっとも、メンシェヴィキであったラフェスには多少とも弁解の余地がある。ほとんど1920年まで彼はペトリューラ政府の「大臣」であった。ボリシェヴィキとの闘争という国事に追われていた彼に、10月革命陣営内の出来事を探求する余裕などどこにあったろう? だが、中央委員会機関誌の編集部はどうか? 何とも奇妙な話だ。だがナンセンスなものはナンセンスなのである。
「まさかそんな!」と、この数年間、無数の三文文献で育てられた善良な読者は叫ぶだろう――「われわれは何百、何千という本や論文でそう教えられてきたではないか…」。
――しかり、友人たちよ、諸君はそう教えられてきた。だからもう一度学び直さなければならない。これは反動期に生じた間接費である。それについてはどうすることもできない。歴史は直線的には進まない。それは一時的にスターリンの袋小路に迷いこんでしまったのである。
訳注
(1)トロツキー「政治的書簡」、前掲『わが第一革命』、95頁。
(2)レーニン「臨時革命政府に関する決議に対する修正提案についての演説」、邦訳『レーニン全集』第8巻、401頁。
(3)トロツキー『政治の中のピョートル・ストルーヴェ氏』の一部。
(4)トロツキー「社会革命党は何を教えているか」、『トロツキー研究』第47号、205頁。
(5)トロツキー「
総括と展望」、前掲『わが第一革命』、337頁。(6)トロツキー「社会民主党と革命」、前掲『わが第一革命』所収。
(7)トロツキー「革命のさらなる発展の展望」(「第2国会への道」という論文の一部)、『トロツキー研究』第18号、25頁。
(8)トロツキー「
革命とその力」、『トロツキー研究』第47号、221頁。(9)トロツキー「憲法制定議会のための闘争におけるわれわれの戦術」、『わが第一革命』、396頁。
(10)トロツキー「最初のソヴィエトの教訓」、『トロツキー研究』第47号、230〜231頁。
(11)1915年10月に『ナーシェ・スローヴォ』に掲載されたトロツキー「権力のための闘争」(本書の付録として所収)のことを指していると思われるが、年代が1年ずれている。
(12)トロツキー「ロシア社会民主労働党ロンドン大会における演説」、前掲『わが第一革命』、400〜404頁。
(13)レーニン「ブルジョア政党に対する態度についての報告の結語」、邦訳『レーニン全集』第12巻、482頁。
(14)トロツキー「
次は何か――総括と展望」、『トロツキー研究』第5号所収。(15)スターリン「10月革命とロシア共産主義者の戦術」、邦訳『スターリン全集』第6巻、382頁。
(16)トロツキー「ツァーリでもなく、ゼムストヴォ有力者でもなく、人民を!」、前掲『わが第一革命』所収。
(17)トロツキー「農民たち、われわれの言葉を諸君に!」、前掲『わが第一革命』所収。
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