第5章 「民主主義独裁」はわが国において実現されたか? それはいつのことか?

 レーニンを持ち出して、ラデックは民主主義独裁は二重権力において実現されたと主張する。たしかに、時おり、しかも条件つきで、レーニンは問題をこのように立てている。これは私も認めよう。「時おりだって?」、ラデックは激怒し、レーニンの基本思想の一つを侵害した罪で私を糾弾する。しかし、ラデックが腹を立てるのは、彼が間違っているからにすぎない。ラデックは4年も経った後になって批判している「10月の教訓」の中で私は、民主主義独裁の「実現」についてのレーニンの言葉を次のように解釈している。

 「民主主義的な労農連合は、真の権力にまで高まっていない未成熟な形態としてのみ成立しえたのである。それは一個の傾向であって、完成された事実ではなかった」(〔ロシア語版『トロツキー著作集』〕第3巻第1分冊、]]T頁)(1)

 この解釈についてラデックはこう書いている――「レーニンの仕事の中で理論的に最も傑出したエピソードの一つをこのように描写するとは、言語道断である」。この言葉の後にはボリシェヴィズムの伝統に対する情熱的な訴えが続き、最後に次のような結末がやってくる。「この問題はきわめて重要であり、レーニンが時おり語ったことを持ちだすだけでは答にならない」。

 こう述べることによってラデックは、レーニンの思想のうちで「最も傑出したものの一つ」に私がぞんざいな態度をとっているという印象を与えようとしているのである。しかし、ラデックは怒りと情熱を空費している。ここで必要なのはわずかばかりの理性である。「10月の教訓」における私の議論は、非常に圧縮されてはいるが、他人から借用した引用文で塗りたくられた軽率な思いつきにもとづいたものではなく、レーニンを実際に徹底して研究した上でなされたものである。私の議論は、この問題におけるレーニンの思想の本質を描き出しているが、ラデックの冗長な記述は、引用文をたっぷり使っているにもかかわらず、レーニンの思想をずたずたにしてしまっている。

 なぜ私は「時おり」という限定的な言葉を使ったのか? なぜなら、実際にそうだったからである。民主主義独裁が二重権力において「実現」された(「ある一定の形態で、ある一定の程度まで」)とレーニンが語ったのは、1917年の4月から10月までの時期、すなわち、民主主義革命が真に実現する以前においてのみであった。ラデックはこのことに気づきもしなければ、理解も評価もしなかった。現在のエピゴーネンとの闘争において、当時レーニンは民主主義独裁の「実現」について条件つきで語ったが、それも2重権力時代の歴史的特徴としてではなく――この形態としてはそれはまったくのナンセンスであろう――、独立した民主主義独裁の改良された第2版を期待する人々に対する反論としてであった。レーニンの言葉はただ、2重権力という惨めな失敗作として以外にはいかなる民主主義独裁もないし、またこれからもないだろうということ、したがってまた「再武装」されなければならない、すなわち、スローガンを変えなければならない、ということを意味するだけである。農民に土地を与えることを拒否しボリシェヴィキを狩りたてたメンシェヴィキおよびエスエルとブルジョアジーとの連合をもって、ボリシェヴィキのスローガンの「実現」なりと主張するのは、意識的に黒を白と言いくるめるか、さもなくば完全に頭が混乱してしまっているかのいずれかであろう。

 メンシェヴィキに対しては、ある点までカーメネフに対するレーニンの論駁に類似した議論を提起することができる。諸君はブルジョアジーが革命において「進歩的」使命を果たすのを期待しているのか? この使命はすでに実現されている。ロジャンコ、グチコフ、ミリュコーフらの政治的役割こそ自由主義ブルジョアジーが与えうる最大限のものである。それはケレンスキー体制が、独立した段階として実現されうる民主主義革命の最大限であったのと同じである。

 まぎれもない解剖学上の痕跡――不全器官――はわれわれの祖先にしっぽがあったことを示している。この痕跡は動物界の発生的同一性を確証するに十分である。しかし、ありていに言えば、人間にはやはりしっぽはないのである。レーニンは2重権力体制における民主主義独裁の不全器官をカーメネフに示して、この不全器官から新しい器官が発生することは望めないと警告した。そして、われわれはいついかなる所でよりも深く徹底的かつ純粋に遂行したにもかかわらず、それでもやはりわが国には民主主義独裁は存在しなかったのである。

 もし2月〜4月に民主主義独裁が本当に実現されていたとしたら、モロトフでさえそれに気づいたであろう。このことについてラデックはとくと考えてみるべきだったのだ。党と階級は民主主義独裁を、君主制の古い国家機構を容赦なく破壊し地主の土地所有を完全に解体する体制として理解していた。しかし、ケレンスキー体制のもとではこのようなものは影も形もなかった。ボリシェヴィキ党にとって問題となっていたのは、これらの革命的課題を実際に実現することであって、ある社会学的・歴史的な「不全器官」を暴露することではなかった。レーニンは、反対者を理論的に啓蒙するために、少しも発達しなかったこの痕跡をはっきりと突きつけた。しかし、それ以上のものではなかった。だが、ラデックは、二重権力の時期、すなわち、無権力の時期にたしかに「独裁」が存在し、民主主義革命が実現されたということを納得させるために大真面目に努力する。しかし、その民主主義革命とやらは、その正しい認識のためにはレーニンの全英知を必要とするような「民主主義革命」であった。つまりそれは実現されなかったということである。なぜなら真の民主主義革命とは、ロシアや中国における字の読めないどの農民にも容易に認識しうるものだからである。形態学上の痕跡に関してはより困難であろう。カーメネフに対するロシアの教訓があるにもかかわらず、ラデックは最後まで次のことに気づかないままで終わったのである。すなわち中国でも、民主主義独裁はレーニンの言う意味で「実現された」(国民党を通じて)ということ、しかもわが国の二重権力を通じた「実現」よりもずっと徹底的に、ずっと完全に「実現」されたということ、また、手のつけられない愚か者だけが中国における「民主主義」の改良された第2版を期待しうるということである。

 だがもしわが国で民主主義独裁が、ロイド=ジョージやクレマンソーの使い走りであったケレンスキー体制の形でしか実現されなかったするならば、歴史はボリシェヴィズムの戦略的スローガンを残忍に笑いものにしたと言わざるをえないだろう。だが幸いにもそうではなかった。ボリシェヴィキのスローガンは、形態学的な影としてではなく、最も偉大な歴史的現実として実際に実現されたのである。ただそれは10月以前にではなく、10月以後に実現されたのだ。マルクスの表現をかりれば、農民戦争がプロレタリアートの独裁を支持した。この2つの階級の協力は10月革命を通じて巨大な規模で実現された。今では無学なムジークでさえ、たとえレーニンの解説なしでも、ボリシェヴィキのスローガンが実現されたことを理解し感じている。そして、レーニン自身もまさにこのように理解している。すなわち、10月革命――その最初の段階――こそが民主主義革命の真の実現であり、したがってまた、ボリシェヴィキの戦略的スローガンは、異なった形でとはいえ、本当に実現されたのだと。レーニンの全体を取り上げなければならない。そして何よりも、より高い峰から事態を見渡し評価した10月革命のレーニンを取り上げなければならない。さらに、エピゴーネン流にではなくレーニン流にレーニンを取り上げなければならない。

 レーニンは(10月革命後に)カウツキーを批判した著書〔『プロレタリア革命と背教者カウツキー』〕の中で革命の階級的性格とその「成長転化」の問題を分析している。そこにはラデックが少し考えて見るべき一節がある。

 「しかり、われわれが、全体としての農民とともに進んでいる間は、われわれの革命(10月革命――トロツキー)はブルジョア革命である。われわれは、これをこの上なくはっきり自覚して1905年以来何百回、何千回も語ってきたし、また歴史的過程のこの必然的な段階を飛び越えようとしたり、布告によってこれを廃止しようとしたことは、かつてない」。

 さらにこう述べている。

 「結果は、われわれの言った通りになった。革命の進行過程は、われわれの判断の正しさを確証した。はじめは『すべての』農民とともに、君主制に反対し、地主に反対し、中世的制度に反対して(そしてそのかぎりでは革命はまだブルジョア的、ブルジョア民主主義的である)。次に貧農とともに、半プロレタリアートとともに、すべての被搾取者とともに、農村の金持、富農、投機者を含む資本主義に反対して、そしてそのかぎりでは、革命は社会主義的なものとなる」(〔『レーニン全集』〕第15巻、508頁)(2)

 レーニンはこういうふうに、「時おり」ではなく常に、あるいはより正確には、10月革命を含む諸革命の進行について完全かつ一般的で徹底した評価を与えている――「われわれの言った通りになった」と。ブルジョア民主主義革命は労働者と農民の連合として実現された。ケレンスキー体制においてか? 否、10月革命後の最初の時期においてである。本当か? 本当だ。しかし、今やわれわれの知るごとく、それは民主主義独裁という形態においてではなく、プロレタリアートの独裁という形態において実現された。まさにそのことによって、古い代数的定式の必要性もなくなったのである。

 1917年におけるカーメネフに対するレーニンの条件つきの反論と、その数年後におけるレーニン全面的な10月革命評価とが無批判に並べられるならば、2つの民主主義革命が「実現」されたということになるだろう。しかしこれでは多すぎる。ましてや、第2の革命はプロレタリアートの武装蜂起によって第一の革命とくっきりと区別されているのだから、なおさらである。

 ここで、『プロレタリア革命と背教者カウツキー』というレーニンの本からの引用文を、独裁の第一段階とその後の成長転化の展望を概説した私の「総括と展望」中の「プロレタリア体制」の章と比較してみよう。

 「身分制的な農奴制を根絶することは、地主から収奪されている身分としての農民の支持を受けるであろう。累進所得税も農民の大多数の支持を受けるであろう。しかし農業プロレタリアートを擁護する立法措置は、そのような多数派の積極的な共感を得ないばかりか、少数派の積極的な敵対にさえぶつかるであろう。
 プロレタリアートは、階級闘争を農村に持ち込まざるをえず、そのことによって、比較的狭い枠内とはいえ疑いもなく農民全体に存在するあの利害の共通性を破壊せざるをえない。プロレタリアートは、その支配のごく早い時期において、富農に貧農を、農業ブルジョアジーに農業プロレタリアートを対置することによって支持を求めなければならないであろう」(『われわれの革命』、1906年、255頁)(3)

 このすべてがいったいどうして私による農民の「無視」や、レーニンと私の2つの路線の「対立」に見えるのか!

 先に挙げたレーニンからの引用文は彼にとっての唯一のものではない。それどころか、レーニンにあってはいつもそうであるが、事態をいっそう深く解明する新しい定式は、一時期全体を通じて、彼の演説や論文の軸となっている。たとえば、1919年3月にレーニンはこう述べている。

 「1917年10月にはわれわれは農民全体とともに権力を握った。階級闘争が農村でまだ展開していなかったかぎり、これはブルジョア革命であった」〔『レーニン全集』〕(第16巻、143頁)(4)

 また1919年3月の党大会でもレーニンは次のように述べている。

 「プロレタリアートが農民の援助のもとに権力を握らなければならなかった国、小ブルジョア革命の代理人という役割がプロレタリアートにかかってきた国で、われわれの革命は、貧農委員会が組織されるまでは、すなわち1918年の夏、否、秋までは、かなりの程度ブルジョア革命であった」(〔『レーニン全集』〕第16巻、105頁)(5)

 こうした言葉をレーニンはさまざまな表現やさまざまな論拠でもって何度も繰り返している。それにもかかわらず、ラデックは、現在の係争問題を決定づけるこのレーニンの最も重大な思想をあっさり回避している。

 プロレタリアートは10月に農民全体とともに権力を奪取したとレーニンは言っている。したがって、それはブルジョア革命であった。これは正しいだろうか? ある意味では、正しい。しかし、これはまさに、プロレタリアートと農民の真の民主主義独裁、すなわち、専制的・農奴制的体制を実際に破壊して封建地主から土地を収奪する独裁は、10月以前にではなく10月以後に実現されたのであり、マルクスの言葉を借りれば、農民戦争に支持されたプロレタリアートの独裁として実現され、わずか数ヵ月後には社会主義独裁に成長転化しはじめたということを意味する。このことは理解しがたいことであろうか? 今日この点について議論の余地があるだろうか?

 ラデックによれば、「永続」革命論は革命のブルジョア的段階と社会主義的段階とを混同するという罪を犯しているという。だが実際には、階級的発展力学がこれら2つの段階をあまりにも完全に「混同」、すなわち結合させているので、われわれの不幸な形而上学者にあってもそれぞれの段階の先端を見つけ出すことはできない。

 もちろん、『総括と展望』の中にも個々の欠陥や誤った主張が見出されるであろう。しかし、この論文は1928年に書かれたものではなく、その基本部分は10月以前に…1905年の10月以前に書かれたのである。永続革命論、より正確にいえば、当時の私によるこの理論の根拠づけにおける実際の欠陥には、ラデックの批判はまったく触れていない。なぜなら、彼は、自分の先生たるエピゴーネンに追随して、当時の私の議論に見られる欠陥ではなく、歴史発展の歩みに一致するこの理論の強い面を攻撃しているからである。彼自身が研究もせず徹底的に考えてみたこともないレーニンの当時の問題設定から引き出した根本的に誤った結論の名において攻撃しているのである。

 真の歴史的過程とけっして交差することのない特別の平面上で古い引用文を手品師のごとく操ることが、全エピゴーネン学派によってなされている。しかし、「トロツキズム」の反対者たちが10月革命の実際の発展過程の分析に取り組まねばならない羽目になると、しかもそれと真剣かつ良心的に取り組まねばならない段になると――彼らの一部は時々そうした機会を持つ――、彼らは必然的に、自分たちが拒否している理論の精神にもとづいた定式にいたる。この最も明瞭な証拠は、10月革命の歴史を論じたヤコヴレフの著作である。現在では支配分派の支柱の1人であり、疑いもなく他のスターリン主義者、なかんずくスターリン自身よりも学のあるこの著者は、旧ロシアの階級的相互関係を次のように定式化している。

 ※原注 ヤコヴレフは最近ソ連の農業人民委員に任命された。
 「農民蜂起(1917年3〜10月)は2重の制約を受けていることがわかる。この蜂起は、農民戦争の水準にまで高まりながら、自己の制約を克服することはなく、近隣の地主の打倒というその直接的な課題の枠組みを突破せず、組織的な革命運動へと発展することはなく、農民運動に固有の性格たる自然発生的な一揆という限界を克服することはなかった。
 それ自体としての農民蜂起、すなわち近隣の地主の撲滅という制限された課題だけを持った自然発生的蜂起は、勝利することはできなかったし、農民に敵対的で地主を支えている国家権力を打倒することはできなかった。それゆえ、農民運動は都市のしかるべき階級に指導されてはじめて勝利することができる。……農民の土地革命の運命が、究極的には、何万という農村においてではなく、数百の都市において決せられた理由はまさにこれである。国の中心地域においてブルジョアジーに打撃を与える労働者階級のみが農民蜂起を勝利させることができ、都市における労働者階級の勝利のみが、数千万の農民と数万の地主との自然発生的な衝突という限界から農民運動を解き放つことができたのであり、さらには、労働者階級の勝利のみが、貧中農をブルジョアジーではなくて労働者階級に結びつけた新しい型の農民組織の基礎を築くことを可能にしたのである。農民蜂起の勝利の問題は都市における労働者階級の勝利の問題であったのだ。
 労働者がブルジョアジーの政府に決定的な打撃を与えたとき、そのことによって彼らはことのついでに、農民蜂起の勝利の問題をも解決したのである」。

 さらに次のように述べられている。

 「問題は、歴史的に形成された諸条件ゆえに1917年にロシアのブルジョアジーが地主と同盟するに至ったことである。メンシェヴィキやエスエルのごときブルジョアジーの最左派でさえ、地主に有利な協定の範囲を越えることはなかった。ロシア革命の諸条件と、100年以上も前に起こったフランス革命との最も重要な相違がここにある。……農民革命は1917年にはブルジョア革命としては勝利できなかった(まさしく!――トロツキー)。農民革命の前には2つの道があった。ブルジョアジーと地主の連合勢力の打撃のもとに壊滅するか、あるいはプロレタリア革命に同伴しその指導下にある運動として勝利するか、である。ロシアの労働者階級は、フランス大革命におけるフランス・ブルジョアジーの使命を引き受け、農民の民主主義的土地革命を指導する課題を引き受けることによって、プロレタリア革命の勝利を可能としたのである」(『1917年における農民運動』、国立出版所、1927年、]‐]T、]T‐]U)。

 ヤコヴレフの議論における基本的諸要素は何か? それは、農民は独立した政治的役割を演じることができないこと、したがって必然的に都市階級が指導的役割を握らざるをえないこと、ロシアのブルジョアジーは農民の土地革命において指導的役割を果たすことができないこと、したがって必然的にプロレタリアートが指導的役割を果たさざるをえないこと、農民の土地革命の指導者としてのプロレタリアートに権力が移行すること、最後に、農民戦争に依拠したプロレタリアートの独裁が社会主義革命の時代を切り開くこと、である。これは、革命の性格が「ブルジョア的」であるか「社会主義的」であるかという形而上学的な問題設定を根底から覆す。問題の核心は、ブルジョア革命の基盤をなした農業問題がブルジョアジーの支配のもとでは解決されなかったという点に存する。プロレタリアートの独裁は、農民の民主主義的土地革命の達成の後に表舞台に登場したのではなくて、その達成のための必要不可欠な前提条件として登場したのである。要するに、ずっと後になってから定式化されたヤコヴレフのこの図式のうちには、私が1905年の時点ですでに定式化していた永続革命論の基本的諸要素がみな含まれているということである。私にとって、それは歴史的予測の問題であった。ヤコヴレフは第一革命から22年後に、そして10月革命から10年後に、若い研究者たちの地道な下仕事にもとづいて、3つの革命の諸事件を総括した。その結果はどうであったか? ヤコヴレフは1905年の私の定式をほとんどそのまま繰り返している。

 では、永続革命論に対するヤコヴレフの態度はいかなるものか? 自分の地位を維持し、できればさらに高い地位に昇りたいと思っているどのスターリニスト官僚もとっているのと同じ態度をとっている。しかし、この場合、ヤコヴレフは10月革命の推進力に関する自分の評価と反「トロツキズム」闘争とをどのように両立させるのか? 実に簡単である。彼はそのような両立など一顧だにしない。帝政時代の多くの自由主義的役人たちがダーウィンの進化論を認めながら、キリスト教の聖餐式には几帳面に出席していたように、ヤコヴレフもまた、永続革命に対する迫害の儀式に参加するという代償を払って、時おりマルクス主義的思想を口にする権利をあがなうのである。このような例は何十と挙げることができる。

 さらにつけ加えておくと、ヤコヴレフは、先に引用した10月革命史についての著作を自分のイニシアチブで書いたのではなくて、中央委員会の特別の決定にもとづいて書いたのであり、しかも、その決定は、ヤコヴレフの本の編集責任を私に委任していた。当時はまだ、レーニンは回復するものと思われており、永続革命をめぐって不誠実な論争を引き起こすことなどエピゴーネンの誰もが思ってもみなかったことであった。いずれにせよ、10月革命の公式の歴史の前編集者として、より正確には編集予定者として、私は、この著者が意識的ないし無意識的に、永続革命に関する私の最も禁断の最も異端とされた著書(『総括と展望』)を、あらゆる係争問題に関して逐語的に利用しているということを、完全な満足をもって確認することができる。

 ※原注 1922年5月22日付の中央委員会組織局オルグの会議議事録からの抜粋――第21項「同志ヤコヴレフに……同志トロツキーの編集のもとに10月革命の歴史に関する教科書を作成することを委任する」。

 ボリシェヴィキのスローガンの歴史的運命に関してレーニン自身が下した最終的評価は、「永続革命」の路線とレーニンの路線という2つの路線の違いがエピソード的で従属的な意義しか持っておらず、両者は最も基本的な点で一致していたということを、はっきりと物語っている。そして、10月革命によって完全に一つに合流したこの2つの路線の基本点は現在、スターリンの〔1917年〕2〜3月の路線およびカーメネフ、ルイコフ、ジノヴィエフの4月〜10月の路線と、また、スターリン、ブハーリン、マルトゥイノフの中国政策の全体のみならず、ラデックの現在の「中国」路線とも非和解的に対立しているのである。

 そして、1925年と1928年後半とで自分の評価をかくも根本的に変えたラデックが、「マルクス主義とレーニン主義の複雑さ」に対する私の無理解なるものを暴露するというのなら、私はそれに対して次のように答えよう。私が23年前に『総括と展望』の中で展開した思想の基本点は、現実の事態の進行によって完全に裏づけられ、まさにそれゆえに、それはボリシェヴィズムの戦略的路線と一致しているのだ、と。

 とりわけ、1922年に、私が自分の著作『1905年』への序文の中で永続革命について述べたことを取り消すいかなる論拠も私は見出さない。この本は、レーニン存命中に無数に刷られ何度も版を重ね、党全体がそれを読み研究したものだが、1924年の秋になってはじめてカーメネフを「困惑」させ、1928年の秋にはラデックを「困惑」させるようになったのである。この「序文」は次のように述べている。

 「まさに1905年の1月9日と10月ストライキにはさまれた時期に、後に『永続革命』論という名称を頂戴することになった、ロシアにおける革命的発展の性格に関する筆者の見解が形成された。この謎めいた名称は次のような思想を表現していた。ロシアの革命は直接的にはブルジョア的目標を前にしているが、けっしてそこにとどまることはできない。革命は、プロレタリアートを権力に就けずしては、その当面するブルジョア的課題さえも解決することはできないだろう。……
 12年の中断を経たとはいえ、この評価は完全に裏づけられた。ロシア革命はブルジョア民主主義体制でもって終結することはできなかった。それは権力を労働者階級の手に引き渡さなければならなかった。この階級は、1905年時点では権力を獲得するにはまだ弱すぎたが、それを強化し成熟させることになったのはブルジョア民主共和制ではなく、6月3日的君主制における地下活動であった」(エリ・トロツキー『1905年』序文、4〜5頁)(6)

 「民主主義独裁」というスローガンに対して私がかつて下した最も激しい論争的評価をもう一つ引用しておこう。1909年に私はローザ・ルクセンブルクのポーランド語機関紙に次のように書いた。

 「メンシェヴィキが、『われわれの革命はブルジョア革命だ』という抽象概念から出発して、自由主義的ブルジョアジーが権力をとるまでプロレタリアートの全戦術を彼らの振る舞いに適合させるという思想に到達しているのに対し、ボリシェヴィキは、『民主主義的であって社会主義的でない独裁』というこれまた無味乾燥な抽象概念から出発して、国家権力を手中に収めたプロレタリアートのブルジョア民主主義的自制という思想に到達している。たしかにこの問題において両者の差異はまったく顕著であり、メンシェヴィズムの反革命的側面がすでに今日、主要な点ですべて現われているのに対して、ボリシェヴィズムの反革命性は、革命が勝利した場合にのみ大きな危険性となる恐れがある」(7)

 私の著書『1905年』のロシア語版に再録された同論文のこの個所に、1922年1月に私は次のような注をつけた。

 「周知のように、このようなことは実際には起こらなかった。なぜなら、ボリシェヴィズムはレーニンの指導のもと、1917年の春に、すなわち権力を奪取するより前に、この最も重要な問題において理論的再武装を――党内闘争なしにはすまなかったが――遂行したからである」(8)

 1924年以来、この2つの引用文は激しい批判の砲火にさらされてきた。今では、それに遅れること4年にして今度はラデックがこの批判に仲間入りした。しかし、上で引用されたこれらの章句を良心的に吟味すれば、そこには重要な予見とそれに劣らず重要な警告が含まれていることを認めないわけにはいかないだろう。何といっても、2月革命の際に、ボリシェヴィキのいわゆる「古参親衛隊」の全体が、民主主義独裁と社会主義的独裁とを抽象的に対置する立場に立ったという事実が残っているのだから。レーニンの「代数的」定式(それは多くの「算術的」解釈を可能とする)から、彼の最も近しい弟子たちは純形而上学的な推論を組み立て、それを革命の実際の発展過程に対置した。最も重要な歴史的転換点において、ロシアにおけるボリシェヴィキの指導部は反動的な立場をとり、もしレーニンが時宜を失せず到着しなかったならば、彼らは後に中国革命を締め殺したように、反トロツキズム闘争の名において10月革命を締め殺す立場に立ったことであろう。ラデックは非常に敬虔にも、党指導層の全体が誤った立場をとったのは一種の「偶発事」であったと描き出している。しかし、それは、カーメネフ、ジノヴィエフ、スターリン、モロトフ、ルイコフ、カリーニン、ノギーン、ミリューチン、クレスチンスキー、フルンゼ、ヤロスラフスキー、オルジョニキッゼ、プレオブラジェンスキー、スミルガなど何十人もの古参ボリシェヴィキの俗流民主主義的立場のマルクス主義的説明としてはまったく役立たない。ボリシェヴィキの古い代数的定式のうちにそれに固有の危険性が含まれていたと認める方が正しいのではないだろうか? すなわち、常に見られることだが、政治的発展の中で革命的定式の空白部分がプロレタリア革命に敵対的な内容で満たされるという危険性である。言うまでもなく、もしレーニンがロシアに生活していて、とくに戦争の時期における党の発展を日々追っていたならば、時宜を失せず必要な修正と解釈を与えたことだろう。革命にとって幸いなことに、レーニンは、多少遅れはしたが、必要な思想的再武装を行なうのに十分間に合って到着した。プロレタリアートの階級的本能と、それまでのボリシェヴィズムの活動全体によって保障された党下部の革命的圧力のおかげで、レーニンは指導的上層部との闘争において、十分短い期間のうちに党の政策を新しい軌道に切り換えることができた。

 このことから、今日においても1905年のレーニンの定式を、その代数的形式のままで、つまりは空白部分を伴ったままで、中国、インドやその他の国々向けに取り上げ、中国やインドのスターリン=ルイコフ的輩(譚平山、ロイなど)がその定式を小ブルジョア的な民族民主主義的内容で満たすに任せ、その後で、レーニンが時宜を失せず登場して4月4日の修正をほどこすのを待たなければならない、ということになるだろうか? しかしながら、そのような修正がはたして中国やインドで保証されているだろうか? それよりも、ロシアのみならず中国でも歴史的経験によってその必要性が証明された具体性をあらかじめこの定式に持ち込む方が正しいのではなかろうか?

 以上述べてきたことは、あたかもプロレタリアートと農民の民主主義独裁というスローガンがまったくの「誤り」であったというふうに理解さるべきであろうか? 現在では周知のごとく、人間の思想と行動のいっさいは2つの範疇にわけられる。無条件に正しいもの、すなわち、現在「総路線」の構成部分に入っているものと、無条件に誤っているもの、すなわち、この路線と異なっているものである。もっとも、このことは言うまでもなく、今日無条件に正しいものが明日には無条件に誤っているものと宣言されることを妨げるものではない。しかし、「総路線」の登場以前は、思想の真の発展は、真理にしだいに接近していくという方法にしたがっていた。算数における割り算のような単純な計算ですら、大きい数字から始めるにしろ小さい数字から始めるにしろ、何らかの適当な数字を選択し、計算してみて不適当な場合はその数字を放棄して別の数字を選択しなければならない。大砲の試射においては、しだいに目標物に接近させる方法を「挟叉」と呼んでいる。このような接近の方法は政治においてもまったく不可避である。全問題はただ、砲弾の不着〔大砲の弾が目標に届かないこと〕は砲弾の不着だと速やかに認めて、時をおかずに必要な修正を行なうことである。

 レーニンの定式の巨大な歴史的意義は、新しい歴史的時期の諸条件において現代の最も重要な理論的・政治的問題の一つを徹底的に研究したことである。その問題とはまさに、さまざまな小ブルジョア集団、とりわけ農民がどの程度まで政治的独立性を獲得しうるかということである。その徹底さのおかげで、1905〜1917年におけるボリシェヴィキの経験は「民主主義独裁」に対し固く扉を閉じた。この扉の上にレーニンは自らの手で入ることも出ることも禁ずるという文句を書いた。彼はそれを次のような言葉で定式化した。「農民はブルジョアとともに進むか、労働者とともに進むか、だ」と。だが、エピゴーネンは、ボリシェヴィズムの古い定式が行き着いたこの結論を完全に無視し、この結論とは逆に、〔民主主義独裁という〕一時的な仮説を綱領の中に入れてそれを聖典化する。一般的に言って、まさにこの点にエピゴーネン主義の本質があるのだ。

 

  訳注

(1)トロツキー「10月の教訓」、『トロツキー研究』第41号、50頁。

(2)レーニン「プロレタリア革命と背教者カウツキー」、邦訳『レーニン全集』第28巻、319〜320頁。

(3)トロツキー「総括と展望」、前掲『わが第一革命』、 332〜333頁。

(4)レーニン「農村における活動についての報告」、邦訳『レーニン全集』第29巻、194頁。

(5)レーニン「中央委員会の報告」、邦訳『レーニン全集』第29巻、144頁。

(6)トロツキー『1905年』、現代思潮社、12〜13頁。なお、引用文中の「6月3日的君主制」とは、1907年6月3日における当時の首相ストルイピンの一種のクーデター(自由主義者や左派議員の多かった第2国会を解散し、選挙法を改悪して、大資本家と大地主と貴族の反動政党であるオクチャブリストを与党とする新しい保守体制を強権的に確立したこと)以後に存在した君主制のことを指しており、このクーデター後の体制を一般に「6月3日体制」(あるいは「6・3体制」)と呼ぶ。

(7)トロツキー「われわれの意見の相違」、前掲『わが第一革命』、442頁。

(8)同前、476頁。

  

 目次)(チェコ版序文)(独英版序文)(仏版序文)(序論

1章)(2章)(3章)(4章)(5章)(6章)(7章)(8章)(9章)(10章                           

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