2つの概念――ドイツ語版と英語版への序文

 本書の外国語版が刊行されようとしている今日、国際労働者階級の思慮あるすべての人々、そしてまたある意味では「文明」世界のすべての人々が、特別に鋭い関心を抱いて、旧ロシア帝国の大部分で起こっている経済的転換の反響に耳を傾けている。その際、最大の注意が向けられている問題は農業の集団化である。そしてそれも驚くべきことではない。この分野において、過去との断絶が特別に包括的な性格を有しているからである。しかしながら、社会主義革命の一般的概念なしには集団化を正しく評価することは考えられない。そして、この点でわれわれは再び――だがすでにより高度な水準で――、マルクス主義の理論分野には実践活動にとってどうでもよいものは何もないということを確信する。最もかけ離れた、「抽象的」とも見えるような意見の相違も、とことんまで考え抜かれたものであるならば、遅かれ早かれ、常に実践において表現される。そしてこの実践は、たった一つの理論的誤りといえども容赦しはしないのである。

 農業の集団化は、言うまでもなく、社会の社会主義的改造にとって必要かつ核心的な部分である。しかし、集団化の規模とテンポは政府の意志一つで決まるものではなく、究極的には、経済的諸要因によって、すなわち、その国の経済水準の高さ、工業と農業との相互関係、したがってまた、農業それ自体の技術的水準によって決定される。

 工業化は、新たな文化全体の推進要因であり、それゆえ社会主義の考えられうる唯一の基礎である。ソヴィエト連邦の諸条件においては、工業化は何よりも、支配階級としてのプロレタリアートの基盤を強化することを意味する。それは、同時に、農業の集団化のための物質的・技術的諸前提を創出する。これら2つの過程のテンポは相互依存の関係にある。プロレタリアートはこれらの過程ができるだけ急速なテンポで進むことに利益を有している。なぜなら、それによって、建設途上にある新たな社会が外部の危険から最もよく保護されるからであり、それと同時に、勤労大衆の物質水準の系統的向上にとっての源泉が作り出されるからである。

 しかしながら、達成可能なテンポは、その国の全体としての物質的および文化的水準によって、都市と農村との相互関係によって、また大衆の切実な諸要求によって制約されている。大衆は、明日のために今日を犠牲にすることができるが、それも一定の限界までにすぎない。最適なテンポ、すなわち最善にして最も有利なテンポとは、その時々において、工業と集団化の急速な発展をもたらすだけでなく、プロレタリア独裁の社会体制の必要な安定性を保証するような、すなわち何よりも労農同盟の強化を保証するような、したがってまた今後のさらなる成功を準備するようなテンポのことである。

 この観点からすれば、党および国家の指導部が、工業の計画的な発展をどのような全般的な歴史的基準にもとづいて方向づけているのかが決定的な意義を持ってくる。ここでは2つの基本的なバリエーションがありうる。1、先に特徴づけたような、国際プロレタリア革命の次の勝利まで、一国におけるプロレタリア独裁を経済的に強化する路線(左翼反対派の観点)。2、孤立した一国的社会主義社会を、しかも「最短の歴史期間で」建設しきる路線(現在の公式の観点)。

 この2つは、社会主義に関するまったく異なった、究極においては正反対の理論的概念にもとづいている。ここから、根本的に異なった戦略と戦術が出てくるのである。

 この序文の範囲では、一国社会主義建設の問題を改めて考察することはできない。このテーマについては、われわれの他の著作、とりわけ『コミンテルン綱領草案批判』〔『レーニン死後の第3インターナショナル』〕で論じられている。ここではこの問題の最も基本的な要素を論じるにとどめておこう。まずもって最初に指摘しておかなければならないのは、一国社会主義論は1924年秋に、スターリンによって初めて定式化されたもので、マルクス主義の伝統とレーニンの教えのすべてに矛盾しているだけでなく、同年春にスターリンが書いていたこととも完全に矛盾しているということである。原則の観点からすれば、スターリン「学派」が社会主義建設の問題においてマルクス主義から逸脱したことは、たとえば、1914年秋に、すなわちスターリンの転換のちょうど10年前に、ドイツ社会民主党が、戦争と愛国主義の問題においてマルクス主義と決別したことにいささかも劣らないぐらい重要な出来事である。この比較はけっして偶然的なものではない。ドイツ社会民主党の「誤り」と同様、スターリンの「誤り」も民族社会主義(ナショナル・ソーシャリズム)にあった。

 マルクス主義は世界経済から出発するが、この世界経済は、諸国民経済の総和ではなく、国際分業と世界市場によって創出され、今日においては各国の国内市場を強力に支配している、強力な一個の独立した現実である。資本主義社会の生産力はとっくに各国の境界を越えて成長した。帝国主義戦争はこの事実の一つの表現であった。社会主義社会は、生産技術面では、資本主義と比べてより高度な段階になければならない。一国的に閉じられた社会主義社会の建設を目ざすことは、たとえ一時的な成功を収めようとも、生産力を資本主義と比較してさえはるかに後退させることを意味するだろう。世界全体の一構成部分である各国の発展の地理的・文化的・歴史的諸条件とは無関係に、国内市場の内部ですべての経済諸部門の自足的な均衡を実現しようと試みることは、反動的ユートピアを追求することを意味する。それにもかかわらず、この理論の唱導者や支持者たちが国際革命闘争に参加しているとすれば(どの程度それに成功しているかはまた別問題である)、それは彼らが手のつけられぬ折衷主義者として、抽象的国際主義と反動的ユートピアたる一国社会主義とを機械的に結びつけているからである。この折衷主義の最も完成された表現が、第6回大会で採択されたコミンテルン綱領である。

 一国社会主義という概念の根底に横たわる主要な理論的誤りの一つを明々白々な形で示すためには、アメリカ共産主義の内部問題を論じたスターリンの最近発表された演説を引用するのが至当であろう。 

※原注 この演説は1929年5月6日になされたものだが、1930年初頭になってようやく発表され、しかもそのさい「綱領的」位置づけを与えられた。

 アメリカ共産党の一分派に反対してスターリンは言う――「アメリカ資本主義の特殊な独自性を考慮に入れないのは正しくない。共産党はその活動においてそれらを考慮しなければならない。しかし、共産党の活動を、これらの特殊な諸側面に基礎づけることは、もっと大きな誤りであろう。なぜなら、アメリカ共産党を含むすべての共産党の活動の基礎となるべきなのは、すべての国にとって本質的に同一の資本主義の一般的特徴であって、当該国の資本主義の特殊な諸側面ではないからである。まさにこのことに共産党の国際主義は立脚している。特殊な諸側面は、一般的特徴を補完するにすぎない」(『ボリシェヴィキ』第1号、1930年、8頁、強調は引用者)。

 この文章はこれ以上望みようがないぐらい明瞭である。国際主義の経済的根拠づけの名のもとに、スターリンは実際には一国社会主義の根拠づけを提供する。世界経済は同質的な諸国民経済の単なる総和であるとするのは誤りである。特殊な諸側面は、顔面のいぼのように、「一般的特徴を補完するにすぎない」とするのも誤りである。実際には、民族的特殊性なるものは、世界的過程の基本的諸特徴の独特で独自な結合なのである。この独自性は、多年にわたって、革命的戦略にとって決定的な意義を持ちうる。後進国のプロレタリアートが先進国のプロレタリアートより何年も早く権力に就いた事実を想起すれば十分であろう。この歴史的教訓一つとっただけでも、スターリンの言にもかかわらず、共産党の活動を何らかの「一般的特徴」に、すなわち、各国資本主義の抽象的タイプに基礎づけることがまったく誤りであることがわかる。ここに「共産党の国際主義が立脚している」と主張するのは、根本的に偽りである。実際には、国際主義は、とっくに時代遅れとなっていて今や生産力発展のブレーキとなっている諸民族国家の無力さに立脚している。各国資本主義は、たとえ再建されるにせよ、世界経済の一環として以外には考えられない。

 さまざまな諸国の経済的独自性はけっして2次的な性格のものではない。このことはイギリスとインド、またアメリカ合衆国とブラジルを比較すれば十分である。しかし、各国の国民経済の特殊な諸側面は、いかにそれらが大きなものであっても、世界経済と呼ばれるいっそう高度な現実の構成部分として組み込まれ、しかもますます大きな程度で組み込まれる。そして、共産党の国際主義は、究極的にはこの国際経済にのみ立脚しているのである。

 民族的独自性を一般的タイプの単なる「補完」であるとするスターリン的規定は、資本主義の不均等発展の法則に対するスターリンの理解(すなわち無理解)と途方もなく矛盾しているが、それはけっして偶然ではない。周知のように、この法則はスターリンによって、基本的で、最も重要で、普遍的なものと主張されている。スターリンは 自ら一つの抽象物に変えてしまった不均等発展法則を用いて、存在するものすべての謎を解き明かそうとする。しかし驚くべきことに、それでいながら彼は、民族的独自性がまさに歴史発展の不均等性の最も一般的な産物であり、いわばその総括的な結果であることに気づきもしないのだ。必要なのはただ、この不均等性を正しく理解し、それを全面的に取り上げ、さらにそれを資本主義以前の時代に拡張することだけである。生産力のより急速ないしより緩慢な発展、一連の歴史的時期――たとえば、中世、ギルド体制、啓蒙的絶対主義、議会制――の拡張的ないし逆の収縮的性格、種々の経済部門、種々の階級、種々の社会制度、文化の種々の側面などなどの不均等な発展――これらすべてが民族的「独自性」の根底に横たわっている。各国の社会形態の独自性はその形成の不均等性を結晶化させたものである。

 10月革命は、歴史的過程の不均等性の最も壮大な現われとして生じた。10月革命を予測した永続革命論は、まさに歴史の不均等発展法則に立脚していたが、その抽象的形態にではなく、その物質的結晶化たるロシアの社会的および政治的独自性にもとづいていたのである。

 スターリンが不均等発展の法則を持ち出したのは、後進国のプロレタリアートによる権力の獲得を前もって予見するためではなく、それが事実となった後の1924年に、すでに勝利をおさめたプロレタリアートに一国的な社会主義社会建設の任務を押しつけるためであった。しかし、まさにここで不均等発展法則を持ち出すことはまったく不適当なのである。なぜなら、この法則は世界経済の諸法則に取って代わるものでもなければ、それを廃止するものでもなく、逆にそれに従属するものだからである。

 不均等発展の法則を物神化することによって、スターリンは、それを一国社会主義のための十分な根拠であると宣言するが、それを典型的なものとしてではなく、つまりはすべての国に共通なものとしてではなく、例外的で、メシア的で、純粋にロシア的なものとみなす。独立した社会主義社会の建設が可能なのは、スターリンによれば、ロシアのみである。このことによってまさに彼は、ロシアの国民的特殊性を、資本主義諸国民の「一般的特徴」の上に置くだけでなく、世界経済全体の上に置く。スターリンの概念全体において致命的な裂け目が生じるのは、まさにここにおいてである。ソ連邦の独自性は、残りの人類に起こることとは無関係に、それ自身の社会主義をその国境内で確立することができるほどに強力だ。メシアニズムの刻印が押されていない他の国々に関しては、それらの独自性は一般的特徴の単なる「補完」であり、顔面のいぼにすぎない、というわけである。スターリンは教える――「共産党の活動を、これらの特殊な諸側面に基礎づけることは誤りであろう」。この戒めはアメリカ、イギリス、南アフリカ、セルビア等の共産党にはあてはまる…しかし、ロシア共産党にはあてはまらない。なぜなら、ロシア共産党の活動は、「一般的特徴」にではなく、まさに「特殊性」にもとづいているからだ、と。ここから、コミンテルンのまったく2面的な戦略が出てくる。すなわち、ソ連邦は「階級を根絶」して社会主義を建設しているのに対して、その他すべての国のプロレタリアートは、各国の現実の諸条件とはまったく無関係に、カレンダーにしたがって(8月1日、3月6日等々)一斉行動に立ち上がるよう義務づけられる。メシア的民族主義は官僚的に抽象化された国際主義によって補完される。この2面性はコミンテルンの綱領全体を貫いており、そこからあらゆる原則的意義を奪い去っている。

 イギリスとインドを資本主義の両極端のタイプとして取り上げるなら、イギリス・プロレタリアートとインド・プロレタリアートの国際主義は、けっして諸条件、諸任務、諸方法の同一性にではなく、その分離不能な相互依存性に立脚すると言わなければならない。インドにおける解放運動の成功はイギリスにおける革命運動を必要とし、その逆もまたそうである。インドにおいても、イギリスにおいても、独立した社会主義社会の建設は不可能である。両者とも、より高度な全体の構成部分とならなければならないだろう。ここに、そしてここにのみ、マルクス主義的国際主義の不動の土台が存在するのである。

 ごく最近、1930年3月8日付『プラウダ』はスターリンの不幸な理論を改めて解説し、次のように述べた。「経済的社会構成体としての社会主義」、すなわち、生産関係の一定の体制としての社会主義は、「ソ連邦の一国的規模で」実現することはまったく可能である、ただし、「わが国を包囲する資本主義諸国からの干渉から守られているという意味での社会主義の完全な勝利」は別問題である、この意味での社会主義の完全な勝利は「実際に、いくつかの先進諸国におけるプロレタリア革命の勝利を必要とする」。このような哀れなスコラ哲学がレーニンの党の中央機関紙上でもったいぶって展開されるためには、理論的思考のどれほど深刻な衰退を必要としたことか! ソ連邦の孤立した枠組みの内部で、完成した社会体制としての社会主義の実現が可能であると、しばらく仮定するならば、これこそまさに、その「完全な勝利」であろう。なぜなら、その場合、そもそもどんな干渉も問題になりえないからである。社会主義体制は、高度な技術、高度な文化、住民の高度な連帯を前提とする。ソ連邦が社会主義の完全な建設に至った時点では、2億を下らない人口、たとえば2億5000万の人口を擁すると考えられるが、そこでお尋ねしよう。その場合、いったいどんな干渉がそもそも問題になりうるのか? かかる状況のもとにあって、いったいいかなる資本主義国が、あるいはいかなる資本主義連合が、あえて干渉を試みるだろうか? 唯一考えられるのは、ソ連邦の側からの干渉だけであろう。しかしそんなものが必要だろうか? ほとんど必要あるまい。数次にわたる「5ヵ年計画」を通じて、独力で強大な社会主義社会を完全に建設した後進国の実例は、世界資本主義にとって致命的な打撃を意味し、世界プロレタリア革命のコストを皆無にしないまでも、最小限にとどめるであろう。まさにそれゆえ、スターリン的概念それ自体が基本的に共産主義インターナショナルの清算に行きつくのである。実際、もし社会主義の運命が究極的には…ソ連の国家計画委員会(ゴスプラン)によって決定されるならば、いったいコミンテルンの歴史的意義はいかなるものでありうるのか? その場合には、コミンテルンの任務は、かの悪名高き「ソ連の友」協会とともに、社会主義の建設を干渉から守ること、すなわち、基本的に国境警備隊の役割に還元されることになるであろう。

 前述した最近の論文は、スターリン的概念の正しさを、斬新な経済的論拠でもって証明しようしている。

 「…今日まさに――と『プラウダ』は言う――、社会主義タイプの生産関係が、工業は言うまでもなく、農業においても、ソフホーズの成長、コルホーズ運動の量的・質的な巨大な前進、また全面的集団化にもとづいた階級としてのクラークの根絶などを通じて、ますます深く根づきつつあることは、トロツキスト的・ジノヴィエフ的敗北主義――それは本質的に『10月革命の正当性に対するメンシェヴィキ的否定』(スターリン)を意味する――の最も惨めな破産ぶりをいっそう明白に示すものである」(『プラウダ』1930年3月8日号)。

 この文章は真に注目すべきものであるが、それは思想のまったくの混乱を覆い隠す野放図な口調のゆえだけではない。スターリンとともに同論文の筆者は、「トロツキスト的」概念を「10月革命の正当性の否定」だとして非難している。しかし、まさにこの概念にもとづいて、すなわち、永続革命の理論にもとづいて、本書の筆者は10月革命が起こる13年も前にその不可避性を予言したのである。では、スターリンは? 2月革命後、すなわち、10月革命の7、8ヵ月前でさえ、彼は俗流的な革命的民主主義者として行動していた。スターリンが、民主主義的立場から社会主義的立場へと恐る恐る目立たたぬように横すべりするためには、レーニンがペトログラードに到着して(1917年4月3日)、当時はまだ彼をあざ笑っていた尊大な「古参ボリシェヴィキ」に対して仮借ない闘争を開始することが必要であった。スターリンのこの内的「成長転化」――もっとも、それはけっして完全なものではなかったが――が何とか行なわれたのは、西方におけるプロレタリア革命の開始以前にロシアの労働者階級が権力を掌握することの「正当性」が示されてから12年以上も経ってからのことであった。

 しかし、10月革命の理論的予測を練り上げた際、われわれは、ロシアのプロレタリアートが国家権力を奪取することで旧ツァーリ帝国を世界経済の領域から排除することになるとはけっして考えなかった。われわれマルクス主義者は、国家権力の役割と意義を知っている。それは、ブルジョア国家の社会民主主義的従僕どもが運命論的に描き出すような経済的諸過程の受動的反映ではけっしてない。権力は、それを握る階級のいかんによって反動的にも進歩的にもなる巨大な意義を持つ。しかし、それでもやはり、国家権力は上部構造の範疇に属する手段である。権力がツァーリズムとブルジョアジーの手からプロレタリアートの手に移っても、それによって世界経済の諸過程も諸法則も廃絶されはしない。たしかに、10月革命後の一定期間、ソヴィエト連邦と世界市場との経済的結びつきは弱まった。しかし、弁証法的過程における短かい段階にすぎない一現象を一般化するのは、途方もない誤りであろう。世界的な分業と現代の生産力の国際的性格は、ソヴィエト連邦に対してもその意義を保持するだけでなく、ソ連の経済規模が拡大するにしたがって2倍にも10倍にも増すだろう。

 資本主義に引き込まれたいずれの後進国もさまざまな段階を経過し、他の資本主義諸国に対する依存度を弱めたり増したりしてきたが、一般的には、資本主義的発展の傾向は世界的結びつきの巨大な進展へと向かっており、このことは、対外貿易――もちろん資本の輸出入を含む――の規模がますます増大していることに表現されている。イギリスのインドへの依存はもちろんのこと、インドのイギリスへの依存と質的に異なった性格を有している。しかし、この相違は基本的には、両国の生産力の発展水準の相違によって決定されているのであって、けっしてその経済的自足度の程度によって決定されるのではない。インドは植民地であり、イギリスは本国である。しかし、もし今日イギリスが経済封鎖に見舞われた場合には、インドよりも早く崩壊してしまうであろう。ちなみに、これはまさに、世界経済の現実を説得的に示す実例の一つである。

 資本主義の発展――『資本論』第2巻における抽象的表式におけるそれではなく(それは分析の一段階としてはその意義を完全に保持している)、歴史的現実におけるそれ――は、その基盤の系統的な拡大を通じて起こったのであり、それ以外ではありえなかった。各国資本主義は、その発展過程において、したがってその内的諸矛盾との闘争を通じて、ますます「国外市場」の、すなわち世界経済の予備軍に転化していく。資本主義の永続的な内的危機から生じる抑えがたい膨脹は、その進歩的力であるが、やがて資本主義にとって致命的なものとなる。

 10月革命は旧ロシアから、資本主義の内的諸矛盾ばかりでなく、全体としての資本主義と前資本主義的生産諸形態との同じぐらい深刻な諸矛盾をも継承した。これらの諸矛盾はすぐれて実体的な性格を有していたし、今でもそうである。すなわち、その諸矛盾は、都市と農村との物質的諸関係、種々の工業部門と国民経済全体との一定の均衡ないし不均衡、等のうちに示されている。これら諸矛盾のいくつかは、わが国の地理的・人口的諸条件に直接根ざしている。すなわち、あれこれの天然資源の過剰ないし不足、人民大衆の歴史的に形成された地理的分布状況、等々によって醸成されている。ソヴィエト経済の強みは、生産手段の国有化とその計画的指導にある。他方、ソヴィエト経済の弱みは、過去から継承した後進性に加えて、現在における、10月革命後の孤立にある。すなわち、社会主義的原理にもとづいてどころか、資本主義的原理にもとづいても、つまり、後進諸国にとって決定的な役割を演じている、通常の国際的な貸し付けや一般に「融資」という形態でさえ、世界経済の資源を利用することができないという点にある。しかしながら、過去から受け継いだ資本主義的および前資本主義的な諸矛盾は、ひとりでに消滅しないだけでなく、反対に、ソヴィエト経済が衰退と破壊の数年から復活するとともに頭をもたげ、ソヴィエト経済の成長とともに先鋭化していったのであり、それを克服ないし少なくとも緩和させるためには、一歩ごとに世界市場の資源を利用することが必要なのである。

 10月革命によって新たな生命を得た広大な領土に現在何が起きているかを理解するためには、最近の経済的成功によって復活した古い諸矛盾に加えて、新しい最も巨大な矛盾が生じていることを常に念頭に置いておかなければならない。その新しい矛盾とは、まったく未曽有の発展テンポの可能性を切り開いたソヴィエト工業の集中的性格と、世界経済の資源の正常な利用の可能性を排除するソヴィエト経済の孤立性とのあいだの矛盾である。古い矛盾の上にのしかかるこの新しい矛盾は、例外的な成功と並んで苦痛に満ちた諸困難をもたらしている。これらの困難は、次のような事実のうちに、すべての労働者・農民の日常生活に重くのしかかる最も直接的かつ過酷な形で示されている。すなわち、勤労大衆の状況がけっして経済の全般的な発展に一致して上昇してはおらず、むしろ食糧不足の増大の結果として、現在いっそう悪化してさえいるという事実である。ソヴィエト経済の先鋭な危機は、資本主義によって創出された生産力が一国的な枠に適合せず、国際的規模においてのみ社会主義的に整合し調和しうるということを示している。言いかえれば、ソヴィエト経済の危機とは単なる成長期の病、一種の小児病ではなく、それよりもはるかに重要な問題である――それはまさに、レーニンの言葉を借りれば、「われわれが従属し、結びつけられ、そこから抜けだすことができない」世界市場の側からの過酷な統制なのである。

 しかしながら、このことから、10月革命の歴史的「正当性」の否定なる結論――恥ずべき俗物にふさわしい結論――はけっして出てこない。国際プロレタリアートによる権力奪取はいっせいの同時的行動ではありえない。政治的上部構造――革命も「上部構造」の一部である――にはそれ自身の弁証法があり、それは世界経済の過程に強力に割り込んでくるが、そのより深い諸法則をけっして廃棄するものではない。世界革命は不可避的に数十年におよぶ長期の過程であり、10月革命は、その世界革命の第1段階として「正当」である。第1段階と第2段階とのインターバルは、われわれが期待していたよりもかなり長いことがわかった。それにもかかわらず、それはあくまでもインターバルであって、一国的な社会主義社会を建設しきる自足的時代に転化するものではけっしてない。

 革命の2つの概念から、経済問題に関する2つの指導路線が出てきた。スターリン自身まったく予想もしていなかった当初の急速な経済的成功に鼓舞されて、スターリンは1924年秋に、孤立した一国経済という実践的展望の極致としての一国社会主義の理論を唱えだした。まさにこの時期、ブハーリンは、外国貿易の独占によって世界経済から守られているかぎり、「たとえ亀の歩みでも」社会主義を完全に建設することができるであろうという有名な定式を打ち出した。これが中間主義者と右派とのブロックの一般的定式であった。当時スターリンは、わが国の工業化のテンポはわれわれの「国内問題」であって、世界経済とは何の関係もないということを飽きることなく証明しようとした。しかしながら、このような一国的自己満足は長続きしなかった。なぜなら、それは経済復興の最初のごく短い一段階を表現していたにすぎず、この経済復興は世界市場に対するわれわれの依存をも不可避的に復活させたからである。一国社会主義論者たちが予想だにしていなかった、国際的依存の最初の衝撃は、動揺をもたらし、次の段階ではパニックになった。工業化と集団化のできるだけ急速なテンポによって速やかに自国の経済的「独立」を達成するべし!――これがこの2年間における一国社会主義の経済政策に生じた転換である。亀の歩みは全戦線にわたる冒険主義に取って代られた。だが、両者の理論的基盤は同じままである。すなわち、一国社会主義的概念がそれだ。

 すでに述べたように、基本的困難は事物の客観的状況、何よりもソヴィエト連邦の孤立化から生じている。この客観的状況そのものがどの程度まで指導部の主体的誤り(1923年のドイツ、1924年のブルガリアとエストニア、1926年のイギリスとポーランド、また1925〜1927年の中国における誤った政策、現在の誤った「第3期」戦略、等々、等々)の結果であるかを、ここで詳しく論じるのはやめておこう。しかし、ソ連における最も先鋭な痙攣は、現在の指導部が、困難を徳に変えようとし、労働者国家の政治的孤立から経済的に孤立した社会主義社会の綱領をつくりあげていることから生じている。ここから、前資本主義的な技術と道具にもとづいて農業の完全な社会主義的集団化を実行しようとする試みが生まれた。これはプロレタリアートと農民の協力の可能性そのものを掘りくずす恐れのある最も危険な冒険である。

 そして驚くべきことに、この危険性が最も先鋭な形で姿を現わしたちょうどその時に、昨日まで「亀のテンポ」の理論家であったブハーリンは、今度は工業化と集団化の「激烈なギャロップ」のために感動的な讃歌を作曲したのである。おそらくはこの讃歌も、まもなく最大級の異端と断ぜられることだろう。なぜなら、すでに別の新しいメロディーが聞こえはじめているからである。経済的現実の抵抗に押されて、スターリンは退却を余儀なくされた。今や危険性は、昨日のパニックによって命じられた冒険主義的攻撃が、パニック的な退却に転化することにある。このようなあいつぐ転換は、一国社会主義(ナショナル・ソーシャリズム)の本質から不可避的に生じている。

 孤立した労働者国家の現実主義的綱領は、世界経済からの「独立」を達成するという目的を自らに設定することはできないし、「最短期間」で一国社会主義社会を建設するという目的はなおさら設定することはできない。課題は抽象的な最大限のテンポを達成することでなくて、最適なテンポを達成することである。すなわち、国内および世界の経済的諸条件から生じ、プロレタリアートの地位を強化し、未来の国際社会主義社会の国民的要素を準備し、それと同時に、何よりもプロレタリアートの生活水準を系統的に向上させ、農村の非搾取大衆とプロレタリアートとの同盟を強化する、そうしたテンポを達成することである。この展望は、準備期間の全体を通じて、すなわち、先進諸国の勝利した革命がソヴィエト連邦を現在の孤立状態から解放するまでの全期間にわたって有効でありつづけるだろう。

※  ※  ※

 ここに述べた思想の一部は、筆者の他の著作、とくに『コミンテルン綱領草案批判』でより詳細に展開されている。近いうちに、われわれは、ソ連邦の現在の経済発展段階の評価について特別に論じた小冊子を出すつもりである。今日、永続革命の問題がどのように立てられるべきかという点についてより踏み込んだ議論を求めている読者には、その著作を参照するよう勧めざるをえない。しかし、この序文でなされた考察は、この数年間繰り広げられ現在も一国社会主義と永続革命という対立的な2つの理論の形で闘われている原則的闘争の全意義を明らかにするのに十分であると思う。

 この問題がこのようなアクチュアルな意義を有しているからこそ、ロシアのマルクス主義者のあいだでなされた革命前の予測と理論闘争を批判的に再構成することに費やされた一書をここに外国の読者に提供することが正当化されるのである。もちろん、われわれに関わる諸問題を記述するのに別の形式を選ぶこともできたであろう。しかし、この形式は、筆者がつくり出したものでも、筆者が自分の意志で選んだものでもない。それは、一部には論敵たちの意志によって、また一部には政治的発展の歩みそのものによって筆者に押しつけられたものである。

 最も抽象的な科学たる数学上の真理でさえ、その発見の歴史を踏まえることでよりよく理解することができる。このことは、はるかに具体的な、つまり歴史的に条件づけられたマルクス主義政治学の真理にはいっそうよくあてはまる。思うに、読者が、革命前のロシアにおける革命の予測の起源とその発展の歴史を学ぶならば、これらの政治思想をその発生基盤たる闘争の具体的諸状況から切り離して教科書的・衒学的に説明したものを読むよりも、はるかに具体的に、世界プロレタリアートの革命的課題の本質に迫ることができるだろう。

エリ・トロツキー

1930年3月29日

  

 目次)(チェコ版序文)(独英版序文)(仏版序文)(序論

1章)(2章)(3章)(4章)(5章)(6章)(7章)(8章)(9章)(10章                           

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