チェコ語版序文

 2ヵ月前のことになるが、チェコの同志たちの何人かが、チェコの読者のために、永続革命論について、それが過去(1905年)にどのように生まれたのか、そしてそれが現在この4半世紀の諸事件に照らしてどのような姿を取っているのかについて説明するよう熱心に提案してきた。

 私は喜んでこの提案を引き受けたが、この種の小冊子が、その大筋のところはすでにアルマ・アタでの流刑時代に書かれていて、私の書類鞄の中に保管され、その出番を待っていただけに、なおさらであった。私は長文の序章と2つのまとめの章をつけ加えて、過去の意見の相違と今日の中心問題とのより密接な結びつきを確立することにした。それゆえ、本書が現在の形で出版されたのは、チェコの共産主義者グループのイニシャチブのおかげであると言える。

 1924年に始まった永続革命問題は、チェコ共産党の中でも、インターナショナル全体と同じく、きわめて大きな役割を果たした。まさにこの問題こそが、ロシアのエピゴーネン(ジノヴィエフ、スターリン、ブハーリン)の手中で共産主義インターナショナルの中心軸を大きく右へと移動させるうえでの梃子としての役割を果たしたと言っても過言ではないだろう。スターリンの「理論」と実践のすべての要素は、1923〜1924年におけるジノヴィエフとブハーリンの指導部のもとで形成された。すなわち、永続革命論に対する最初の闘争の時期に形成された。

 私はチェコ語を読むことができないので、この問題がチェコの文献の中でどのように屈折反映しているのかを直接追うことができない。しかし、コミンテルン指導部の、骨の髄まで官僚化した性質を念頭に置くなら、そして、個人的独立性にはおよそ縁のないプラハにおけるその代理人たちの性質を念頭に置くなら、この問題においてはチェコスロバキア共産党指導部に何らかの特殊「民族的な」要素など微塵もないことにいかなる疑いもありえない。モスクワでのコミンテルン会議におけるチェコ人の論争の実例、とりわけシュメラル(1)、クライビヒ(2)、イレック(3)等々の演説は、私が受けた印象では、これらのチェコのジノヴィエフ、チェコのスターリン、チェコのブハーリンらがモスクワの議論を繰り返しているだけでなく、それをはなはだしく単純化していると考えざるをえない代物であった。それ以外でありえようか? このような操作をすることなしに、自分の――本質的に社会民主主義的な――武器庫から「トロツキズム」に反対する論拠を引っ張ってくることなどできるはずもないのだから。

 ついでながら指摘しておくが、チェコスロバキアにおける反「トロツキズム」闘争は、とくにひどい歪曲によって複雑なものと化した。チェコスロバキアでは、最初はジノヴィエフ派が、その後はスターリニストが、私がいかなる接点も持ちえないような「同意見者」を執拗に私に結びつけようとした。私がこれらの偽「トロツキスト」についていちいちその名前を挙げないのは、彼らが思い出すにも値しない連中だからである。偽造のシステム――レーニンの有名な規定に従えば、「粗暴で不実」なそれ――は、エピゴーネン時代におけるコミンテルンの指導の全般的システムの不可欠の一部となっている。

 チェコスロバキアの党の中で、シュメラル、クライビヒ、およびその同類連中は、反革命的「トロツキズム」に反対してレーニン主義を擁護すると称してきたし、今もそう称している。これらの紳士たちは、私とその友人たちが10月革命を帝国主義から擁護するつもりがないと言って非難している。このような仮面舞踏会を見ていると、自分の目や耳が信じられなくなる時がある。しかし言っておかなければならないが、労働者に対するコミンテルン小官僚によるこの種の厚顔無恥な嘲笑は、チェコスロバキア共産党の理論的水準の不十分さによって著しく容易にされているのである。

 その原因を理解することは困難ではない。チェコスロバキアの共産党は主としてチェコ社会民主党を母体としている。後者の思想生活はとくに豊かなものでも自立したものでもなかった。それは、ドイツ人のオーストリア・マルクス主義に反対する中で展開されつつも、それと同時に、その明確な影響もこうむってきた。その戦闘的資質からして、若く、感受性が鋭く、能動的なチェコのプロレタリアートはすでに戦前から、不可避的にその社会民主主義的指導部よりも高い水準に立っていた。彼らはこのことをその政治闘争の中で一度ならず証明してきたが、この闘争は常にオーストリア社会民主党によって踏み消されてきた。オーストリア社会民主党は自己の主要な課題を、大衆の革命的闘争にブレーキをかけ、そうすることで帝国主義戦争のお膳立てをすることに見出してきた。戦争へのシグナルがウィーンから発せられたのも偶然ではない。

 それゆえ、チェコ共産党は過去から何らかの本格的な理論的伝統を相続することはなかった。このことは、もしチェコ党がただちに自己の理論的教育に新しい真に革命的な頁を開いていたならば、すなわち、もし同党が10月革命の試練の中で修正主義的残り滓を一掃した真のマルクス主義に直接的かつ真剣に関与していたならば、ある意味で長所にさえなることができたろう。残念ながら、チェコ共産党がその社会民主主義的へその緒を断ち切る以前に、コミンテルンは、そのエピゴーネンの指導のもと、各国支部で自立した思想生活の根絶に着手し、「理論」を官僚の従順な下僕に変えていた。こうして、共産主義の本質は組織された手練手管にあるのであって、理論は単なる2次的な調味料にすぎないと考える新しい「指導者」のカードルが形成された。

 チェコスロバキア党の「指導者」およびその候補者たちのグループや徒党の闘争の中で、真っ先に考慮されたのは、「トロツキズム」との闘争が遂行されている機関で速やかに自分のパスポートに裏書きしてもらうことであった。これはたやすいことであり、しかも成功を約束するものであった。シュメラルやイレックのような輩は、敗北に次ぐ敗北をこうむり、至るところでその完全な破産を暴露してきただけに、なおさら彼らは、自分たちがほんの少しも理解していない永続革命論に対して倦むことのない攻撃を行なうのである。

 チェコ党の現在のエセ左翼指導者は理論と戦略の基本問題に関してはシュメラルやクライビヒやイレックやその仲間たちと大差ない。彼らは後者の連中とともに、共産主義インターナショナルの衰退の時代の開始を公式に意味したコミンテルン第5回大会の最も深刻な誤りを実践してきた。これらのエセ左翼スターリニストは、中国革命の崩壊に対する責任を全面的に負っているだけでなく、イギリスの労働組合主義者と労働党官僚の地位の強化にも責任を負っている。彼らは、パーセル、クックとの、蒋介石、汪精衛との、ラディッチ、ラフォレットとのブロックを実行してきた。彼らは、「農民インターナショナル」および「反帝国主義同盟」の喜劇的フィクションを支持してきたし、支持している。彼らは、ブハーリンの指導下で第6回大会の指令を従順に実行してきた。同大会は、新しい発展段階において、第5回大会と同じく、日和見主義的前提条件とエセ革命的結論とを結合するものであった。官僚主義的暴力の方法によって党の「一枚岩性」を擁護してきた彼らは、主流派とともに、党を多くのグループや徒党に分解することに寄与してきた。紙の上で分派を禁止することによって、党のみならず労働組合をも分裂に至らせた。現在すでに、党がはなはだしく弱体化したことを証明する必要はない。しかし、最悪かつ最も恐るべきことなのは、党が今なお、その敗北および絶え間ない弱体化の原因を公然とそして全面的に問題化することがまったくできないことである。改良主義分子はまさにこうした状況を利用している。昔から周知のことだが、あらゆる思想的無定形さ、あらゆる理論的混乱、綱領の分野でのあらゆるいいかげんさは、日和見主義者にとって絶好の狩り場なのである。われわれの面前で繰り広げられているのは、チェコの社会民主党がますます強化され、共産主義の右翼が独自の組織として形成され、その隊列のうちにまったくあてにすることのできない一定のプロレタリア分子が引きつけられていっている事態である。

 先進的なチェコ労働者に現在何よりも必要なのは、正しい政策の前提条件としての理論的明確さである。本書は、チェコスロバキア共和国の内部問題にまったく触れていない。しかし、それにもかかわらず、本書はチェコスロバキアの先進的労働者の注意を受ける一定の権利を有していると思う。中国革命ないしイギリスのゼネストの敗北の原因に関する明確なマルクス主義的見解を持つことなしには、そしてスターリンの中間主義政策を、その2つの段階ともども正しく正確に理解することなしには、チェコスロバキアにおいて正しい政策を実行することはできないからである。スターリンの政策における2つの段階とは、彼が、他のすべてのエピゴーネンとともに、日和見主義的前提からまったく日和見主義的な結論を引き出していた1925〜28年の段階と、この政策の結果に驚愕して、われわれの批判の打撃を受けて、無思慮で矛盾と冒険に満ちた「左翼路線」の時代を開きつつ、それと同時に右への新たな転換への道を模索している1928〜29年の段階である。

 エピゴーネンの時代における共産主義インターナショナルの理論と戦略の諸問題については、すでに私は『コミンテルン綱領草案批判』〔『レーニン死後の第3インターナショナル』〕の中で分析しておいた。本書は、これらの論争問題の一つ、すなわち永続革命論に捧げられている。しかし、この問題は、私の政敵たちの努力のゆえに、そして部分的には状況そのものの論理に押されて、他の論争問題のほとんどすべての理論的前提を包含するほどに広がりを持つに至っている。まさにそれゆえ、永続革命論の起源と意義を理解することなしには、思慮ある労働者は誰1人として、現在エピゴーネンが実行している、マルクス主義から日和見主義への深刻な移行について正しい理解を得ることはできないのである。

 以上のことから私は、本書がチェコスロバキアでもしかるべき読者を見出すだろうと期待している。

 エリ・トロツキー

 コンスタンチノープル、1929年12月17日

  訳注

(1)シュメラル、ボフミール(1880-1941)……チェコスロバキアの共産党指導者。1897年にチェコスロヴァキア社会民主党に入党。1904年に党中央委員。1911年に国会議員。第1次大戦中、最初は愛国派で、後に反戦派。1914〜17年、チェコスロバキア社会民主党の議長。1921年、チェコスロバキア共産党を創設し、その議長に。1922年、第4回コミンテルン世界大会に参加。その後ロシアに滞在し、コミンテルンの仕事に従事。ロシア党内での分派闘争においてスターリン派を忠実に支持。1935年にチェコに戻り、上院議員に。1938年にソ連に再移住。そこで死亡。

(2)クライビヒ、カレル(1883-1966)……ドイツ人でチェコスロバキア共産党の指導者、スターリニスト。1902年に社会民主党に入党。1921年のチェコスロバキア共産党の創設に参加し、ズデーデン地方のドイツ部を組識。1921年のコミンテルン第3回大会で極左派の一人として「攻勢理論」を支持。同大会で執行委員に。1935年に共産党上院議員に。1950〜52年にモスクワ駐在大使。

(3)イレック、ボフミール(1892-1963)……第1次世界大戦前はチェコ社会党の幹部。第1次大戦中は当初愛国主義の立場に立ったが、その後左傾化。1921年のチェコスロバキア共産党の創設大会で書記および中央委員に選出。極左派の代表的人物となるが、その後、ブハーリン主義者に。1928年にコミンテルン常任幹部会員になるが、1929年の党の極左転換とともに指導部を解任され、さらに数ヵ月後に除名。除名後はチェコ社会党に協力し、戦後は西側へ亡命。アメリカ合衆国で死去。

  

目次)(チェコ版序文)(独英版序文)(仏版序文)(序論

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